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36.ゆっくりできない日常生活 3



「今から食べられるんだから、過去のことはいいじゃねーか」


「うう……」

 紅葉は小さく唸る。

 目の前に迫っていた紅葉の気配が遠のいていく。おそるおそる目を開けると、紅葉は椅子に背中をつけてふんぞり返っており、腕を組んでそっぽを向いている。


 愛華もいつの間にか戻ってきている。

 左手に持った丸いお盆の上には、四枚の皿と四本のフォーク、ケーキを切り分けるための包丁がのっている。

 もう片方の手には大きめのお盆を持っており、四組のティーカップとソーサー、陶器製のティーポット、角砂糖を入れたガラス容器がのっている。おっぱい談義をしている間にお茶の用意までしていたらしい。

 目の前に配られた皿やティーカップは初めて見るものだ。いつの間に買ったのやら。



「すこし考えてみたけど、納得できない。蓮ちゃんのものは私のものだもん!」と、紅葉はふんすと息を荒げる。

「おまえなぁ……聞く人によっては誤解を受けるぞ……」

「誤解? なにが?」と、紅葉は怪訝な顔をする。


「ええ、まあ、大胆な告白は女の子の特権ですし、私たちは気にしませんから……。ねえ、美華?」と、愛華は遠慮がちに意見を述べると、続く言葉を美華に譲る。


「ええと、私はケーキ食べられればなんでもいいかなって……。でも、お姉ちゃんを許す気にはなれないかな」

 美華はぽつりと言う。


「そう……」

 愛華はわざとらしくしょんぼりとする。愛華がこんなにもあっさりと引き下がるとは思えない。だが、とにかく引き下がった。


「美華ちゃん、愛華さんがかわいそうよ。それに、仲直りしないでケーキを食べても、ちっとも美味しくないわよ」と、紅葉が言う。


 もっともな意見だ。だが、紅葉は事情を知らない。それなのに、美華だけを責めても仕方がないだろう。


 ふと、愛華はニヤリと口元を緩める。何食わぬ顔でお茶を淹れているが、その顔は何かを企てているらしい。


「うーん、確かにそうだけど……でもね……」と、美華はたじろぐ。紅葉の言葉には響くものがあるらしい。


 ……そういうことか。愛華の企てを理解した。


 愛華は自分で謝っても効果は薄いと踏み、第三者に口添えをさせようと仕向けたのだ。そうだとすれば紅葉が適任だし、むしろ紅葉しかいない。


 美華を援護しようにも、紅葉を咎めるのは愛華のダメージにはならないし、愛華を責めても紅葉にとやかく言われるだけで愛華のダメージにならない。

 美華をフォローするためには、美華のことを責めなければならない。そうと決まれば話は早い。


「そうだぞ、美華。愛華のことを許してやってもいいじゃないか」

「蓮さんまで……」と、美華はシュンとした声を漏らす。


「紅葉さん、蓮さん、ありがとうございます。ですが、私は美華に許されるべき人間ではないのです。もっと反省しなければいけないんです」と、愛華はもっともらしいことをいう。愛華は駆け引きで言うところの『引き』がうまい。

 だが、俺が相手なら話は別だ。


「愛華は『ブラヌンマスター』になるために必死になって練習してたんだ。大目に見てやれよ」


 『ブラヌンマスター』という言葉に、三者三様の感情を抱く。紅葉は疑問、愛華は危機、美華は納得といった具合だろうか。


 紅葉は『ブラヌンマスター』という言葉を理解できないらしく、わからない時によくする顔をしている。今回の件の詳細を知らなければ、意味の真理にたどり着くことはないが、一生懸命考えている様子だ。


 愛華は言葉の意味をいち早く察知すると、うっすらと浮かべていた嫌味な笑顔をこわばらせる。そして、手を止め、息を呑み、目を泳がせる。愛華のことだから、この後の会話の展開を考えているのだろう。


 美華は自分に向いていた矛先が、実は愛華に向けられていたということに安堵し、納得したような表情を見せる。


「ねえ、蓮ちゃん、そのなんとかマスターってなんなの?」と、紅葉は言う。



 口から出ようとした言葉を一度保留し、考える。


 ここは分岐点である。頭の中で誰かが言った。


 紅葉の疑問を解決するということは、愛華にとって不利益な情報で彼女を陥れるということだ。それによって、俺の評価が上下してしまう。

 愛華からの評価は大事だ。生活に直結する。日常生活を送る上で不可欠なものに直結する。

 しかし、愛華を庇うということは、美華にとって不利益なことであり、こちらの白とも黒ともつかない態度を不審に思うだろう。


 当初の目的の通り、紅葉に勘付かれることなく愛華を牽制けんせいしつつ美華を庇う事が出来たのだから、これで充分だろう。

 この場の雰囲気を読むに、この後、愛華は美華に謝るつもりだろう。俺が下手に口出ししてややこしくするよりも、それとなく煙に巻いてこの話を終わらせた方が良さそうだ。


「紅葉は知らない方がいい」

「ふぅん……そういうことなら仕方ない」と、紅葉は納得する。聞き分けのいい幼馴染みで助かる。


 愛華はホッとしたような表情を見せ、ケーキを切り分ける。

 取り分けたケーキを持って、ソファーの方に歩いていく。美華の前で立ち止まると、その場でひざまずき美華を見据える。

 美華はテレビから視線を外すと、姉の方を一瞥いちべつしてから目を瞑った。


「美華、ごめんね。お姉ちゃん、美華と一緒に暮らせるからって、少し舞い上がっていたみたい」

 ポツリポツリと紡がれる言葉。

 妹に謝る姉の姿と、無言でムッとしながらもケーキの取り皿を受け取る妹の姿。

 二人の様子を見るに、仲直りできたみたいだ。


「さてと、私たちもケーキ食べましょっか」

「はい……!」

 愛華の溌剌とした声に、紅葉は大きくうなずいた。

 俺は美華に向かって小さくガッツポーズを送る。無事に仲直りできて良かったと思ったし、なんとなく、そうしたかった。

 美華は笑顔を見せながら、フォークを握りしめた拳でそれに応えた。




「紅葉さん、今日はありがとうございました。またいつでもいらしてくださいね」と、愛華は澄んだ声と穏やかな口調で言う。

「ありがとうございます。近いうちにまたお邪魔しますね。今度は、私がお土産を持ってきます」

 紅葉は玄関扉の向こうから、愛華に向かって笑顔をみせる。


 全開になった玄関扉。夕日に照らされた紅葉の笑顔。すっかり薄暗くなった玄関前の廊下から、彼女を見送る。

「じゃあな、紅葉。気をつけて帰れよ」

「うん、ありがとう。じゃあね。あ、美華ちゃんも、またね」


 俺の隣に立っている小さな人影が揺れる。紅葉に向けて小さく手を振っている。


「また明日ね、紅葉お姉ちゃん。バイバイ」

「うん、またね、バイバイ」




 紅葉が帰り、居間にはテレビ番組の音声が響く。

 ひとつ、気になる事がある。それを聞いてみよう。


「あのさ、美華」

「はい、美華です。どうしました?」

「さっき、紅葉が帰るときに、『また明日』って言ってたけど……」

「ああ、また明日、ですね。そのままの意味ですよ」


「…………え、つまり?」

「つまり……私、蓮さん達の学校に転入するんです……! へへへへー!」


 あどけなさを残す美華の言葉。

 背筋に冷たいものを感じる。同じ学校へ通う。ということは。

 彼女に……俺が、学校で嫌われていることが……バレてしまう……!


「あー! 楽しみだなぁーー! 毎日蓮さんと一緒に登校して、毎日蓮さんと一緒に帰って、蓮さんと同じ布団で寝て……むふふふふ」

「同じ布団では寝ないが。…………どうしよう……あ、愛華ぁ…………」

「蓮さん、仮病なんて、めっ、ですからね」

「だよなぁ……ああ……」


 美華は希望に満ち溢れた笑顔を向けてくる。眩しいと言うか、痛い。

 明日からの一週間も、先が思いやられるな……。


「魂が、抜けている」と、美華は言う。

「そっとしておきましょう、美華。……きっと彼には、あの夕陽が、地獄の釜が口を開いたように見えているはずよ……」と、愛華はそれに答える。

「おお、ジャパニーズ世紀末……」


 美華の言葉が、耳の奥で反響している。


 地獄……そうだな、地獄の始まりだ……。

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