33.1:3:おそうめん
直径0.7ミリ。長さ19センチ。円柱形。
透き通るような白さが、銀色の鍋にゆらりと漂う。
これぞ夏。夏の風物詩。食欲のない朝を越え、昼か夜かに食卓にその姿を見せる。
袋の裏に書かれた調理方法を見ながら、菜箸を片手に、鍋の中を軽く混ぜる。
ふと、視線を落とす。袋の下には6桁の数字がかかれている。そのすぐ隣には賞味期限の文字。
一年半後まで保存できるらしい。
このそうめんは、あと一年半もの間、美味しく食べることができるというのだ。
つまり、向こう一年半もの間、たとえ春でも、秋でも、冬でも、そうめんが食卓にのぼる可能性があるということだ。
この時期に食べるのは、少し気が早いように思う。風情的に。
あと数ヶ月も経てば、なんの気兼ねもなく思う存分味わうことができるのだが。
では、なぜ、この時期にそうめんを茹でているのだろうか。
それもこれもすべては料理スキルが壊滅的だという理由以外に他ならない。
だって、茹でるだけでいいんだもの。決められた時間茹で、水で冷ませばそれでいい。包丁を使わずに調理できるって素晴らしい。
その点、包丁を使うような料理はダメだ。
どんなに良い食材が山と積まれていようとも、切る手間があるだけで一気にハードルが上がる。
たとえ季節外れと罵られようとも、今日の昼はそうめんを食べる選択肢しかない。そういう理由があるのだ。
……よし。うまく茹でられた。
誰がどう見てもそうめんだ。ひとりで作れた。これを見たら、紅葉のやつ驚くだろうな。
そうめんを作り終え、一息つく。
一息ついたところで、正気に戻る。
五月に、そうめんを出して客人をもてなす。
……果たしてこれで良いのだろうか。
居間で待つ二人の元へ、そうめんを運ぶ。箸やお椀をお盆に一緒に乗せる。
廊下で立ち止まる。居間への扉の前で、立ち尽くす。
……やっぱり、待てよ。
簡単に作れるからって作ってしまったけど、相手への配慮はあるのだろうか。
五月のそうめん。誰が見ても明らかに去年の夏の残り物だって察しがつく。
紅葉がうちに来てくれたのだ。
せっかくだから、もっと良いものを食べてもらうべきなのでは。
それをこんな去年の残り物を食べさせるなんて、「貴様ごときこれで充分、最高のグルメだろう?」みたいな、紅葉の人間性を見下したメッセージとも受け取られかねない。そうめんは悪くないのだが、その保存性の高さと手軽さが仇となるのだ。
悪くない。そうめんは悪くない。悪いのは、俺なんだ。手間を惜しんだ、俺なのだ……!
こんなものを持っていって良いのだろうか!
果たしてこれを……!
これを……!
ちゅるり。耳のすぐそばで、液体的なものを吸う音がした。
虚をつかれ、全身の力が抜け、身体がビクンと跳ねる。
そうめんの入った大皿から水が派手にこぼれる。水は床に落ちず、全て盆の中に落ちたらしい。
悲鳴を上げようとした口元を、何者かにそっと押さえられる。少し冷たい感触が口の辺りに広がる。それと同時に、背筋が凍る。
昨日も、愛華にこうされたっけ。
「私ですよ、蓮さん」
後ろを振り向くと、愛華の姿があった。
「ただいま帰りました。……いやはや、覗きとは感心しませんね……」
「覗きについては、お前にだけは言われたくない。あと、おかえり」
「……。で、あちらは?」
ドアの隙間から紅葉を見て、尋ねる。
そういえば初対面だな。
「紅葉だよ。ほら、あの、幼馴染みの」
「あー、はいはいはい。あの方が蓮さんの唯一の友人であり腐れ縁の……、なるほど。蓮さんにはもったいないくらい器量の良さそうな方でいらっしゃいますね」
「あー。うん、……さりげなく傷付けるのやめような。お互いのために」
「……はあ。あの、美華の事なんですけど、あの子、なんで私の着物を着ているんですか?」
「分からない」
「……美華は着付けなんてできないはずなのに、しっかり着てるし……あの結び目は誰かに結んでもらった結び方よね……。まさか知り合ったばかりの紅葉さんに頼むような子じゃあないし……蓮さん?」
何かを推理するように、顎に指をクイっと添えて愛華はこちらをちらりと伺う。
まったく、勘のいい女は嫌いだ。
「なんですか」
「ああ、蓮さんが教えたんですね……」
嘘の通じない女はもっと嫌いだ。
「いや、だってさ、はだけた状態で放っておくわけにもいかないだろ。教えたくて教えたわけじゃないし」
「はだけた? 誰が? ……まさか、美華? 美華ですね? 見たんですか? 私の美華の、あられもない姿を見たんですか? ……ゆるさん……ッ!」
ふわりと、盆が軽くなる。
ゆらりと、そうめんの入った皿が宙に浮く。
鈍器のように振り上げられる。間違いなく、俺の脳天に振り下ろすための予備動作だ。危ない。
冗談では済まさない。彼女の顔がそう語る。
「おい……待て! その手に持っているのは皿だ。それで殴っても重量が足らない。俺を殺せない。俺を殴ればお前は傷害で罪に問われる。間違いなく有罪だ」
「それがどうしたんですか! それが美華のお腹のお肉を、すべすべな肌を、見てもいいという理由にはなりません!」
「一瞬でそんなに見れるか! それに、ここからが問題だ。お前が犯罪者になれば、美華は犯罪者の妹になる。彼女の人生に足枷をつけるような、そんな無駄なことはやめるべきだ」
「……ッ、た、たしかに! ああ、私はなんて馬鹿なことを……すいませんでした、蓮さん」
「いいんだ。とにかく一旦落ち着こう」
「ええ……。あ、忘れないうちに。お前って三回も呼ばれましたので、三回謝ってください」
「は? ……ああ、お前って呼んでたわ。ごめんなさい。すいませんでした。申し訳ありません」
「よし。では、これをどうぞ」
「あっ、ども……」
愛華の手から大皿を受け取る。
ほっと一息ついてから、居間の様子を伺う。
愛華はため息をひとつこぼす。
「コソコソしてないで、ひと思いに踏み込めばいいのに」
「どうやって」
「こういうのは、勢いで行けば間違いないです。勢いでどうにかなるのが、人生ですからね」
そうは言うけど、十何年かしか生きてないのに、人生を語るのは早いんじゃないかな。まあ、何でもいいけど。
「そういうことにしておくかな」
「そう。何事も自分の直感と勢いに身を任せればなんとかなるものですよ。頭も必要ですけれど」
「急に出てったり戻ってきたり、直感と勢いだけで行動してるようにも見えるんだけどね」
「まあ、それはそれとして。出前っぽく『へい、おまち!』なんて登場の仕方はどうでしょう」
「うーん。じゃあ、それでいってみよう」
居間の扉を勢い良く開ける。こちらを見ている二人を勢い良く見つめ返し、勢い良く声を振り絞る。
「へい、おまち!」
「…………」
「…………」
まあ、そうだよな。沈黙が訪れるわけだよ。
よっこらしょ、と、テーブルに皿を置く。
皿はごとりと音を立て、中に入ったそうめんはゆらゆらと揺れながら皿のへりを左右に行き来している。
こちらを冷ややかに見つめつつ、紅葉が口を開く。
「……あのね、蓮ちゃん。全部筒抜けなんだよ……扉の隙間、空いてたからさ」
「聞こえてたか……薄々そう思ってたよ」
「で、何の用?」
「お昼ご飯作ってきた」
「お昼ご飯? ……蓮ちゃん、あなたそんなこと出来る訳ないでしょ」
「昨日までは料理なんてする気無かったけど、いろいろあって」
「ふぅん」
「こんな暑い日に、部活で疲れてるのにわざわざ来てくれたんだから、なにか涼しくなれるものはないかと思って。紅葉のためにそうめん作ってきた」
「それ、今考えついたことでしょ? 本当は、作りやすいからって理由でしょ?」
「そんなことを突き詰めたところで、お互い幸せにはなれない。紅葉のために作ったんだから、それで良いじゃん」
「えー……んー、まぁ、それなら良いんだけど……そっかそっか、私のためにね……」
紅葉はいじらしくそわそわとし始めるし、なんだか照れくさそうにしている。
美華と愛華はこちらを見てコソコソと話をしている。顔を見合わせて、コクリと首を縦に振る。
「えー……仲がよろしいようで何よりですけど……私達、お邪魔じゃないかしら。ねえ、美華。二人であっちに行きましょっか」
「ね、お姉ちゃん」
「余計な気を遣わないでくれ」
「そ、そうよ、……もう。ここにいて頂戴」
「うんー、じゃあ、居ようかな。……ていうかさ、お姉ちゃん。今さ、さも当然のように話しかけてきてたけど、私はまだ怒ってるからね。距離感は大事にしよう」
「ひえっ……ごめんなさい、美華。お姉ちゃん、もうあんなことしないからね」
「分かればいいんだよ。あとさ、似たようなこともしちゃダメだからね。お姉ちゃん、やり口を少し変えれば良いと思ってるんだろうけど、そんなの許さないからね」
「ひええ……干からびる……」
少し干からびた方がいいよな、なんて思いながら、箸をつける。全員が別々の理由で沈黙しつつ、そうめんをすすった。
ある程度箸が進んだところで、お互いがお互いをチラチラ見あっていることに気がついた。
紅葉の為にも、紹介くらいしておこう。
「えー、それでは、改めまして」
「なによ、急に」
「…………」
「改めるって、何を?」
「えー、えー、……こちら、メイドであり家事の一切を取り仕切る、水無月愛華さん。そしてこちらが彼女の妹で居候の水無月美華さん。こっちが幼馴染みの秋名紅葉さん」
「あ、よろしくお願いします。紅葉です」
「美華です」
「遅れ馳せながら失礼いたします。水無月愛華と申します」
「紅葉は俺と同い年で、愛華は俺より一つ歳上。美華は俺より一つ歳下。……で、間違いないよな?」
「ええ、そうですね」
「一つ年上になると、こんなに大人っぽくなれるんだ……」
相槌を打つ愛華と、そんな愛華を見て唸る紅葉。美華は無言でこちらを俯瞰している。
「初めまして、紅葉さん。蓮さんからたまにお話を聞いていたので、どんな方なのか、楽しみにしていたんです。会えて光栄です」
白とも黒とも取れない発言をしてから、愛華は紅葉にお辞儀をする。紅葉は少し慌てた様子で、手をパタパタしながら「光栄だなんて、とんでもない」と言葉を濁す。
「こちらこそ、蓮ちゃんからメイドを雇ったって聞いて、正直、こいつ頭いかれたか、なんて思ってました。でも、愛華さんがメイドさんやってくれるなら、私も雇いたいなって思いますよ。しっかりしてそうな人でよかったね、蓮ちゃん」
揃いも揃って、言葉の端々の俺への扱いが酷い気がする。




