32.エロ製造機は伊達じゃない
十センチほど開かれた玄関扉の先には、紅葉が立っていた。
部活の帰りらしく、学校指定の紺色のジャージに身を包み、竹刀袋とスポーツバッグを肩にかけていた。下は短パンで、上には長袖を着るのが紅葉スタイルだ。
玄関からこちらを覗いているが、美華が出迎えた事に驚いている様子で、目をパチクリさせている。俺がすぐ近くにいることにも気付いていない様子だ。
それにしても、美華のやつ、ムッとしている。
美華と紅葉は初対面。それなのに、紅葉は華麗にインターホン十六連打をやらかしてしまったのだ。印象は最悪と見て間違いない。
「……すいません、呼び鈴を何回も押さないでいただけますか?」
丁寧な物言い。だが、身じろぎひとつしない後ろ姿とその身体から発せられた言葉の抑揚からは、とげとげしさが前面に出てしまっている。
紅葉はきっと、玄関を開けたら俺が立っていて、他愛も無い話をして適当にお茶でも飲んで帰るつもりだったんだろう。
それなのに、現実問題として天使みたいな子が目の前にいるのだ。
目の前で繰り広げられるイレギュラーな出来事に、紅葉は目をパチパチさせながら、美華の顔をまじまじと見つめている。
「えーっと……立花蓮さんのお宅で間違いありませんよね……?」
「そうですけど、どちらさまでしょう? 蓮さんとはどういったご関係で……?」
「関係? えっと、幼馴染みです」
「はあ。貴女が……幼馴染みの……ふーん……」
……なんだか険悪な雰囲気を感じる。少しハラハラする。
でも、紅葉は空気を読むのが上手い。そして空気を変えるのも上手い。美華をいなしつつ、適切に対応してくれるはずだ。
「そうそう。幼馴染みというか、腐れ縁でね。それはそれとして、……親戚の方ですか?」
「私? 私は親戚じゃないです。全くの赤の他人です。同棲はしてますけど」
「ということは、メイドさん?」
「違います。メイドをしているのは私の姉です」
「そっか。いやね、さっき、メイド服を着たすーっごい美人のお姉さんが走って行ったから、もしかしたらって思ってね、来てみたの。あなたのお姉さんだったのね」
「……ええ、まあ、姉は美人ですよ。……そう、美人」
「そうよね。ほんと、あんなかっこいい女性はなかなかいないわよね。憧れちゃうなぁ」
「ええ、私の自慢の姉ですからね」
「そうよね。私も自慢したいなぁ。ああいうお姉さんが欲しかったわ。……さっきから思ってたんだけど、あなたもすっごく可愛いわね」
「ゔぇっ……そ、そんなことないです……」
「いいえ、そんなことあります。お姉さんは嘘つかないの」
「あー……うー……あ、ありがとうございます。……お姉さんだって、キラキラしてて可愛い」
「うふふ、ありがとう。……今日ね、部活で疲れててね。ちょっと休んでいってもいいかしら?」
「そうなんですか? 疲れてるんなら仕方ないですね。休んでいってもいいですよ」
「ありがとう。私の家、近くなんだけどね。たまには蓮ちゃんとお話しするのもいいかなってね。アポ無しだけど」
「アポなしでも、私が説得しますから。さ、入って、どうぞ」
「そう、ありがとう。おじゃましまーす」
「あ、お茶淹れてくるので、適当に休んでてください」
「あ、うん、ありがとー」
一連のやりとりを終え、開かれた玄関から紅葉が入ってくる。
入ってくる瞬間の紅葉の表情は、上品な笑顔をたたえているものの、自分を良く見せたいと思っている人特有の光沢を放っていた。
「……よっ」
「ひゃっ! 蓮ちゃん、いたの!?」
こちらが声をかけた瞬間、鍍金は瞬く間に飛散する。いつもの純朴な少女へと戻る。
「いたよ」
「い、いたならすぐに出て来ればいいのに。……蓮ちゃんのことだから、私がどう対応するか、笑いながら見てたんでしょ?」
「随分な言われ様だな。どのくらい背伸びするか見てたんだ」
「よっぽど性格悪いじゃない」
「お互い様ってことで、な」
含みをもたせてそう言うと、紅葉は悔しそうに唇をきつく締める。
「おじゃまします」
「どーぞ」
玄関から居間へ移動する。紅葉は入り口の近くに荷物を置くと、ソファーの上へダイブした。
フゥ、と息を一つ吐くと、鍍金の輝きが再び息を吹き返す。
手近な椅子に腰掛け、紅葉の様子をうかがう。
「私はね、第一印象こそ大事にしたいの。そのために、中学時代っていう下積みの三年間を耐え抜いたんだから……!」
「あー、うん。紅葉の頑張りは間近で見てきたから分かるけどさ、もっと肩の力抜いてもいいんじゃないの?」
「肩の力抜きすぎて友達0人とか、笑えないよ。多少取り繕ってでも、よく見られた方が生きやすいのよ、私には。……肩凝ったから、少し揉んで」
ソファーから起き上がり、背中をこちらに向ける。肩揉みは毎回やっている事なので今更驚きもしない。
「はいはい……。……周りの視線が常に自分に向いてたら、俺だったら生きにくいけどなー。それなら、一人の方が気が楽だと思うんだけど」
「ひとりぼっちで灰色の青春を過ごすよりはいいじゃない」
本当にこいつは、ああ言えばこう言う……。
そう思いつつ、言葉を飲み込む。代わりに彼女を見つめながら、昔の彼女の姿を重ね合わせる。
高校生になった紅葉は、キラキラしている。
派手になったとか、チャラチャラしているとか、そういうことではない。
あくまでも模範的で分け隔てなく接して、周囲に笑顔を振り撒けるような、老若男女問わず人気を集められる人間になったのだ。
学校に一人いたら奇跡。そんなレベルの、周囲に癒しを与えられる唯一無二の存在に、彼女はなっているのだ。
幼馴染みとして、彼女がそういう存在になっていることに誇りを感じる。
でも、同時にそれが心配でもある。
今の彼女は、明るくて人当たりのいい笑顔の素敵な秋名紅葉を、背伸びをしながら演じているのだ。
彼女は元々、そんなに活発な性格ではない。小学校の低学年までは明るかったが、大きくなるにつれて目立たなくなっていた。
小学校の高学年の時、ちょっとした事が原因でクラスから浮いてしまったことがある。中学に進学する頃には仲直りしていたが、紅葉はそれがトラウマになってしまったらしい。
トラブルに見舞われたとしても自分の立ち位置が揺るがないようにするには、手の届かない存在になるか、底辺にいる存在になればいい。
そんな訳で、中学時代の三年間で、高校デビューに向けて手当たり次第特訓していたのだ。
料理家事裁縫お菓子作りパソコン勉強体力作りコミニュケーション能力……人間を形作るスキルのほとんどを高水準にしていった。
そのたびに練習台として練習に付き合っていたが、コミニュケーション能力についてはまだまだ未熟らしく、常に意識していないと素の自分が出てしまうらしい。
なので彼女は何年か後の自分をイメージして、それらしく振舞う。キラキラした鍍金を纏うのだ。
その鍍金も、部活が始まる頃にはガタガタになるらしく、精神的にも窮屈で肩が凝ると話している。
彼女の在り方と、俺の在り方は真逆だ。俺は立ち位置が揺るがないように、底辺にいる。
それでも、印象を良くしようと、頑張ろうとしている。どうにもうまくいかない訳だが。
いつになるかはわからないけど、いつか、彼女の隣を堂々と歩けるような、周りから頼りにされる人になりたいと思っている。
「なあ、紅葉」
「なぁに、蓮ちゃん」
「お前の隣を歩くには、俺はあとどれくらい、何を頑張ればいいのかな」
言ってしまってから、思わせぶりな発言だったと反省する。一人で身をよじらせながら、恥ずかしいのを我慢する。
こちらの様子を知ってか知らずか、紅葉は小さく笑ってから答えた。
「……蓮ちゃんはそのままでいいよ。その方が私、落ち着くから」
「そっか……」
「そうよ。……しいて言うなら、髪、黒い方が目立たなくていいかもね。でも、その赤茶色の髪じゃないと、蓮ちゃんじゃなくなるのかな」
「髪を黒くした程度で、そんなに変わるとは思わないけどな」
「変わるよ、きっと」
「変わるか。でも、黒くしたら紅葉が困る……のかな」
「んー、別に困る訳じゃないけど、なんかね。別人って感じかな。蓮ちゃん視点で、背伸びしてる私を見るのと同じ感覚を味わうんじゃないのかな、なんて」
「あー。なるほど。確かにそんな感じするかも」
「ね。染めてもいいけど、よほどの決心を固めてからにした方がいいって事だね」
「そうだな。決心してから染めるよ。……はい、肩揉み終了」
肩を三回、トントントンと手のひらを置くように叩く。いつの間にか出来た終わりの合図で、紅葉は肩をぐるぐる回し始める。
「んー、ありがと。おー、だいぶほぐれたよ〜」
「それは良かった。あんまり無理しないようにな」
「うん、ありがとう。……それはそうとさ、あの子。お茶淹れるのに随分と時間が掛かってるようだけど、大丈夫?」
「……確かに。お湯でも沸かしてるのかな……ちょっと見てくる」
台所へ向かう。
台所には、衣服が散乱していた。
何事だろうと考える暇もなかった。
「ひぇぇ……れ、蓮さんヘルプ……」
涙目でこちらを見ながら助けを求める美華の姿。昨日の昼、愛華が着ていた着物と割烹着を着ようとしていたらしい。
でも、着付けの仕方が分からないらしく、身ごろも整えられないし、帯も締められない。だらしなくはだけたすけべな着物姿だけがその場にあるのだ。
命名しよう。彼女はエロ製造機である。
「どういう状況だ、これは……」
「お姉ちゃんの真似して、カッコよく決めようとして……ううぅ……」
「な、なるほど……とりあえず着付けをすればいいって事だな」
「そうです。なんとか、私を助けてください」
「はいはい……って、お湯すら沸かしてないのかよ……」
「あー……すいません、忘れてました。……こんな時、お姉ちゃんならパパパッとやって、終わるんですけどね」
「そうだな。愛華は要領いいからな」
電気調理器に火を付け、ポットと鍋に水を入れて沸かす。
適当な理由をつけて少しでもはだけた姿を見ておきたいというわけでは無いが、着付けをする前に、色々準備しておきたい。
「蓮さん、なんでお鍋に水を?」
「んー、そろそろお昼ご飯の時間だからさ。そうめんでも茹でようかなって」
「おー、出来る男……!」
「愛華ならこうするだろうなって思ってさ」
「うんうん、確かにお姉ちゃんならそうします。お姉ちゃんはタダでは起きない女ですから!」
そういって、美華は胸の前で腕組みをする。
容赦なく寄せられた乳。クレバス並みの谷間が出来る。
俺があれこれ小細工しなくても、こういうさりげない日常にこそ、エロ製造機は力を発揮するらしい。
……いかんいかん。さっさと着付けをしなければ。
着物の身ごろを合わせ、腰紐を締める。
腰紐は腰とお尻の境界に斜めに締めるものなのだが、腰紐を閉めた瞬間に肉付きのいいお尻が目の前に広がる。
なるほど、愛華が我慢できないのも無理はない。鷲掴みにしたい衝動を抑えつつ、シワを伸ばす。
帯を一文字結びにし、着付けを終える。いろんなところに手が触れてしまって気まずかったが、なんとか着付け終えた。
「よし、こんなもんだな」
俯瞰で美華の着物姿を見届けてから、そうめんを茹でるために、まずは手を洗う。
「ありがとうございます……蓮さん、なんで着物の着付けの仕方なんて知ってるんですか?」
「んー……。小さい頃にさ、紅葉とお祭りに行ったことがあったんだけどな。紅葉のやつ、派手に転んじゃって、浴衣がはだけて、どうにも直すことができなくて、お祭りの途中で帰って来たことがあってさ」
「ふむふむ」
「それで、今後同じことがあった時に困らないように、着物の着付けを勉強したんだよ。怪我の功名ってやつだな」
「なるほど……人は学ぶ生き物ですね……」
「そうだな。美華、とりあえず紅葉にお茶を持って行ってやってくれ」
「はーい。あ、今思ったんですけど、部活の後で疲れてますし、冷たい飲み物の方が良かったんじゃ……」
「……たしかに」
「……冷たい麦茶、持っていきますね」
冷蔵庫から麦茶を取り出し、お盆にコップを乗せて、美華は台所を後にした。
「まだまだ愛華のようには出来ないか。……あいつなら……このポットのお湯で、食後のコーヒーなんかを淹れるだろうな。よし、俺もタダでは起きないぞ……!」
鍋の中でぐるぐる回るそうめんを思い描きながら、段取りを頭で考えながら動く。そうめんくらいなら、なんとか調理できそうだ。
 




