27.天使とは、舞い降りるもの 3
がばりと、目の前を金髪が舞う。目と鼻の先に天使のつむじがやってくる。
シャンプーの香りが控えめに鼻をくすぐる。さりげない桃の香り。脇役としての役目を全うし、彼女の魅力を十二分に発揮する。
コホンとひとつ咳払いをし、理性のブレーキをしっかりかけ直す。
……それにしても、この光景、どこかで見たことがある。
経験から言えば、このあと胸ぐらを掴まれて、身体を前後に揺さぶられる。
となると、この手に持ったコーヒーが危ない。彼女の白いワンピースにシミを作ってしまうことになる。
手近にあったテーブルにコーヒーカップを避難させる。
そのあとすぐに、力任せに胸ぐらを掴まれた。
姉妹だからって、こういうところは似なくてもいいと思う。
たいして動揺もしていないが、なんとなく、気のない悲鳴が口からこぼれる。
あの時と同じように「落ち着けよ」なんて言ってみる。
「あ、す、すいません。こんな力任せにしたら苦しいですよね。でもお姉ちゃんはこれで成功したって言ってて……」
「成功って言えるほど成功してないから、真似しなくていいよ」
「そうなんですか! やっぱり、おかしいと思ったんですよ」
おかしいと思ったなら実践するなよ。
内心呆れつつ、彼女の動向を見守る。
こちらの沈黙を肯定的に受け止めたらしく、言葉を続ける。
「……あの、私はお姉ちゃんみたいに何でも出来るわけではありません。でも、できる限り頑張ります。だからこの家の余ってるお部屋、一部屋貸してください。お願いします」
身体を押し倒されるわけでもなく、体を前後に揺さぶられるわけでもない。
胸ぐらだけは掴んだまま、申し訳なさそうに頼み込んでくる。
姉妹でも、こういう風に差が出てくるんだな。
今のところ可愛いし可愛くて可愛いから好感が持てる。
しかし、愛華からの忠告がある。すごくワガママで思い通りにしたがるらしい。
彼女のペースに振り回されないうちに、さっさと話を進めてしまおう。
「部屋貸すって言っても、一緒に暮らすってことだろ。愛華もいるし、俺もいる。思ってるほど自由に暮らせるわけじゃないぞ」
「それは重々承知の上です」
「別に反対するわけじゃないけどさ、心配だよ。この辺り不審者出るし、学校の帰りとか危ないかもしれないぞ」
「通学は心配ありません。ここから歩いて十五分くらいのところに高校がありますから。歩きでも通えますけど、不審者が出るなら自転車で通います」
「そっか。それなら大丈夫だと思う。あと、教科書とか、普段着る服とか、そういう荷物はどうするの?」
「宅配便で送ろうと思っています。あ、金銭面は問題ないです。元いた所より安くなる計算ですから」
「そっか……まあ、二人で住むには広いし、俺は一緒に住んでも大丈夫だよ。愛華は何か言ってないの?」
美華は「あれ?」と小さく呟くと、二、三秒ほど間を置く。なにやら、状況を整理しているらしい。
「えーと、この話を持ちかけてきたのがお姉ちゃんなので……自分の口で頼みなさいね、としか……」
「えー……と……ああ、なるほど。そういうことね」
ふむ、ふむ。なるほど。そういうことか。
ウンウンと頷きながら、胸ぐらを掴んだままの美華の手を払いのけ、のそのそと歩く。台所へ向かう。
台所に向かって、叫ぶ。
「愛華! 俺なにも聞いてないんだけど、どういうこと!」
「蓮さん! そういえばご飯作るって言ってませんでしたっけ!」
台所と廊下を隔てる欄間の下で、鉢合わせる。
顔を突き合わせる。
愛華が引く気配はない。
ならば、俺も引く気はない。
「俺、なにも聞かされてないんだけど! 大事なことなんだから勝手に決めないでよ!」
「蓮さんご飯作ってくださいよ! さっきあんなにベソかきながら頼んできたくせに、なんで私が作ってるんですか!」
「美華がうちに住むってどういうことだよ! この家の主人は俺なんだから、相談くらいしろよ!」
「ご飯作ってくれないなら、妹もろともこの家出て行きますよ!」
「ふ、二人とも落ち着いてよ。二人でご飯つくって、ご飯作りながらお話ししなよ」
「…………」
「…………」
まあ、確かにそうだ。もっともな意見だ。
無言のまま、台所に行き、手を洗う。
愛華も無言のまま、冷蔵庫から食材を取り出し、引き出しから調味料を取り出す。
「なに作るの」
「肉じゃが」
お互いに沈黙したまま、まずは料理の下準備に取り掛かった。
包丁でジャガイモの皮を剥く。
「あのさ」
「なんですか」
「さっきの話なんだけど。先に言っていいぞ」
「……いえ、蓮さんから先にどうぞ」
「いや、愛華が先に……キリがないから、さっさと言うわ。なんで妹がこの家に住もうとしてること、黙ってたんだよ」
「それについては反論の余地もありません。姉としては、美華が来る前から住むのを断られる事態を避けたかったんです。あの子が自分の口で蓮さんにお願いして、それでも断られるなら、あの子も納得いきます。でも、私が蓮さんに伝えて、断られたら、あの子は私を恨みます。私はそれを避けたかったんです。自分のために」
「いや、開き直られても困るんだけど。……んー、まあ、愛華の言うことも分からなくもない。でも、やり方としてはあまり良くないよな」
「じゃあ、どうすればよかったんですか?」
「俺が本人に会いもせず、断ると思うか? まずは相談してほしかった。愛華だって、本来ならうちの親と相談して住んで良いかどうか決めるはずだったんだしさ」
少し間を置いて、手を止める愛華。どうしたのかと思って彼女の方を見ると、唇を結んで立ち尽くしていた。
その目にはうっすらと涙が浮かぶ。あまりにも急に泣き始めるので、思わず見入ってしまう。
「おい、泣くなよ」
「いいえ、泣きます。私、自分の事ばっかりで蓮さんのことなんて考えてませんでした。ごめんなさい」
「俺のこと考えてくれるなら、今は泣くなよ。こんな血まみれの手で、涙なんて拭いてやれないぞ」
……そう、血まみれ。
「……は? え、ちょっと、なんで指切ってるんですか?」
「ついさっき、目を離した時に包丁でやっちゃった。どうすればいいか考えてたら愛華泣き出すから、言いそびれてさ」
「バカ、私なんて差し置いて、さっさと悲鳴あげればいいんですよ! 早く止血してください! ああもう、とりあえず包丁置いてください! 使えそうなの持ってくるので、とりあえずキッチンペーパーで傷口押さえててください!」
無事な方の手にキッチンペーパーが投げ渡される。何枚か千切って、言われた通りに指を押さえる。愛華の方を見ると、救急箱から使えそうな物を見繕っている。
「ごめん」
「ごめんで済むなら医者はいりませんよ。血の量的に傷口は深くないですし、そのまま押さえていてください」
「わかった」
「……まったく、こんなんじゃ迂闊にタマネギも切れませんね」
「……は? タマネギ? まさかお前、俺を騙したのか? タマネギ切って泣くなんて、古典的すぎるわ!」
「蓮さんが思ったよりも良い人だから、困らせてやりたかったんですよ」
「それはどういう意味だよ」
「……もういいです、とりあえず、絆創膏貼っておいたので大丈夫なはずです。野菜の皮を剥く時は、ピーラーを使ってください。芽は私が取りますので、置いておいてくださいね」
そう言って、ペリペリとタマネギの皮を剥き始める愛華。よく見てみると、タマネギはこれから切るらしい。
つまり、さっき泣いていたのは素で泣いていた、ということらしい。
思わず、口元が綻ぶ。
「お前って損な性格してるよな」
「お互い様です」
「上には上がいる」
「手を動かしてください」
はいはいとだけ返事をして、野菜をむく作業に没頭することにした。
数十分後、愛華は三角巾と割烹着を外した。
少し大きめの金属鍋から、湯気が立ち上る。
ふっくらと炊けたご飯と豆腐の味噌汁が食卓にのぼる。ほうれん草のお浸しに添えた鰹節が小さく踊る。
食卓の真ん中に置かれた肉じゃがが容赦なく食欲をそそる。
そういえば、朝ごはんを食べ損ねていた。ハンバーグの精製には失敗したし、朝からなにも食べていない。
お腹はかなり空いている。これから食べる。
きっと、かなり美味しく感じるだろうな。
自然と頬が緩む。笑ったところを見られたらしく、小さく笑われる。
「さてと。食べましょっか。みかー! ご飯できたよー!」
「はーい」
小さく聞こえた返事の後に、ドタドタと廊下を小走りに踏みあげる音が近づいてくる。そのすぐあと、「おおー!」という歓声が耳に入る。
「わー! 美味しそう!」
「美華、肉じゃが好きだったでしょ。お肉多めにしておいたからね」
「うん、好き好きー。お姉ちゃんが作ればなんでも美味しいよ。蓮さんも、手伝ってくれてありがとうございます」
「ああ、俺は皮剥きしかしてないよ」
「それも、ほんの少しだけね。もう危なっかしくて見てられなかったのよ。指も切るし」
「それでも、私は嬉しいかなぁ。いただきまーす!」
美華は笑顔で箸をつける。食べた後、より一層幸せそうな顔になる。
美華の「おいしい」の言葉に、愛華は穏やかに笑う。冷静さを装っているが、内心相当嬉しいはずだ。
二人の嬉しそうな顔を見ていると、なんだかこっちまで嬉しくなってくる。
不恰好なじゃがいもを噛み締める。
うん、まあ。おいしい。ご飯を食べればお腹が満たされる。それだけじゃなくて、なんていうか、心も満たされるんだな。




