23.おいしいご飯を作りましょう 2
朝の日差しにスズメの鳴き声。
鍋のふちからゆらゆらと立ち上る水蒸気。
愛華は普段のメイド服ではなく、着物に割烹着と三角巾という装いで、沢庵を切っていた。江戸時代の人みたいな服装だ。
「あら、思ったより早かったですね」
そう言って、こちらを振り返る。思わず見とれてしまい、息を飲む。普通にしていれば、目を合わせるのをためらうくらいの美人だ。
服装に関しての感想が欲しかったのか、彼女は怪訝そうな表情をこちらに向けながら、「この服、おかしいですか?」と尋ねてくる。
素直に似合うと言ってしまえばいいのだが、なんとなくこそばゆい。
「細いながら煙絶えせず安らかに日は送れど、だな」
着飾った言葉が彼女をより不思議そうな表情にする。案の定、「なんですか、それ」と尋ねてくる。
「露伴の言葉だよ。ああ、穏やかだな、って思ってさ」
適当な解説をすると愛華は納得したらしく二、三回頷く。
「なるほど。そんな朝の一ページに、蓮さんも加わりましょう。そこにあるエプロンをどうぞ。まずは手の洗い方からお教えします」
「基礎から教えてくれるんだな」
「当たり前ですよ。料理の基礎はおもてなしの心。美味しく食べてもらって、喜んでもらうために工夫を凝らすのです」
「ふーん……」
愛華には悪いけれど、とにかく腹が膨れればいいかなとも思う。
作ったことがないからよく分からないけど、食べてくれた人に喜んでもらう経験をしたことがないが故にそう思うのかな。
食べる人のことを思いやって作るからこそ、美味しくできるのだろうか。
「美味しくするためのコツは沢山ありますけど、基本中の基本としては、まずは衛生管理ですね。食中毒は絶対に避けなくてはなりません」
「じゃあ、手洗いとか衛生的な配慮が欠かせないな」
「その通り。なので包丁の扱いよりも先に、手洗いから教えます」
「ご丁寧にどうも」
「いえ。ではまず、蛇口から水を少しだけ出します。手洗い中、水は出しっぱなしです」
「なんで? その都度開けたり閉めたりすればいいのに」
愛華は「よく見ててくださいね」と言って、自分の手の平に小麦粉を広げる。
小麦粉まみれの手で水道のレバーに触れる。レバーの先には小麦粉が付いた。
「小麦粉をばい菌だと思ってください」
「うん……あ、そういうことね」
こちらの様子を見て、ニッと微笑む愛華。黙々と手を洗い、小麦粉まみれになったレバーを掴んで水を止めた。
「衛生的に言えば、不潔な手で触ったこの部分は不潔とみなします。綺麗にした手でいちいち開けたり閉めたりしていたら……こんな風に細菌がべったりつくのです」
そう言って、小麦粉が付いた手を見せる。目に見えない領域だけに教えてもらってはじめて気がつく。
自然と、「なるほどなぁ……」と声が漏れる。
「幸いにも、レバー式の蛇口なので、手を使わずに腕で開けたり閉めたりできます。そうするぶんには、手は清潔なままです。気をつけることは、不潔であろうところに不用意に触らないこと。これに尽きますね」
愛華は人差し指を立てながら、「冷蔵庫の扉とか、引き出しの取っ手とか、あとは……」と独り言をつぶやいている。
「じゃあ、手を洗う前に食材を出したり調味料を用意したりしなきゃならないな」
「そうです。理解が早くて助かりますね」
「教え方が上手だからね 」
「負けず劣らずお上手ですね。それでは、手洗いを実践してみましょう。まずは石鹸の泡を立てます。手の平で爪の間をこすることを意識します。指の間は手の甲側と手の平側の二回に分けて洗います」
「ふむふむ」
「親指の付け根に洗い残しがあるので、親指を握るように洗います。それから、手首も忘れずに」
親指の付け根と手首。たしかに意識しないと洗わない部分だ。こうして洗っていると、普段の自分の手洗いがどんなに雑だったかを思い知らされる。
「泡を流して、指先から腕に向けて水分を拭き取ります。一方通行で、往復しないように拭き取っていきます」
「往復しないように……ああ、往復すると、指先に腕の菌が付くからか」
「その通りです。手洗いの概念はバッチリですね。さてと、そろそろ本題に移りますかね」
「まず教えるのは、包丁の握り方です。包丁で物を切る時は円運動を意識します。切れ味がいいので垂直に力を入れれば切れます。ですが食材を痛めてしまいますし、何より危険です。なので正しい持ち方で物を切りましょう」
「ふむふむ」
「正直、慣れが必要な技術ですので実際にやってみましょう」
「ああ、わかった」
一抹の不安はあるが、なんとかなる気もする。
「包丁は引きながら切ります。ちょっと、指切りますよ! キャー! ダメ! 指先なくなる! 動かないで! …………こうやって、第二関節から曲げて、包丁の側面に当てていれば絶対に切ることはありません」
「ふむふむ」
「調味料は大さじ小さじで統一されています。こんな風に、スプーンからはみ出した部分はすり切って使いましょう」
「すりきり……」
「火加減の基本は見た目であり、火の強さを感じることです。火の強さで、外側だけを焼いて旨味を中に閉じ込めたり、弱い火でコトコトと煮て味を染み込ませたりできます。ポイントは、鍋と火のバランスを知ることですね。金属には熱伝導ってありますよね。アレです」
「ねつでんどう……」
「料理の合間合間には、ちょっとした時間が空くものです。レンジで物を温めている時だったり、お湯を沸かしている時だったり。そういう時間を使って、お肉を入れていた容器だとか、野菜から出た生ゴミだとかを片付けてしまいましょう。もちろん、手洗いの時間を確保して、上手に時間を使いましょう」
「じかんのつかいかた……」
「味付けは薄味から、だんだん濃くしていきます。薄い分には調味料を足せばいいのですが、味が濃いと薄くするしか方法がありません。なので、調味料の量が決められていても、味見をしながら入れていきます」
「あじつけ……」
「あとは、気遣いですね。食べさせたい人が帰ってくる頃を見計らって、料理を作ります。煮物は早めに作って味を落ち着かせたり、温かいうちに食べさせたいなら食器を並べて置いたりして、それなりの段取りをしておきます。大事なのは、思いやりの心です」
「きづかい……」
「……わかったような、わからないような……」
「大丈夫。ゆっくり覚えていきましょう。今日はハンバーグが食べたい気分なので、作ってみましょう」
「ああ、ハンバーグね。ハンバーグ。……どうやって作るの?」
「えっと、まずは玉ねぎを……」
……彼女は一切手出しすることなく、教えることに専念してくれていた。
理解しやすいように教えてくれている。その実感はある。ただ、彼女と自分のスキルはあまりにも差が開きすぎていて、自分の手際の悪さがはっきりと分かる。
塩と砂糖を間違えたり、醤油の瓶を倒してしまったり、あれだけ注意されていたのに包丁で指を切ってしまったり、もう散々だ。
その度に悲鳴をあげてから、「最初は誰でもそうですよ」と優しい言葉をかけてくれる。
彼女の優しさに追い詰められる。出来ない出来ないと言い訳ばかりして、何の努力もせずに出来ないと思っている自分に嫌気がさす。
もっと上手くできるはず。もっと手際よく出来るはず。もっと効率よくできるはず。
そう思えば思うほど、手は止まるし、ミスもする。
ほどなくして出来上がったのは、黒焦げになってバラバラになった不恰好なハンバーグだった。
皿の上は殺風景の一言に尽きる。
付け合わせの色とりどりな野菜も、優しくのぼる湯気も、なにもない。
「落ち込まないでください。……と言っても無理ですよね」
「……やっぱり才能ないんだ」
「いいえ、それは違います。物を作る才能なんてのは、誰にも、最初から備わっていませんよ。十回失敗して、ようやく一回成功できれば上出来です」
「それは綺麗事だよ。目の前のこれはなんだ……焦げた肉の塊だ。失敗だよ」
「綺麗に焦げた、という成功例でもあります」
「なんのフォローにもなってないよ……あーあ……」
何やってんだろうな、俺。
台所をあとにし、廊下に座り込む。
冷えた床がなんとも言えず心地いい。
ハンバーグひとつ、満足に出来やしない。なんとかなると高を括っていたが、自分一人では何も出来ない。
昨日の今日で、紅葉の言葉が胸に刺さる。紅葉には見抜かれていた。結局は、誰かのすねをかじっていないと生きていけないんだ。
普段はなんでも一人でこなせるふりをして、他人を見下していた。蓋を開けてみればなにも出来ないくせにプライドだけは高い、存在自体が嫌な奴そのものだ。
一番嫌いなものに、なりたくないものに、自分自身がなっていたのだ。本当に情けない。
堪えていたものが視界を歪ませる。
上手に作れなくて泣くなんて、子供みたいだ。
大人のフリしていたけど、やっぱり、まだまだ子供なんだな。




