18.幼馴染みのふたり 2
人の出入りがまばらになった頃、紅葉が道場から出て来た。
「いやー、ごめんごめん、待たせてごめん! 後輩ちゃんたちに道具の手入れの仕方教えててー」
「そっか、紅葉も先輩だもんな。掃除、案外楽しかったよ」
「結構待ったと思うけどなー。……じゃあ、帰ろっか」
「ああ、そうだな。ほうき片付けてくる」
「うん!」
「ふーんふふーん、かーえろうかー、かえろうよー」
音程なんか求めてはいけないような、下手くそな歌を口ずさむ。ほのぼのしていて、微笑ましい。
普段どれだけぞんざいに扱われていても、この笑顔を見せられると、まぁいいかと思えてしまう。
この笑顔には動物のような可愛らしさがある、そんな笑顔だ。
人に使うべき可愛いと、動物たちに向けられる可愛いではニュアンスが違う。きっと、別次元のものなんだろう。獣諸君のものは、にじみ出てくる可愛さだものな。
……たまには、言葉にしてみよう。
「紅葉はかわいいな」
「ふーんふーんふふーーー……おっと。何か言ったかな? もう一回言ってみよう」
黙って照れてくれれば可愛いのに、おかわりを要求してくる。
「……さあ? 空耳じゃない?」
「もぅ! いけず!」
「へーへー、どうせ俺は意地悪ですよ」
学校からの帰り道。
陽の光を余韻程度に残し、空は暗くなりつつある。
坂道をのぼっているうちに、ふわりと地面が明るくなる。街灯の光が二人分の影を引く。
辺りに人影はなく、時折、車が通り過ぎていくだけだった。自動車のライトが二人分の影を伸ばすたびに、なんだか少しほっとする。
季節外れの冷たい風が吹きつける。冬服の制服が妙に心地いい。来月からは夏服だ。それまでに、この地味に冷たい風がなくなるといいな。
「それで、真奈さんとお父さんは、どうなったの?」
紅葉の声。そういえば、うちの家族の話をしていたんだっけ。
「お前の父親ではないけどな。まぁ、その、母さんと父さんは旅行に行ったんだよ」
「な、なんだよ~、旅行か~。……もう、焦って損した。夫婦一緒に旅行に行くんだもん、仲良しでうらやましいなぁ。……それで? いつ頃帰ってくるの? 来週とか?」
「二十年後。宇宙旅行だから」
「へえ~。二十年後かぁー。そうかそうかー。……えっ、二十年後!? ていうか宇宙!?」
「そう、宇宙に二十年間」
唖然とした表情でこちらを見る。昨日の俺と同じような反応だ。
「え、二十年後ってことは二十年後だよ? えーっと、千週間以上だよ?」
「週換算する意味がわからないんだけど。一旦、落ち着こうか」
「う、うん。それで、えっと、これからどうやって生活するの? 蓮ちゃん、料理とか掃除とか、家事全般まったく出来ないじゃん! 絶望しか無いじゃん!」
「そりゃ、うまく出来ないけどさ……そこまで言わなくてもいいんじゃないかな」
「いやいや、だってだって、死活問題じゃない? どうするの蓮ちゃん。毎日インスタントラーメン? 冷凍食品? 冷凍ラーメン? 三食冷たいご飯じゃない! お母さんそんなの許しません」
「お前はママじゃない。でも、家事の心配はない。なんていったって、昨日、メイドを雇っちゃったから」
紅葉の表情が固まった。
あ……あの女の目…… 養豚場のブタでもみるかのように冷たい目だ。残酷な目だ……。『かわいそうだけど、明日の朝にはお肉屋さんの店先にならぶ運命なのね』ってかんじの!
「え、ちょ、ちょっと待って蓮ちゃん。ちょっとよく聞こえなかった。聞き間違いかな。最近耳カス取ったらデカいのとれたからさ、聞こえは良いはずなんだけどね。あの、あれ、『ご主人様☆』とか『萌え~☆』とか言う、あの……メイドのこと?」
「そんな媚びた人じゃないけど、まあ、メイド服を着て家事する人だな」
これでもかと言うくらい、紅葉の表情が強張る。
「立花さん、いつからそんな気持ち悪い趣味をお持ちになりましたの? いややわー……」
「なんだよその口調。言っておくけど、俺の趣味じゃないからな!」
「わわ、そ、そんなに大きな声出さなくてもいいじゃない。……それで? どうやって雇ったのよ。まさか、家の貯金に手をつけたわけじゃないでしょうね? あれはお父さんとお母さんが必死にやりくりして貯めたお金なのよ?」
「お前のパパママじゃないからな。路頭に迷っていたのを拾っただけだからな。まだ給料をどうするかとか決めてない……」
紅葉は再度、残酷な目を向けてくる。
「捨て犬拾っちゃった、みたいに言わないでよ」
「ええと、捨て犬とは違うっていうか……」
段ボール箱に入っているのを見つけて、少し撫でてやったら思いの外懐いて、学校終わるまで門の外で待つという忠犬ぶりを発揮して、親に秘密で飼う……考えれば考えるほど捨て犬だな。
「いや、捨て犬拾ったみたいな感じかな」
「なによそれ! 人の命を畜生どもと同列に並べるなんて、あんたいつの間にそんな鬼畜になったの?」
「わんちゃんを畜生呼ばわりするんじゃない! あんなに可愛いのにそこらへんの哺乳類と同じにするな! お犬様だぞ! だいたい、俺はいま生活の危機に瀕しているんだぞ。収入もない、家事もできない、なのに食い扶持は二人分! いつ生活が破綻するかわからないんだから!」
バツの悪そうな顔をする紅葉。ため息をひとつ零してから、うなだれる。
「むーー……。そういう事情なら、なんで私に言ってくれないのよ。家近いんだから、毎日でもご飯作ってあげるのに」
「それは悪いよ。お金とか無いし、毎日お世話になる訳にはいかないよ…………」
毎日ご飯をご馳走になるなんて、紅葉の親に申し訳ない。
せめて自分の食べる分の食費を払えればいいけど、ない袖は振れない。使っても許されそうなお金を探さなくてはならないのだ。
こちらの沈黙に、紅葉はため息で答える。
なにが言いたいんだろう。俺は俺なりに、なんとかしようとしているのに。
でもまあ、自分の身に置き換えてみると、どうだろう。
紅葉の両親がいなくなり、身の回りの世話を異性のお手伝いさんにやってもらうようになる。
近くに住んでいるんだし、昔からの仲なんだから、立花家を頼れよって、俺なら言うだろうな。
困ったときくらい頼ってほしい。
……そっか、困った時こそ頼って欲しかったんだな。
そう考えると嬉しいんだけど、どの程度まで頼っていいのか分からない。少し、探りをかけてみるか。
「……なあ、紅葉」
「なぁに、蓮ちゃん」
「例えば……例えばなんだけど、一日の食事が乾いた米一粒みたいな、本当にどん底になったら、お前ん家に世話になってもいいかな」
「……うん、別にいいよ」
「そっか。じゃあ、本当に困ったら婿入りさせてもらうよ」
紅葉は足を止める。街灯からの逆光が紅葉の顔を見えなくする。目を凝らすと、口をわずかに開け閉めしている。
「い、いま、なんて……」
「ん、婿入り」
「…………む、むむむ、む……」
冗談のつもりだった。
しかしながら『婿入り』という言葉に反応したらしく、紅葉の顔がみるみる炎上していく。
これはダメだ。でももう遅い。
「…………は? は? なに? なに変なこと言ってるの? ワケわかんない。ご飯食べに来るだけで良いじゃない。だいたい、意味分かってるの? いくら幼馴染みとはいえ、付き合ってもいないのに、そんなこと言わないでよ。……私にも、気持ちの準備とか、色々ある!」
「そんなに取り乱すなよ」
「それだけのことを言ってんの! バカ!」
バカとはなんだ、バカとは。この剣道ガサツ女め。
いや、待て。こういう時こそ落ち着こう。二人とも白熱していたら、どうにもならなくなる。
「えっと……ごめん、例えばの話だよ」
「そう、なの? ……えっと、……だ、だよねぇ~。そうだと思ったよぉ~。あーびっくりした」
「ごめん」
「…………」
な、何か話さなければ。このまま黙って突っ立っていてもらちがあかない。ていうか、足を止めたままなのはまずい。適当に話をしつつ、歩きだそう。
「も、紅葉ん家のご飯は美味しいから、またいつか食べに行きたいな」
「ふ、ふーん、それは良かったね」
「前にご馳走になった時の肉じゃがとか、みそ汁とか、美味しかったな。半年くらい前の、冬休みの時食べたやつ。紅葉のお母さんって本当に料理上手だよなー」
「え、あれ、あの、あれはその……あの肉じゃがは火にかけ過ぎて、少し味が濃くなっちゃったんだ。まぁ、美味しかったなら、良かったけど」
踏み出した足が、地に着いた途端に動かなくなる。
あの肉じゃがを、まさか、この女が作ったというのか……!
惑わされるな、動きを止めたらダメだ。歩き続けろ。
「……まさか……いや、そんなバカな……あの料理下手だったお前が……」
「そ、そんなに驚かなくてもいいでしょ! これでも、部活の無い日は毎日お料理作ってるんだから。お弁当だって、毎日」
「へえー。ありえない」
「さらっとひどいこと言うよね。……でもさー、蓮ちゃん?」
「どうした?」
早歩きで近づいてきて、俺の目の前で歩みを止める。
そのまま歩き続けてくれよと心の中で思いつつ、歩みを止めて紅葉の方を見る。
紅葉は照れくさそうに笑いながら、こちらを見ていた。
「これでいつでも、お婿さんに来れますね」
……何も聞こえない。耳鳴りがする。
聞こえるのは、脈打つ自分の心臓の音だけ。それもだんだんと強くなっていく。顔の辺りが熱くなっていく。
「なに言ってんだ」
「さっきのお返し! ほら、家着いたよ蓮ちゃん!」
「本当だ。早いな……」
「楽しい時間ほど過ぎるのは早いのだよ、立花くん」
「はいはい。じゃ、また明日な」
「明日土曜日で休みだよ。しっかりしてよね。じゃ、またね」
「ああ、またな」
……あービックリした。告白されたかと思った。
心臓ってあんなに早く動けるんだな。




