17.幼馴染みのふたり
教室を出て、隣のクラスへ向かう。
教室の中を覗こうと扉の前に行ったとき、ちょうど紅葉が出てきて、鉢合わせした。
悲鳴を噛み締めたような、短い息遣いが教室の中から聞こえる。紅葉の友達たちらしいけれど、毎度毎度悲鳴を出すのはやめてくれ。
まあ、ギャーギャー騒がなくなっただけマシか。
紅葉は鞄と竹刀を入れた袋を持っている。やっぱり今日も部活か。
「あ、蓮ちゃん。どうしたの?」
「いや、なにも。今日は部活あるんだよな。また今度にする。あ、これ、ジャージ。結局使わなかった」
「ああ、ジャージね」
手からジャージの感触が消える。
「それで、なんのこと? 今度って?」
「あー、その、たまには一緒に帰ろうかなって思って」
紅葉は目を丸くして、顔中をかあっと赤くして、そわそわし始めた。
教室の扉から離れて、肩にかけていた荷物を手に下げた。
「えぇー。んー、どうしてもって言うなら、一緒に帰ってもいいけど……部活終わるまで待たせるのも悪いしなぁ」
「そう。じゃあ、一人で帰る。またな」
くるりと体の向きを変え、歩き出す。半歩踏み出そうとした瞬間、肩に手が掛けられた。身体がガクンとなる。
「え、嘘でしょ? そこは『大丈夫! 待ってるからいいぜ!』とか『一緒に帰りたいから我慢するぜ!』とか、言えないの?」
「ん、大丈夫、待ってるからいいぜ。一緒に帰りたいから我慢するぜ」
棒読みで言った瞬間、紅葉の目つきがとても鋭くなった。肩にかけていた竹刀をするりと取ると、それとなく握っている。分かりやすい強迫だ。
「ねえ、心がこもってないよね」
「お、落ち着こう。まずはその手に持った棒状のものを肩にかけるんだ。おっと、気を抜くなよ。気を抜くとお前はそれで俺を叩くからな、そう、条件反射で! よし、良い子だ、そのまま、そう、肩にかけて……」
紅葉は竹刀を担ぎなおす。それから、怒ったような表情をこちらに向ける。
「なんかすごくバカにされた気分。不愉快!」
「ごめん。……怒ってるのに、竹刀で叩かないんだな。昔はよく叩かれたもんだけど」
「なにそれ。叩かれたいの?」
「そういうわけじゃないけど」
「そう……私ね、暴力的なことはやめたの。だから叩かないの。素敵なお姉さんは、そんなことしないからね。……あ、でも、あんまり調子に乗ってると話は別よ。次は突くから、次が無いように気を付けてね」
さらりと物騒なことを言う。結局暴力に訴えるわけで、矛盾しているけれどそれを指摘するのも危ない。挑発するのはやめよう。
「……で、何時頃に部活が終わるんだ?」
「んー、何時にあがれるかな……よくわかんない。顧問が出張でいないから、道具の手入れだけで終わるとは思うんだけど」
「なるほど。じゃ、終わるまでどこかで時間つぶしてるから、終わったら呼んでくれ。……あ、携帯電話、家に忘れた……」
「……蓮ちゃんってさー、残念な奴だよね……。道場の外で、掃除でもしてて」
「ぐぬぬぬ……掃除なんかしないからな!」
「いいから、行くよ、ほら」
右手を強引に掴まれる。
腕を掴めば良いのに、わざわざ手を掴む。紅葉はこういうところがバカだ。
ちょっと。いや、ちょっとどころじゃなく。めちゃくちゃ恥ずかしい。
廊下には人がそこそこ居るし、見られてるし、どうしよう。ダメだ、恥ずかしい。廊下にいる奴らはあとでめっちゃ睨んでやる。
紅葉も手を掴んでから恥ずかしくなったらしく、赤面して沈黙したままだ。
こんな時、紅葉は空気を変えるために沢山話そうとする。それを利用してこの空気をごまかそう。まずはこの手を離すように仕向けるべきだ。
「な、なにボーッとしてんの? 歩いてよ」
「あのさ……、手、掴まなくてもいいんじゃないかな。逃げたりしないし、周りの目もあるし、掃除もするから……」
「あ、そ、そうだね! ごめんね蓮ちゃん!」
「いや、別に気にしないでいいよ。ほら、部活行って来いよ」
「うん。そうだね。って、蓮ちゃんも一緒に行くんだよ?」
「あっ、そっか。そうだよな道場の外の掃除だもんな」
「もう、ボケっとしてないで、しっかりしてよね」
「わりぃ……」
……なんだよこの空気は。
なんなんだよこの幼馴染みは。
そしてなんだ、この群衆は……! 俺たちは見世物じゃあない!
……この幼馴染みという生き物は薬であり毒だ。
敵しかいないこの学校において、こいつだけはまともに接してくれて嬉しいし楽しい。でも、優しさにつけ込んで甘えすぎることは彼女に迷惑をかけてしまうことになる。
適度な距離感を保ちたいのに、適度に冷たくあしらいたいのに、こういう反応をしてくるのだ。
「……それはそうと、この間駅前にできたばっかりのパンケーキ屋さんに行ってきたんだけどね、やたらと大きなパンケーキでね、もう、生クリームとかフルーツとかブワーッてなってて、すごいの! 生ドーン! フルーツドーン! って感じでね!」
「カロリーも、ドーン……だな」
「もー、なんで女の子にそういうこと言うかな! 私も食べた後に『ヤッチャッタナー』って思ったけどさ!」
……それにしても、外の部活は活気があるな。男子も女子も、元気に大きな声出して動き回ってて楽しそうだ。
「ちょっと! 聞いてるの?」
「聞いてるよ……カロリー燃やすんだろ」
「そうそう。そのために私、走ります! 毎朝!」
右手の拳を震わせながら、決意に満ちた眼差しを拳に送る。
とりあえず、やる気を奮い立たせる相槌を打つ。
「ファイトー」
「いっぱぁーっつ! ……で、一緒に走ってくれてもいいんだよ? 夜も朝も暇でしょ?」
「んー、まあ、暇だけどさ。腹周り気にしてるなら走るよりも腹筋の方が良いぞ。バランスボールで足を高くして、腹筋すんの」
「いやー、足も腰も少し付いちゃっててね……ていうかデリカシー無いよね」
「そう言うなよ。スタイル良いんだからさ、ますますの発展をお祈り申し上げます」
「それはどうも。……言うほど良く無いけどね……」
そう言いながら、前腕、上腕、肩を順にトントントンと叩く。
たしかに筋肉はある。でもそれは部活が終わってしばらくしたら元の細い腕に戻る。そのマイナスを加味しても現時点でナイスなスタイルをキープしているのだ。将来もっと輝くだろうよ。
「おっと、夕陽がきれいだよ、蓮ちゃん。空がオレンジ色だ」
「そうだな。『茜色に染まる青春のきらめき』とでも言えば良いのかな」
「蓮ちゃんそれはキモい」
「そういえば、俺はどんな仕事すれば良いんだ?」
「んー。庭先の掃除かな」
「そりゃそうか……でもなんでわざわざ手伝うことに……」
「いいじゃん。どうせ暇人でしょ?」
「暇人暇人ってさ。俺にだって、いろいろとやることはあるんだぞ」
「へえー。例えば?」
例えば……そうだな。いろいろあるぞ。
「バイトとか」
「あれ、この間クビになったよね。人相悪くてさ」
「ああ。この間のでバイトクビになったの5回目だよ」
「顔はマシでも髪の色とか目つきがひどいから客も引くよね。眼鏡しててもこわいんだもん。そりゃクビにもなるよ。ドンマイドンマイ」
「ああ。あと、お風呂掃除とかしてる」
「レベル低っ! それに嘘でしょそれ。いつも真奈おばさんがやってるじゃない」
「そうだな。あとは、夕飯の支度とか」
「それも真奈おばさんがやってるじゃない。蓮ちゃんなにもやってないじゃん」
「そうか……そうだな。逆に聞くが、俺はいつもなにをしているように見える?」
「ニートでしょ」
「え? ああ、そう。そっか……」
紅葉が溜め息を吐く。呆れているらしい。
「蓮ちゃんって、ほんと、何もやらないよね。たまにバイトするけど、基本的に学生ニートだよね。親いなくなったら生きていけなさそう」
昨日いなくなったけどな。
「その時はお手伝いさんを雇うから大丈夫。メイドとかさ」
なんたって、実際に雇っているからな。すでに経験済みなのだ。
「いや、無理だね。蓮ちゃんは甲斐性無しだから人なんて雇えません。だから死にます」
「いや、だから、メイドを雇ってだな」
「いいや、無理ですね。あなたには誰も雇えません。だから死にます」
「いいや、死にません。実際、俺は死んでない」
「そうだね。でも、それは誰かのスネをかじっているからだよ。親とかの」
「だから、親はいなくなったんだって」
「そう、親はいなくなったから、近いうちに蓮ちゃんは死ぬ……。って、……え? そうなの?」
きょとんとする紅葉。いままで散々な言われようだったからな。仕返しに、わざと心配を煽る言い方をしてやる。
「……昨日家に帰った時、母さんと父さんはすでに居なかった。書き置き一つを残して、どこか遠いところに行ったんだ」
紅葉は深刻な顔付きになった。俺の演技がよほど上手かったらしい。
しかしだな、まだ遠くに行ったとしか言っていないからな。もしかしたら、夫婦仲良く温泉旅行にでも行っているのかもしれないんだぞ。早とちりは良くない。
「なんで……真奈さんとお父さんがそんなことに……」
「いや、その……お前のお父さんじゃないんだけど……」
「遠いところって……まさか、不良の息子による家庭内暴力や恐喝まがいの行為に絶望して、夫婦仲良く死を選んだんじゃ……?」
「それは違う。想像力がたくましすぎる。あ、ほら、武道館着いたぞ」
古めかしい木造建築の立派な道場が目に入る。誰が見ても分かるような、オーソドックスな武道館だ。
武道館は西陽の光を浴びて、外壁は淡いオレンジ色に染められていた。
ぼけっとして見ていたら、紅葉の声が耳を刺した。
「いいから、続き話してよ! 気になるじゃんか!」
「でかい声出すなよ……。まぁ、大した事じゃないんだ。部活終わった後に話す」
「何よそれー! 気になるじゃんかー!」
「いいから。ほら、さっさと手入れしてこいよ」
「うー、もう。わかったよ。……部活終わったら絶対に話してね!」
「ああ。ちゃんと話す。だから早く行って来いよ」
「絶対だからね! 先に帰らないでね! 待っててね! 帰ったら泣くからね!」
道場に向かってアスファルトを蹴る紅葉。
紅葉から待っててねと言われたら、待つしかない。走る紅葉の背中に、いってらっしゃいと右手を小さく振った。武道館横の倉庫から、竹箒をひとつ手に取る。こんな時に毎回使う俺の相棒だ。
眩しく光る太陽を背に、地面を撫でる影を写しながら、ただただ時間は過ぎていった。
稽古の終わりを告げる大きな声が、道場から聞こえた。
道場の玄関が開く。遠目からそれを見つめる。中から出て来た二人の女子部員がこちらに気がつく。
背の小さい方の女子が、もう片方の背の高い女子に耳打ちしている。
『不良がいるよ』とか『一人で掃除してて気持ち悪い』とか言っているのかな。この学校は敵ばっかりだからな。
ゴミみたいなことを考えても仕方ない。実在するゴミを集めよう。
「よっすよっす! お掃除ご苦労!」「ご苦労!」
「…………」
ええと……。
不意に、話しかけられた。聞き覚えのない声だ。振り向くと、さっきの二人が目の前に立っていた。
小さい方の子は身長150センチくらいで、本当に小さい。もう一人の方は隣の子よりも頭二つ分くらい背が高い。
こちらを見る目は、なにやら好奇の眼差しらしい。
「アッ、ドモ」
返事をしてみるものの、言葉の調子がやけに短くて、微妙に高い声になってしまう。自分で言っていて恥ずかしくなる。
「やあやあ、緊張しないでくれたまえ。……蓮くん、だよね。うんうん、良い感じにこわい目つきしてるぜ」
「普通にこええぜ」
妙に馴れ馴れしいな。馴れ馴れしいしこええだとか言うし、失礼なやつらだな。
特にこっちの小さい方。小さい方がたくさん喋っている。声も大きい。
人は身体の小ささを補うために、大きな声や態度をとるらしい。こういう人のことを言うんだろうな。
「……何かご用でしょうか」
「うぉっ、そんなに睨まないでよ。もみじちゃんがこわい人じゃないって熱弁するもんだからさ、どんな人なのか気になって、話しかけてみたの」
「私がねー、外にこわい人いたーって言ったら、もみじちゃんが『あの人はああ見えて優しいから大丈夫なんです!』ってね。いやー、妬けますなー」
「紅葉が……そうですか」
「そうだよー。あの子の事、よろしく頼むよ。なんたって、私達の大事な妹分だからね。じゃ、グッバイアディオス!」
「グッバイアディオス!」
「グ、グッバイアディオス……」
へんてこりんな言葉を残し、二人は帰っていった。
妹分という事は、あの二人は三年生の先輩なんだろう。
……ああ見えて優しい、か。
紅葉の方がずっと優しいじゃないか。俺の事、そんな風に庇ってくれているんだな。




