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15.立花蓮の学校生活 2

「んん……さむ……さみぃ! ふとん……ふと……ん?」


 掛けていたはずの布団が、全く掛かっていない。


 小鳥のさえずりが聞こえる。

 光の粒が、目蓋の裏に明るく赤く色を染める。

 冷えた空気が身体をなぞる。


 欠伸をして身体を伸ばすが、如何せん左腕の感覚が無い。右腕でなんとか布団を引き剥がし、冷えた身体を温める。


 ……ああ、なるほど。こいつのせいか。


 ゆるく癖のついた、艶やかな栗色の髪。

 顔を埋めるように布団に包まり、俺の左腕を抱き枕にしてがっちりキープし、左足を俺の身体の上に投げ出して、そのうえ寝息を立てている。


「左腕が……布団の妖怪に取り込まれてる……おぞましい」


 おぞましい。肘のあたりが胸に挟まれているらしいが、痺れているので何が何だか分からない。


 ……今更だけど、これって同棲なのかな。年の近い女の人と。しかも、やたらと可愛げのある性格の持ち主だ。容姿だって良い。二重丸だ。


 しばらくボーッとしていたら、左腕の感覚が少しだけ戻ってきた。

 動かすことはまだできそうにないが、これなら、圧力を感じることはできるかもしれない。

 しかしながら思いのほか感触が伝わらず、痺れた後特有のくすぐったいような敏感さだけがむずむずと伝わってくる。



 部屋の中には、例の振り子の音が響く。

 窓の外から車の走る音が聞こえる。子供のはしゃぐ声が聞こえる。


 ……あれ、いま何時だろう……。

 携帯電話の時計を確認する。8時13分の文字。



 脳裏に浮かぶ『遅刻』の二文字。静かな衝撃が駆け巡る。

 布団から飛び出し、寝間着を脱ぐ。制服に着替える。

 しかし、左腕が動かない。



「え、ウソ、マジかよ! なんかダランってなってる! ダランってなってる!」


『左腕が動かなくて遅刻しました』

『人生の風向きが向かい風でしたので』

『道でおばあちゃんが大きな荷物を持ってまして』

『足に釘が刺さっちゃいまして』


 ま……まだだ! まだ諦めるな! 遅刻の言い訳なんて後で考えるんだ!



「っもぅ……騒がしいなぁ……どうしたんですか?」


 愛華の声。振り返ると、変なTシャツを着た愛華が布団から上半身を起こしていた。

 頭なんて寝癖でくしゃくしゃになっているくせに、それがなんとも言えず色気立っていて、なんかもう、なんか、もう。とにかく、理性を保って目的を見失わなかった自分を褒めてやりたい。


「遅刻しそうなんだ! 左腕が動かないから制服が着れなくて困ってるんだ!」

「左腕が痺れるだなんて、蓮さんって寝相悪かったんですね。布団だってこんなにぐちゃぐちゃにして……」


「お前マジでしばくぞ」


 半年ぶりに発揮したドスの効いた声。流石の愛華もこれには怯む。


「ま、まあまあまあ、落ち着いてください……ほら、私年上ですからね。お前なんて言っていいんですか」

「今はそんなことどうでもいい。誰のせいで腕が動かないと思ってるんだ」


「腕が動かなくても、制服は着れますよ。……私、二度寝しますね。はい、行ってらっしゃい」


「は?」


 ……そういえば、身体が重くなった気がする。右腕には制服の袖が通っている。首元にはきちんと結ばれたネクタイの感触がある。


 なんという神技……! メイドすごい! 一瞬のうちに制服を着せられている! これなら間に合うかもしれない! メイドってすごい!


「ありがとう、いってきます!」


 部屋から飛び出し、階段を飛び降り、靴を履いて全速力で走った。


 風だ。風を感じている。いつもよりも足が軽い……! スースーする! 風がすごい! 足が軽い! これが風を味方にするってことなのか! 素晴らしい!


 校門が見えた。

 遅刻を取り締まる先生はまだいない。学校に向かう生徒達は皆一様に走っている。どうやらギリギリ間に合ったらしい。


 よし、ゴールだ! 間に合った! 奇跡!


 校門をくぐり、息を整えながら歩く。

 玄関で靴を履き替えて、教室に向かった。



 廊下には生徒が溢れていた。いつもの光景だ。

 いつも通り賑やかではあるが、ひそひそ話やらクスクスと笑う声やらが耳に付く。

 廊下を歩いていたら、ふと、見覚えのある人影を見付けた。

 紅葉は廊下に備え付けられたロッカーの中から、教科書を出していた。


「もみじー、おはよう」

「ああ、おはよう、れんちゃん。って、なんなの、その格好!」

「ん? なにが?」


「いや、だって、下のそれ、パジャマじゃん。頭だって寝癖いっぱいだし、目糞ついてるし……おいおい……」


「え……嘘……」


 目尻についたカスを取りながら、自分の下半身を見る。確かに寝間着のままだった。なんだこれ。


 いや、待って、本当になんだこれ……。

 どうして気がつかなかったんだ。普通、靴履いたり抜いだりする時に気付くだろう。


 ……あ、だから足取りが軽かったのか。

 愛華が神技的な速さで着替えてみせたのも、すべてに納得がいく。


 メイドだし、そんな特技あるんだなって思って納得しちゃってたけど、普通ならありえないもん。冷静に考えるとそうだよ。ありえないよ。


 うわっ、やばいぞこれ、ただでさえ嫌われてるのにこんな変な事したら、ますます距離を取られて社会的に死ぬじゃないか。


「やばいなこれどうしようこれあああどうしようこれ。あ、だから皆こっちチラチラ見て笑ってたんだ。なるほど。死にたい」


「バッカじゃないの……。可哀想だから、ジャージ貸してあげる。私のクラス、今日使わないから」


「いいの?」


「いいもなにも、困ってるんでしょ? 友達から蓮ちゃんの変な話聞くたびに、私も恥ずかしくなるっていうかさ、不憫になるし」


 心配そうな顔でこちらを見つめる紅葉。幼馴染みとはいえ、このクソみたいな学校でここまで親切にしてくれる人はこの紅葉様以外にいない。貴重な人材だ。


 彼女の笑顔を見て、自分の恥ずかしい行動が少しだけ救われる気がした。


「ありがとう。紅葉には世話になってばかりだな」

「大丈夫。もう慣れたよ。昔から忘れ物ひどかったし。でも、制服着忘れるなんてね……。あと、ネクタイ蝶結びになってるよ」

「ええ? ええええ! うわ、ほんとだー!」


「やれやれ、世話が焼けるなぁ。ネクタイ結んであげるからこっちおいで」

「い、いいよ、自分で出来るから」

「あっそ。じゃ、結んでて。ジャージ持ってくるから」

「おう……」


 今日はついてないな……。

 でもまぁ、紅葉に話のネタとして消化してもらえたし、いいか。


 ネクタイと格闘していると、紅葉がジャージを手にして戻ってきた。こちらを見るなりため息をこぼす。


「おいおい……ネクタイもろくに結べないのかね、きみは」

「ああ、どうやら今日は結べないらしい」

「情けない……いっつもどうやって結んでるのよ。何ぼけっとしてるの、ほら、上向いて……」



 至近距離に紅葉。理解が追いつかない。


 ネクタイを結ばれていると気がついたのは、首元にそれらしい感触が蘇ってからだ。「はい、出来た」と紅葉は言う。手で触って確認すると、それらしい形ができていた。


「ごめん。いつもは結んだ状態のを緩めて、締めての繰り返しだから結ばなくてもいいんだ。それがいけなかった」


「へぇー。あ、そうだ、あの……あのさ」


 紅葉が口を開いたその時、ホームルームの鐘が鳴った。紅葉はタイミングを奪われたらしく、口を噤む。鐘が鳴り止んでから、こちらから訊ねる。


「なんて言い掛けてたの?」

「な、なんでもない! ホームルーム始まっちゃうから、教室行きなさいよ! えっちゃん先生さっき歩いて行ったし!」


「そっか……わかった。またな」

「ちょっと、ジャージ忘れてるってば!」


 ……今日はなんだか、人に迷惑をかける日らしいな。



 教室に入った時、クラスの全員が起立しており、ホームルームは始まろうとしていた。担任のえっちゃん

が口を開く。


「誰かと思えば、立花か……。おい、制服はどうした」


 担任の口元が緩んだ。それにつられて、クラス中から失笑が起こる。


「朝、起きたら……その、遅刻ギリギリで、それだけじゃなくて、左腕が……寝相悪くて、痺れて動かない状態でして……ズボン履けないから、やむなく諦めました。それでも急いで来たので、遅刻はしていません」


「……ホームルームに間に合わないなら、どっちにしろ遅刻だぞ。まあ、そうだな。とりあえず、あとで私のところまで来なさい。そのジャージじゃあ、どっちにしろ今日一日笑い者だ」


「わ、わかりました」


 とりあえずお辞儀をして、言われた通りに席につく。

 チラチラとこちらを見ながら、口元を緩めているクラスメイト達を尻目に、ふと、俺は重大な事実に気がついた。


 持ち物はジャージしかない。


 鞄を忘れたのだ。連鎖的に鞄の中に入っていた財布を忘れた。携帯も忘れた。弁当もない。朝ごはんを食べてくるのも忘れた。


 つまり、空の手には絶望を掴まされていた。

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