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14.開けていい扉もある

 

 ドアノブが捻られる音がした。暗闇の向こうから、人の気配が部屋の中に入ってきた。


「あの、起きてますか?」「寝てます」

「そうですか」「寝てますって」


 パチリ、と音がする。照明が眩しく光る。


「……このっ……眩しい…………。こんな時間に、何の用だ」

「その……実は布団が……」と控えめに声を揺らす。

「ふとん……?」


「部屋の布団がカビ臭くて、我慢ならなかったんです」


 布団がカビ臭いわけが……ああ、そうか。妹の部屋だもんな。


「……すっかり忘れてたよ。あの部屋はもともと、妹の部屋なんだ。今はばあちゃんの家に住んでるんだけど。たまーにふらっと帰ってきて、少しでも部屋が片付いてると『勝手にいじらないで』ってうるさくて。掃除すると怒るから、全く掃除してないんだよ。最後に掃除したのなんて、年末の大掃除の時かな。カビも生えるさ」


 カビ臭い原因を教えてやると、愛華はさらに顔をこわばらせる。


「いやいや、待ってください。そんな面倒な部屋を押し付けないでくださいよ」

「半年近く帰ってないし、平気だよ。使っていいよ」

「掃除してあるならともかく、あんな汚い部屋で寝るなんて考えられませんから」

「一日だけの辛抱だよ。外で怯えながら寝るよりマシだろー。ほら、寝ろ寝ろ」


「ぐぬぬ……とにかく、あんな布団で寝るなんて無理です。お願いします。この通りです。今晩だけでいいので、綺麗な布団を貸していただけませんか?」


 『この通りです』って頭下げたのか土下座したのか知らないけど、こっちは目を閉じているんだから通用しません。


「……あのなぁ、布団貸してっていわれても、布団なんて親の布団しかないぞ。来客用の布団はないんだから」

「あー……親のは、ちょっと……」


 言葉を濁す辺り、先ほどのパパジャージが思い浮かばれる。愛華にとってはカビと同じくらい嫌なのかもしれない。


「それ以外だと俺の布団しかない。俺はどうするんだよ」


 ふと、わずかな空白の時間が流れる。返す言葉を考えているらしい。

 愛華の口から、ぷすぷすと小刻みに空気が漏れる。一人で笑いをこらえているらしい。


「隣の部屋、空いてますよ」

「悪魔か貴様」


「……もう。じゃあ、私はどうすればいいんですか。ご主人様がカビ臭い布団で寝ろって言うなら、我慢しますから」


 どうすればって、眠いし疲れたし、一刻も早く寝たい。それは多分、向こうも同じ考えだろう。



 使える布団は一セット。寝る場所も一つ。答えは一つ。

 でも、いろいろとまずいというか、なにかあっても仕方ないというか、危機管理が出来ていないというか。


「あの、ほ、本当に仕方なくなんですけど……その、一緒の布団で、ねねっ、ねっ、寝ても、構いませんけど……」


 予想していただけに、一緒に寝ると聞いても大して驚かなかった。いきなり言われたら、どれだけ狼狽えていたのだろう。


「別にいいけど……色々とまずいだろ」

「大丈夫です。カビの臭いがしないだけでも十分です」

「…………じゃあ、半分」

「え?」


「半分だけ、貸すから。シーツの線よりこっち側に来るんじゃないぞ」


 布団の端まで移動し、さっきまで使っていた枕を明け渡し、自分の腕を枕にして丸まった。


「え、えっと……失礼します」


 しおらしげに布団がめくられ、ベッドが小さく軋む。

 シングルサイズのベッドはあくまでもひとり用だ。

 背中に人の感触が伝わる。逃げ場はない。生々しい感触が背中にくっついて離れない。離れられない。


「おい、半分だって言っただろ。くっつき過ぎだっつの。背中合わせにしろ」

「私、寝るときは天井向かないと眠れないんです。それに……」

「……それに?」


「くっついて寝たほうが、安心できると思いまして」


 ……なにが言いたいのだろう。

 年頃の男子をからかって遊んでいるとしては趣味が悪い。こういうときにこそ、毅然とした対応が求められる。


「安心もなにも、暑いんだよ。寄るんじゃない」

「ごめんなさい。そんなに、邪険にしないでくださいよ」

「ごめん。あまりベタベタされたくないんだ」

「ベタベタするのとは、また違うんですけどね」

「そうか。じゃあ、おやすみなさい」


 なにが言いたいのかまるでわからない。

 相手のペースに合わせていたら、眠気が覚めてしまう。冷たいと思われるかもしれないが、さっさと寝てしまおう。


「もう寝てしまうんですね」

「うん」


「……いまから独り言呟きますので、気にせずに寝ててくださいね」


「は?」


 意味がわからない。いい加減にしろよ。


「今日、すごく不安だったんです。知らない町でひとりでしたから。泊まる場所も、頼る人も居なくて。いきなりクビになったので、そのショックもあって……」


 ……なんだか、言いにくくなってしまった。黙って聞いていよう。


「私のお世話していたお嬢様は、私と同い年でした。なので友達みたいにとても仲良くしていました。でも、彼女の父親は彼女の事を出世の道具としか考えていなかったんです。いろいろあって、お嬢様に会えなくなって、私は仕事にやる気がなくなりました。それから間も無く、クビになってしまいました。掻い摘んで話すとこんな感じです」


 たしか、身の回りの世話をしていたって言っていたっけ。身の回りの世話をする人がいなくなったら必要ないもんな。未成年だし、雇い続けるメリットはないよな。


「お嬢様に情が移ってしまっていたんです。人間の汚い一面を見た後だったから、蓮さんから無理矢理ティッシュを渡された時、困りましたけど、本当はちょっとだけ嬉しくもありました」


「髪は赤茶色ですし年下のくせにお前とか言って生意気ですし、目つき鋭くて恐い見た目してるくせに真面目なこと言っちゃいますし。下着姿の私をソファーに叩きつけるような人ですし……。でも、行動はおかしくても、性格とか考え方とかはちゃんとしてるから、今は成り行きに身を任せて良かったかなって思っています。まあ、一日じゃ何もわかりませんけど」


 愛華の声が、段々と嗚咽混じりになっていく。湿っぽい声が鼓膜を震わせる。散々な言われようだけど、もう少し付き合ってやろう。



「今は、一応は安心してるんです。……でも、不安なんです。また捨てられるんじゃないかなって思って。それがどうしようもなく……やっぱり、なんでもないです。変なこと言ってしまって、ごめんなさい」



 どんな言葉をかければ、彼女を安心させられるのだろう。

 浮かんできた言葉の無駄を徹底的にそぎ落として、短く纏めた。 多分、あれこれ言うよりも、良いはずだ。


「今は俺も一人だ。愛華のことは頼りにしてる。だから大丈夫」



 小さく息を飲むのが聞こえる。何かを伝えるには、この言葉で十分なはずだ。


「いっぱい頼りにして下さいね。……すいません。ちょっとだけ泣けてきちゃいました。でも、嬉しいです。えへへ」



 布擦れの音が聞こえる。身体の向きを変えたらしい。肩の辺りの布地が、ぎゅっと握られる。思わず振り向いてしまいそうだったが、グッとこらえた。


 代わりに、枕にしていない左手を伸ばし、愛華の右手か左手かを掴んだ。

 愛華の手が寝間着の布地から俺の手へと移動する。両手で握られている左手を、そっと握り返した。



「ありがとうございます。蓮さんはやさしいですね。安心して眠れそうです。おやすみなさい」


「ああ、おやすみ」




 ……それから何分か経った。


 呼吸音と、布擦れの音。

 普段では聞こえるはずもない、振り子時計の振り子の音さえ聞こえてくる。心臓だけは高鳴っている。


 握られていた手が離されて、代わりに、背中から優しく抱き締められている。背中に柔らかい感触がある。ご褒美だろうか。


 これは、やばい。俺が抱き枕になってる。

 寝られるはずがない。これはご褒美なんかじゃない。拷問だ。


 欲望のままに行動したいと思うのは、人間の性だ。その欲望がために破滅するというのもまた、人間の性だ。


「ねえ、蓮さん?」


 思わず、身体を硬直させた。


 愛華の声。その声色には、なんていうか、熱が帯びているような気がした。それを否定しつつ、あくまでも平然として「どうした?」と訊ねる。



「なんだか、眠れませんね」

「ああ……抱きつくのをやめれば、落ち着いて寝られると思う」

「……どうしてそう、つれない事を言いますかね。私だって女の子なんです。傷付きますよ」


「悪い。でも、自分を守るためなんだ」

「……はあ。それはどういう意味なんでしょう」


「とりあえず、俺は全力で寝る。念のため言っておくけど、俺からは何もしない。安心して寝て欲しい」

「いったい何をするつもりだったんですかねぇ」

「さあな」


「……もう。本当につれないんですから。でも、そう言うと思ってました。……だから思う存分、抱き枕にして寝ます。一緒に寝るのなんて、きっと今日だけですから」


「つれない奴が釣れちゃったら困るだろうに……まあ、いいや。おやすみ」


 皮肉めいた言葉に返ってきたのは、幸せそうな笑い声だった。一層強く抱き締められた。ふかふかのぷにぷにのぽよんぽよんだ。


 最初の体勢のまま丸くなり、寝る。

 そんな俺を後ろから抱き締めて、背中に顔を押し付けて寝息を立てている。

 それだけに留まらず、脚を身体の上に乗せてきて、これでもかと密着される。


 身動きを取らずに寝るというのは大変なことだ。

 心の中で般若心経を唱えながら、寝ることだけを考えた。

 次第に気分も落ち着いてきて、意識は遠退いていった。

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