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13.開けちゃダメな扉がある 2

 居間には規則的な音が繰り返される。振り子時計の音のみが繰り返される。

 テレビの電源を切り、二人掛けのソファーに腰を下ろす。


 無言で、無音で、隔絶された世界がここにある。


 ひとつ、深呼吸をした後、気を練るかのような集中力をもって聞き耳を立てる。



 数枚の壁を隔てた二時方向の約五メートル先。

 お風呂場から、シャワーの音が響いている。

 音感のみのわずかな情報から、遠く郷里を思ゆるかの如く静かに目を瞑り、只々全身全霊を以って妄想する。


 一つ年上の女の子が入浴中なのだ。

 他でもない、我が家のお風呂で。



 清らかに流れる鼻歌。

 絶え間なく立ち上る厚い湯気。

 湯気の切れ目から覗く透き通るような白い肌。

 珠のような露にしっとりと濡れる健康的な肌。


 妄想せずとも、この双眸で彼女の眉目秀麗たる様を見届ければ良いのではないだろうか。


 端的に言おう。覗きに行きたい。でも理性がそれを許さない。板挟みの状態だ。

 メイド服を脱いだ姿を、水無月愛華の秘密の場所を、この目で見ることが出来る最初で最後のチャンスかもしれない。

 チャンスがあるのに指を咥えて見ているなんて、そんなのありえない。


 どんな言葉で飾っても、見たいものは見たいし、触れたいものには触れたい。これが人間の本能なのだ。こういう時に我慢が効くのは人間であって、人間ではない。故に人は人たり得るのだ。



 これが……この反応こそが……思春期の高校生として当然のことなのだ。アイデンティティを確立し、強く生きるために必要なことなのだ。


 ……でも、自分が覗かれる立場だったなら、どう思うだろう。快く思うだろうか。間違いなく、そうは思わないだろう。


 自分がやられて嫌なことはやらない。動物としての人たり得る以前に、倫理に生きる人として、道は外れたく無い。今こそ人間になるのだ。


 人間とは何かを真面目に考えていた。原初は小さな細胞だった。永い歴史と進化の過程でより強く環境から逃れるために祈り続け、そしてヒトとなったのだ。我々はどこから来て、どこへ行くのだろうか……。


 そんな時に、風呂場から物音がしたもんだから、俺の冷静さは再びポーンってなった。



 ……き、聞こえる、聞こえるぞ。物音が聞こえるぞ。風呂場から物音が聞こえるぞ。明らかに今お風呂から上がった音が聞こえたぞ!


 ……布! 布の音! 着替えている!

 髪を乾かしている! ドライヤーの電源が入った!

 また、鼻歌を歌っている! るん、るんるるん! るんる、るん!

 ドライヤーの電源が落ちた! まだ乾いていないだろうが! 女の子はちゃんとケアしなきゃダメでしょう!

 あわわ、あ、あし、足音が近づいてくる!

 き、来てしまう。水無月愛華が来てしまう。お風呂上りの水無月愛華が居間に来てしまう!


 どんな顔をして出迎えればいい! いま会ったら間違いなく、なんかやばい!

 お風呂上がりはいい匂いするしなんかホクホクしてるし可愛さマシマシなんだから! 見たいけど見たくないんだから!



「ふぅーっ……いい湯だったぁーー」


 居間の扉を開ける音と共に、現れた。


 ……ジャージ? 間違いない、ジャージだ。

 飾り気のまったくない黒いジャージを着ている。


「えっと、ジャージ、似合いますか? ちょっとサイズが大きいんですけれど……」


 不安げに、恥ずかしげに訊ねてくる。

 似合うもなにもジャージの似合わない人なんて見たことがない。


「うん、似合っているよ」


 そう答えておいた。実際、似合っていたから。


 ……余談だが、湯上がりお色気効果と言うものがあるらしい。今、俺が作った。

 お風呂上がりの女性は我々男性には魅力的にうつるというものだ。

 体温が高まると血管が膨らみ、血行が良くなる。血行が良くなると、毛細血管の内腔が拡張され、肌とかがわずかに赤らみ、それが色っぽく映る。


 しかし、彼女は例にもれていた。

 たしかに、頬はほのかに赤くなっていた。

 普通のパジャマだったなら、湯上がりお色気効果の補正を盛大に受けていたはずだ。


 だが、愛華の着ているジャージは、色っぽいとはお世辞にも言えない。


 何故なら……彼女の着ているジャージは、一体どこから手にいれたのか、普段は父さんが着ているジャージそのものだったからだ。


 そんなことなど知る由もない愛華は、屈託のない笑顔でほくほくと湯気を立てている。


「どうかしましたか?」

「そのジャージ、どこにあった?」

「ああ、これですか? 脱衣室のカゴの中に畳んであったので着てきました。……あれ、蓮さんが持ってきてくれたんじゃ……?」



「そんなわけないじゃんそれ、父さんのだから」



 その刹那、水無月愛華は、物凄い顔をした。


 部屋一面にゴキブリが這っているのを認知してしまった瞬間のような、血の気の引いた顔をしている。

 彼女は少し考えてから口をひらいた。

 それと同時に、ガバリと服を脱ぎ始める。



 目の前に広がる楽園。薄緑のブラジャー。あのブラジャーはお金が足りないあのクソッタレな時に、一番最初に除外候補から除外した、言うなれば一番のお気に入りなのだ。なるほど、あんな感じに機能するわけか。

 予期せぬ出来事に頭がパンクする。パンツなんて見ている余裕がない。



「いいい一刻も早くっ、脱がなければ……!」


「おい! 目の前に! 男子! なんで脱ぐんだよアホ!」

「恥ずかしいだとか見られたくないだとか、そんな事言っている場合じゃあないんです! 着ているのが嫌なんです!」

「セクハラだ! 男子を蹂躙している!」

「相手が不快じゃないからセーフですから!」

「……たしかに」思わず本音がこぼれる。

「…………」愛華は呆然とこちらを見る。

「で、でも、脱いでどうする! そのまま寝るのかよ!」

「……メメ、メイド服で寝ます!」

「シワになるじゃん」


 さらに彼女は少し考える素振りを見せ、さっきと同じように口を開いた。

 下着姿でなに落ち着いてんだと、こちらが言う時間さえもなく、彼女は行動に移した。



「蓮さんの借りますね」


 そう言って、彼女は俺のシャツを剥ぎ取ると、あっという間に着てしまった。


 Mサイズのシャツは容赦なく強調した。

 彼女の胸を、アンダーとトップの差を、容赦なく強調した。


 Tシャツの長さはパンツがギリギリ見えなくなる程度のものだ。

 白いシャツは薄緑の余韻をしっかりと残しつつ、異次元の芸術を垣間見せる。これは素晴らしい。


 そのすぐ後に、自分の状況を把握し、絶叫した。

 シャツを脱がされて上半身裸なのだ。叫びたくもなる。


「信じられない! なんで俺の服を剥ぎ取るんだ! ていうか、なんてツラで俺を見てやがる! やらしい目で見るんじゃない!」


「ヤダ……いい筋肉……毛も少ない……」


「実況すんな! クソ!」


 ソファーに置いてあるクッションを愛華の顔に押し付ける。「ぶはっ!」と声を漏らしながら、愛華はソファーの上へ投げ出される。


 ソファーの上に叩きつけられながらも、クッションがあることで視界が遮れる事を理解し、そのままクッションを抱き締めてソファーの上にちょこんと座った。


 落ち着いた途端に恥ずかしさがこみ上げてきたらしく、耳が真っ赤に染まっていた。



「……ずびばぜんでした」

「まったく。……服探してくる。この際、俺の服で我慢しろ」


 愛華は黙ってこくりと頷く。

 その様子を見届けてから、ゆっくりとその場にしゃがみ込む。


 ソファーとクッションの間から控えめに顔を覗かせる薄緑色のおパンツ様をしっかりと目に焼き付ける。

 返す刀で父さんのジャージを回収し、ゆっくりと立つ。無駄がなくそれでいて大胆で完璧な行動だ。



 父さんのジャージを両親の部屋に投げ入れ、自分の部屋に行き、シャツを着る。

 それから、愛華が着れるような服を見繕う。


 居間へ戻ると、愛華はソファの上に座っていた。先ほどよりもクッションは下に移動し、口元と太腿の間に挟まれていた。この時ばかりはクッションが羨ましい。

 切れ長の目尻には涙を溜めて、頬を染めながらクッションを胸の前で抱き締めていた。クッションと胸の間のあの超絶空間に手を滑り込ませたいけれど、やめておこう。


「なに泣いてんだよ」

「…………だって……」

「……ほら、ティッシュ。とりあえずこれ履いて、シャツはそのまま着てていいから。それから、パーカーもあるから羽織ってて」


「すいません、何から何までありがとうございます。……あの、ズボン履くので、あちらを向いててください……」


「あ、ああ。うん」


 扉の方に向き直り、目を瞑る。そして聞き耳をたてる。シュルリシュルリと気持ちのいい布擦れの音が届く。


「良い生地ですね。履きやすい」

「そう。でも、サイズが小さくてな」

「たしかに、蓮さんが履いたらお尻のところの縫い目が破けちゃいますね」

「そうだな」

「ええ」



 愛華は黙り込む。そんな調子なので、こちらも余計なことは言わず、彼女が口を開くまで待つことにする。多少の沈黙は我慢しよう。


「……あの、蓮さん。取り乱しちゃってすいませんでした」

「気にするな」

「私、取り乱すと周りに迷惑かけてしまうところがあって……すいませんでした」

「取り乱すって、そういうもんだから」


 愛華は不安そうにこちらをうかがい見る。しばらく視線の交換をしてから、愛華は口を開く。


「怒らないんですか?」

「怒る必要がないよ。紛らわしいところにジャージがあっただけだし、それに気付かなかった俺も悪いし」


 愛華はこちらへ向けていた視線を逸らし、クッションをより強く抱き締める。それから、溜め息をひとつ吐く。


「……子供かと思ってましたけど、案外、人間が出来ているんですね」

「今日一日で成長したんだよ」


 フフッと、小さく笑う声が届く。

 愛華はパーカーの紐を指先で遊ばせながら、まぶたを閉じて、深呼吸をひとつ吐く。


「明日は、学校ですか?」

「うん、学校」

「……明日からも、迷惑かけると思いますけど、よろしくお願いします」



 お辞儀をされる。それにならって、こちらもお辞儀を返す。

 愛華のお辞儀はお辞儀というよりは、胸に抱いたクッションに顔を埋めている感じだ。


 十秒ほど経ってから、ハッとなって頭を上げ、目をパチパチさせている。時折見せる眠たげな表情が疲労の程を物語っている。

 無理もない。こんな見ず知らずの男の家に、成り行きで押しかけてきてしまったのだ。

 身体も疲れているだろうが、精神的にも疲れているんだろう。


「もう少ししたら十二時になる。もう寝ようか」

「そうですね。では、おやすみなさい」

「おやすみなさい」


 居間の電気を消し、階段をのぼって二階へ上がる。愛華は隣の部屋の扉を開けて、ぺこりと会釈をしてから部屋の中へ消えていった。



 自分の部屋に行き、脱ぎ捨てた制服をハンガーに掛ける。散らかした衣類を箪笥に押し込む。電気を消して、布団に潜り込む。


 携帯電話をいじってみたが、やる事もなく、すぐに飽きる。

 そろそろ寝ようかと思い、なんの気なしに画面端に表示されている時計に目をやる。時刻は十二時を過ぎていた。



 寝て起きたら、また、学校だ。

 明日も同じ日常が続くのだろうか。


 ……いや、今日は大きな変化があった。



 突然、親がいなくなってしまった。

 同居人が二人減って、一人増えた。そいつはメイドとして働いてくれるらしい。


 あとは……そう、女の子の下着というものをまじまじと見た。思っていたより、少し大きめだった。


 充分、平凡な日常から離れられた。

 明日もこの調子で楽しめるといいな。




 不意に、部屋の扉が二回ノックされた。

 しばらくしてから、またノックされる。


 扉を叩く奴なんて一人しかいない。嫌な胸騒ぎがする。

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