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12.開けちゃダメな扉がある

 

 プルタブを倒す。スチール缶の飲み口が弾けた。


 静けさの漂う街並み。

 多少の湿気。冷えた空気。

 街灯の光は点々と延び、どこまでも続いているかのように思える。


 服屋から出てすぐの路地に自販機が置いてあった。

 気晴らしに買ったコーヒーは、ぐうの音も出ないほどに甘い銘柄を買ったはずなのに、いつもより少しだけ苦かった。

 自動販売機の照明が、道路に二人の影を引いた。


「あのさ」

「なんでしょうか」

「喉、乾いてる?」

「うーん……飲んでもいいですよ」


 なんだそれ。はっきりしろよ。心の中で呟く。

 苦笑いしながらポケットをまさぐる。感触を頼りに、手のひらにコインを引き寄せた。

 手の平の中には、七十円しかなかった。


「……足りないみたいですね」


 愛華が呟く。心なしか残念そうなアルトの声が紡がれた。彼女の声の調子に合わせるように、「そうみたいだな」と静かに言う。

 返ってきたのは先程と同じ音色の、かすかな吐息だけだった。彼女の吐息に会話が途切れる感覚がした。


 ……どうしよう。喉、乾いてるよな。

 だが、さっきの事もある。こいつのためにわざわざ財布を開くのは面倒だ。


「……あ、飲む?」


 飲みかけのコーヒーを差し出す。愛華は目を丸くして、視線で缶と俺の顔を行き来した。


「いいんですか?」


 きょとんとした顔で訊ねられる。身長差があるせいか、やっぱり上目遣いだった。潤んだ目が自販機の光を反射している。

 ……大丈夫。あくまでも間接。だから、気にしてない。大丈夫。間接だから大丈夫。こうして自分に言い聞かせているわけだから、本当は恥ずかしい。間接でも、気になるものはやはり気になる。


「……あの、あれ、あれだ。別に、無理して飲まなくてもいいからな」

 と言いつつも、コーヒーの缶は差し出したままだ。おかしい。行動と言動が一致しない。

 まずい。混乱しつつある。落ち着こう。下手に意識するからダメなのだ。


 善意でコーヒーを分けてやろうとしているのだ。やましい事なんて何もない。そう、もっと堂々とするべきだ。堂々と。


 愛華はこちらが無理に平静を装っていることを察したらしく、俺の反応を見てニヤニヤ笑っている。


「……ああ、そっか、なるほど。やれやれ、ご主人様も隅に置けないなぁ」


 こちらの気持ちを汲み取りつつも、それを逆撫でしていく。わざとらしく『ご主人様』などと言う。言葉のチョイスがいちいち嫌味ったらしい。

 『そんな反応すんな!』とか『飲まなくていいよバカ!』とか本当は言いたいけれど、言ったところで相手を喜ばせるだけだ。


 必死になって落ち着こうとしているうちに、手から缶が離れていく。


 受け取った本人は楽しそうに微笑みながら、缶を眺めている。そんな様子を見せつけられて、恥ずかしさが急激に込み上げる。


 何か言ってやろうとしたものの何も言葉にならず、唇が情けなく震え、頬が野暮ったく膨れていく。


「まぁ、蓮さんのなら問題ありませんね」


 大問題だよ。本人を目の前にして何言っているんだこいつ。恥ずかしいことをわざわざ言うなんて、なんて嫌味な奴なんだ。

 この調子なら、きっと、唇をつける時のこちらの反応も観察されるに違いない。


 ……その割には、いつまでも缶に口を付けようとしない。こちらの様子を見ようともしてこない。


 よくよく見ると、愛華の頬がほんのりと赤らんできている。

 唇をもぞもぞさせながら、ただただ飲み口を凝視している。

 ははーん……さては……。


「……もしかして、間接キス気にしてるの……?」

「っや! いやいやいや、そんなことはこれっぽっちもございません! 微塵たりとも!」


 ……気にしてるのか。

 自分から恥ずかしいことを言っておきながら、言った後になってジワジワと恥ずかしくなってくる、なんてことはよくあることだ。


 面白いし、さっきの恨みもある。それに、なんだか可愛らしいから、このまま意地悪してやろう。


「だよな! いやー、間接キスなんて気にしてるのかと思ったよ」

「は、はは、そんなわけないじゃないですか。お子様じゃありませんし。キスなんて浅いのも深いのも朝昼晩毎日十回、いや、二、三十回はしたりされたりしましたよ」

「へえー、大人だね。彼氏もいないのによくそんなにチュッチュチュッチュできたね」

「か、彼とはついこの間別れましてね……あはは」

「へえー、そっかそっか。いろいろあるんだね」

「そう、いろいろあるんです。うんうん」


 『なんとか凌いだ』と胸をなでおろす愛華に、目先の問題を突きつける。


「まぁ、それはそれとして、恥ずかしくて飲めないなら、無理して飲まなくていいよ」

「は? 恥ずかしくて飲めないなんて、そんなことあるわけないじゃないですか。私には飲めます! いただきます!」


 グビッと、喉を鳴らして飲みほしていく。そもそもの量が少ないので、あっという間に飲み干してしまう。


「本当に飲んじゃった……間接キスされたわ……うわぁ〜」


 間接キスという単語に、愛華はせ込みながらも飲み干した。エプロンにシミがついていないことを確認してから、恨めしそうな顔付きでこちらを睨む。


「っうぅぅ……どうです? 見ました? ごちそうさまでした」


 そう言うと愛華は缶を軽く投げる。

 カランコロンと余韻を残しながら自販機横のゴミ箱の中に消えて行った。


 どうでもいいけど、俺、一口しか飲んでない。

 満身創痍の愛華を前にして言うことではないなと思い止まる。気まずい空気を抱えたまま、終始無言で歩いた。



 十時を過ぎた頃に帰宅した。時計を見て、案外時間が経っていないなと感じる。

 そう思うほどに、時間がやたらと長く感じた。


 あの時は冷静さを失っていただけだ。その後の間接キスの件も同じことだ。


 男子同士で飲み物を回し飲みしたりするのと一緒。口の構造は一緒。だからあいつは男子と変わりない。つまり間接キスくらいで動揺しなくていい。よし、大丈夫だ。


「愛華さん、ちょっといい?」

「な、なんですか? ひょっとして、ただいまのキスをねだりに来たんですか」

「馬鹿かよ。……あんまり広くないけど、家の中案内するから」

「ああ、かしこまりました。その前に、お風呂を沸かした方がいいのでは?」

「そうだね。浴槽は洗ってあるから、給湯器のスイッチ押せばいいんだけど……場所、分かる?」


 お風呂は台所にある給湯器のパネルを操作すれば、十分くらいでお風呂が沸く仕様になっている。操作と言っても、ボタンをひとつ押せばいいだけなので、家事に縁のない前時代的思想の男子にも、ちゃんと使いこなせる。


「さっき台所に行った時にそれっぽいパネルは見ましたけど、これくらいの白いパネルでしょうか」

「そうそう、それ。自動っていうボタン押せば勝手に沸くぞ」

「ヘぇー。便利ですね。私が以前働いていたお屋敷では、源泉掛け流しで常に湧いていたので、お湯の心配なんてしませんでした。なので、なんだかとっても新鮮です」


 さらりとこぼれるメイドの一言は、階級の差を実感するには充分だった。



 あれやこれやと話をしながら、家の構造を教えた。一通り教え終わった頃にはお風呂がいい感じになっていた。なので、お風呂に入ることにした。


 もちろん、俺が先に風呂に入る。

 また言い争いになるかと思ったが、愛華のほうから「お先にどうぞ」と言ってきた。

 そこまではいいのだが、どことなくむっつりとした表情をしていたのが妙に引っかかった。




「ふう……疲れた……」


 疲れたなんて毎日言っているが、今日は格段に疲れた。


 いろいろありすぎた。それでも、一日の時間は限られている。どんなに忙しなく次々とイベントが来たとしても、その日の終わりは必ず来る。同じ理屈で明日というものもちゃんとくる。


 明日……か。


 明日からの生活はどうなるんだろう。まずは、先立つものがなければ何も出来ない。

 まずは通帳を確認だ。どうにかなればいいけどな。


「蓮さーん」


 不意に、愛華の声が聞こえた。

 切羽詰まった様子ではなく、普通に呼ばれたという感じだ。

 しかしながら、呼ばれても困る。お風呂に入っているんだから。返事をせずに湯船に浸かっていると、また「蓮さーん」と呼ばれる。


 しかも先ほどより近づいてきている。


「蓮さーん!」


 あまりの近さに驚きつつ、風呂場の扉を見る。すりガラスで出来た扉には、メイド服のシルエットが浮かぶ。


「蓮さーん!」

「なんだよ、聞こえてるわ」

「開けますよー?」


 開ける? 何を? まさか、扉を?


「は? ちょちょちょ、ちょっと待て! なんで? 開けちゃダメだ!」



 忠告も虚しく、浴室のドアは開けられた。

 反射的に、身体を隠すように浴槽にしがみつく。


 ドアから顔の半分だけを覗かせて、愛華はこちらを見ている。


「え、なんでですか?」

「プライベートだからだ! 目的はなんだ!」

「なんでって、背中を流しに……」



 背中を、流す。

 そんな都市伝説みたいな話が本当にあるのか。

 だいたい、なんのために俺の背中を愛華が洗うんだ。


「前の屋敷ではどうか知らないけど、俺は背中を流された事なんて一度もない。だから、愛華はそんな事しなくていい」

「……なるほど。失礼しました」

「ああ。あまり気にしないでくれ」


 視界からメイド服のシルエットが消える。ばたりとドアが閉められる。

 ……まさか本当に『お背中流します』的なイベントが実在するとは。あの様子だと、前の屋敷では背中流していたんだろうな。


 この調子だと、これからも噛み合わない事が出てくるのだろう。

 愛華からしてみれば普通のことで、それだけに、環境の変化に対応出来るかどうかの瀬戸際に立っているところだろう。


 出来る限り、温かく見守ってあげよう。そうするのがお互いのためになるはずだ。



 お風呂からあがった。

 タオルを片手に頭をゴシゴシ拭きながら、欠伸をしつつ居間に行く。居間に愛華の姿はない。台所から物音がしている。どうやら、明日の食事の下準備をしているらしい。


「風呂、空いたぞ」

「そうですか」


 無愛想な返事をして、作業を黙々とこなす愛華。この場所を動く気配はない。


「……ん? 風呂入ってこないの?」

「え? 入ってきてもいいんですか?」

「いいよ。いいからこうして声をかけているんじゃない。……さてはアレか。『前の屋敷では~』というやつか」


「ええ。前の屋敷では、主人が寝た後に入っていました。色々な仕事の役割がある中で、私は身の回りの世話が役割だったので」

「そうか。それは大変だな」

「まぁ、楽ではないですね。でも、楽しかったですよ、とても。じゃ、私お風呂に入ってきます。失礼します」


 俺の方には一切顔を向けず、そそくさと台所から出て行った。廊下からは鼻をすする音が聞こえた。

 泣いているように聞こえたけど、どんな事情で泣いているのかは見当がつかない。


 いったい、どうしたんだろうか。

 屋敷を出なきゃいけなかった理由を、聞いておいたほうがいいかもしれない。

 そのためにもまずは、お互いに話せるような仲になるしかない。今はまだ、そんなに仲良くないもんな。


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