11.下着にまつわる小噺 2
店の一角。
マネキンがポーズをとる。
関節が浮き彫りになった手を腰に当てて、これでもかと下半身を強調してくる。人間で実現したなら、露出狂以外の何者でもない。
局部以外を覆い隠すようにトレンチコートを着ている辺り、本当にそれっぽく見える。
このマネキンの最も伝えたいことは下着の素晴らしさにある。
マネキンが纏った下着はなめらかな黒を讃え、歌うように清らかな刺繍が入っている。
大事な部分をギリギリ隠せる程度に軽減された布の面積。まるで湖に流れる風のような、それでいて情熱の炎のような猛々しさを感じる。
露出するにふさわしいほど、芸術的なのだ。
そんなワケで、下着を買いに来た。
「蓮さーん、れーんさーん?」
店内をぶらりと歩いていると、愛華の声が聞こえる。こんなところで名前を呼ばれるなんて恥ずかしい。恥ずかしいけど行かなくてはならない。呼ばれたから行かなくてはならない。
女子の素敵な楽園……名状しがたく冒涜的な、男の浪漫の源へ。
「頼むから、こういうとこでは大声で呼ばないでくれ」
メイド服を着た女性を見つけた。大きく広げたストールを外套のように背中に流し、薄緑色の下着の前で考え事をしている。
「え? ああ、失礼しました。不慣れな場所だからなのでしょうか。遅かったですね」
「あ、えっと、ごめん……ええと……」
「謝っているわりには、視線が定まりませんね。キョロキョロしないでくださいませんか?」
「いやー、すまん。……四面楚パンツとはこのことか……」
愛華は不憫な人を見るような視線を送ってくる。しばらく沈黙を守った後、口を開く。
「あ、ああ……はあ、なるほど」
「その反応、それ一番傷つくんだからな。それで、用件はなんだ」
「そうそう。それでですね、その……。この下着と、こっちの下着、どっちが似合います?」
「……右かな」
「おお、右ときましたか……」
「ああ、右だ」
……自分でも分かるほどに、落ち着いたように振る舞っている。
が、頭の中の立花蓮は滝に打たれる修行僧の如く、『平常心の平常心は平常心であり平常心とは平常心、つまり平常心による平常心は平常心なのだぁぁぁあ』と意味の分からない事をクソ真面目に何回も何回も唱えている。落ち着こうと必死なのだ。
助けなど望めない。まさに窮地。まさに四面楚歌。
皆目余裕などない。歌を口ずさむ者もいない。周りにはパンツしかない。故にパンツ。四面楚パンツなのだ。
……四面楚パンツってなんだ。一体どういうことだ。なんなんだ。どういうことだ。
唯一確信を持てるのは、まともに思考が働いていないということだ。
「蓮さん、こうしていると、なんだかデートみたいですね」
「デートで下着なんて買いに行くのかい」
「わかりません。……るんるーん、ふんふふーん」
鼻歌。鼻歌なんて歌うんだな、こいつ。
……まあ、その、なんだ。
無邪気に服を選ぶ女の子ってのは、なんとも楽しそうで、可愛いもんだな。
着ているものがメイド服じゃなければ、なんの負い目もなく素直に言葉に出せたのかもしれない。
そう。愛華は美しいし可愛い。それは認める。
でも、世間の目がある。彼女がメイド服を着ている限り、毅然とした態度を示していかなければならない。
それでも、メイドの良さを認めてしまえるのなら、世界はもっと幸せになれる。しかし、理想と現実の間には、埋められそうもない溝がある。
しかしながら、この不自由さが人間たる所以でもある。
むしろこのジレンマを乗り越えてこそ、鼻血の似合う渋い大人になれる……ん? 血?
「おや、蓮さん、鼻血ですよ」
「……いや、あの、変なこと考えてたわけじゃなくて、俺はただ、世界が幸せになれる方法を……かんがえてましたから……」
「まだまだお子様ですね……これをどうぞ」
「すまん」
冷めた目でポケットティッシュを差し出す愛華。よく見てみれば、俺が朝に渡したものだった。
それを受け取って、小さく千切って鼻に突っ込む。
「ジャックインとは、スマートじゃない止血の仕方ですね。鼻孔をティッシュで押さえて、安静にしてるだけでいいんですよ」
「鼻孔って、鼻の穴だよな。ティッシュ突っ込んじゃったし、次からはそうするよ。ちょっと休んでくる」
「ええ、お大事にどうぞ」
「ああ」
下着売場のすぐ近くにあるベンチに座り、休むことにした。五分くらい安静にしていたら、鼻血が止まった。そろそろ愛華のところに戻ろう。
視界に入る下着たちを見て見ぬフリしつつ、愛華の元に急ぐ。こんな地雷原のような危険地帯では、ゆっくり歩いていられない。
「戻った」
「無事で何よりです。この下着とこの下着、どっちが似合いますかね?」
「左かな」
「やっぱりこっちですよね。こっちにします」
楽しそうな笑顔を見せつけながら、下着を棚に戻す。
下着がパンツとブラジャーになり、やがてパンツの一部となり、ブラジャーの一部となる。それらはやがて大きな下着の一部となり、命の流れは循環していく……いや、ダメだ、つらい。もう頭が回らないよ。
限界はとうに超えているが、ここにきて、当たり前のようにパンツを眺めている。もしかするとこれは、限界を超えて、耐性が付いてきているという事なのだろうか。
この調子で、下着ぐらいで動揺するような子供からは卒業して、常に冷静に判断できる、大人の考えを持った男になれたりしないかな。
「……何をニヤニヤしているんですか?」
「フフフ……いや、なに。下着とパンツの境界が朦朧としててね。命の流れを感じたんだ」
「え? ああ、はい。よくわかりませんけどとてつもなく気持ち悪いですよ」
気持ち悪いなんて、そんなこと分かりきっている。それでも、開き直らなきゃやってられない。
話を切り替えてしまおう。そうすれば、気持ち悪い発言もしなくなるだろう。
「思うんだけどさ、メイド服って目立つよな。愛華の近くにいたら俺まで目立つのかな」
「それは、私の近くに居たくないってことですか」
「そういうわけじゃない。目立ちたくないってことだ」
「そうですか……難しいですけど、私なりに気をつけてみますね」
「ああ、ありがとう」
「さてと……大体、このくらいですかね。買いたいものは選んだので、私はお花を摘みに行ってきます。お支払いお願いしますね。私、お財布持ってきていないので」
「え、あ、ちょっと……ええええ……」
急展開である。買い物かごを押し付けられる。
パタパタと走り去る彼女を見送ってから、事の重大さを再確認する。
買いたい物が食べ物とか日用品とかなら、何も問題なかった。でも、下着だったんだ。
このままレジに行くとする。すると、変な勘ぐりをされて、店員との間になんとも言えない気まずい空気が流れるはずだ。そんなの耐えられない。
愛華が戻ってくるのを待って、彼女にお金を渡して支払いを済ませれば穏便に済む。自分を守らなければ。
レジから少し離れた場所でしばらく待つと、愛華がトイレから出てきた。愛華は遠目にこちらの様子を伺うと、ふらりと、店の外へ消えていった。
……えっ? どういうこと?
俺に支払いを押し付けて、自分は外で待っているつもりなのか?
……まさか、さっき言った言葉を、私なりに気をつけるってことを、実行しているってことか? それ今じゃなくていいよな? なあ?
え、どうしよう。恐ろしい人相の男が女性用下着を買うためにレジを睨みつけている。じっとしたまま動かない。いや、動けない。なにこの仕打ち。
絶対に変な目で見られる。絶対に恥ずかしい。
……恥ずかしい? 発想を変えるんだ。何も恥ずかしいことなんてないじゃないか。ただ事務的に処理すればいいじゃないか。
カゴをレジに持って行って、下着の挙動を見守って、お金を出して、買い物袋を片手に愛華の元へ行けばいいのだ。
その間に店員に何を言われようと「アッ、ハイ」で押し通し、どんな目で見られようと、菩薩のような慈眼を以って気持ちを抑圧すればいい。心の中で般若心経を唱えるのだ。
店員は後ろを向いてなにかの作業をしている。
気配を殺し、忍び寄る。スーッと買い物カゴをレジ横の台に置く。僅かな音に店員が気がつき、こちらを振り向く。
「いらっ……シャイマセー」
こちらを見て明らかに反応を変えた。一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに営業スマイルを向けてくる。こいつ、プロだな。
ただでさえ鋭い目つきをさらに細め、慈しむ心持ちでパンツの行方を見守る。
店員は全力でこちらを怪しみながら、下着のバーコードをスキャンしていく。最後の下着を読み取り、合計額が表示される。五枚組で三万を少し超えていた。店員は袋詰めを始める。
背筋が凍る。菩薩の心が揺らぐ。冷や汗がどっと出てくる。細めた両目を完全に閉じ、観念したかのように立ち尽くす。
嗚呼、神よ……なぜあなたはこうも無慈悲なのか。
「お客様、合計で三万円になります。………………お客様、すいません、お客様……?」
「……アッ……ハイ……」
「はい? あの、こちら合計で三万円になります」
この世に救いはない……そして、お金も足らない……!
財布の中には二万五千円入っていた憶えがある。
一組六千円の下着を五つ……四つまでなら買えるんだ。一組諦めればいい。
「……すいません、一組キャンセルで」
「はい、……えー、どれにいたしましょう?」
袋詰めを終えた品物を再度引き出し、ずらりと並べられる。圧巻の光景である。
下着。下着の列。下着の集合。下着の群れ。下着のパレード。踊る下着。下着の……下着の……!
どれを選べと? ピンク? 薄緑? どれを蹴落とすか選べない! 全部欲しい! うううううどどっどどうすればいいんだ!
もはや、大人の余裕や冷静さは微塵もなく、選択を迫られ窮地に瀕する。
そこには三白眼の男が一人、見るも無残に佇むだけだ。
眉間に手を当てながら血走った目でああでもないこうでもないと独り言をこぼしている。
そんな様子を見て、店員は何を思うだろう。
とにかく死にたい。とにかくこの場から去りたい。
神がいるというのなら、こんなの試練を与えた神を殺して俺も死ぬ。
「……えっと、じゃあ、この薄い青をキャンセルで……へへっ……えへへ」
「……かしこまりました。合計で二万四千円になります。……ありがとーございましたー」
ゴミ屑を見る目を向けてくる店員に見送られ、会計を終えた。
店から出ると、壁に寄りかかっている愛華の姿があった。憔悴しきった俺の顔を見て、愛華はポツリと言葉を発する。
「少し考えてみたんですけど、私がいなくても、目立ちますよね……?」
こちらに向けられた笑顔は、この女は只者じゃないと思わせるようなニヒルな笑顔だった。もはや言い返す元気すらない。
「……アッ、ハイ」
……愛華はこういうやつなんだっていうのが初日にして分かってよかった。ただそれだけを噛み締めて、生きていこう。




