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10.下着にまつわる小噺


 部屋には振り子の音が響く。壁掛け時計の振り子の音だ。

 普段はテレビの音声や環境音でかき消されるが、今日は聞こえている。それほど静かだということらしい。


 ソファーの上で寝転がりながら、時間をただ浪費する。愛華と会話をするわけでもなく、ただただ無言の時間を過ごしている。

 ご飯を食べたらお風呂にはいる。特に理由はないが、それが通例だった。理由を挙げるとするなら、親から『お風呂にはいっておいで』と声をかけられることか。

 今日はお風呂にはいる時間が遅くても、なにも言われない。親はどちらもいないのだから。



 耳をすませば、愛華の息遣いが聞こえてくる。同じ空間にいる。でも、だからといって会話が生まれるわけでもない。

 愛華はカーペットの上で正座して、荷物の整理をしている。かたわらに置かれた革のバッグは品の良い光沢をのぞかせている。チラリと見た荷物の中に、下着はなかった。



 やることもなく、左右に規則的に動く振り子をソファーに寝転がりながら見ていた。それの針は八時を過ぎていた。


 テレビ番組でも見ようかと思ったが、電源を点けることすら面倒くさい。テレビの電源を点けるためにはリモコンが必要だ。リモコンを取るためには身体を起こして腕を伸ばさなくてはならない。その程度を動くことすら面倒なのだ。



 もう一度、愛華の様子を覗き見る。

 品の良い光沢を見せる革のバッグの傍らに、衣類が積まれている。荷物の中に下着はなかった。下着を隠すための袋のような物もなかった。


 パンツとか、ブラジャーとか、ないのかな。


「今、履いてるやつ」ポツリと呟く。

「……え?」一瞬の間を置いて、愛華はこちらに視線を向ける。


「それ以外の下着って、あるの?」

「は? えっ、見たいんですか?」

 愛華はわりと大きな声を出して驚いている。


 なにをそんなに驚いているんだろう。

 今履いてるもの、それ以外の下着はないのか、と。そうきいただけなのに……。


 あ、そういうことか。それがまずかったんだね。


 ……え、ちょっと待て!

 ……なんてことを聞いてしまったんだ! 完全に無意識だった! 頭の中がパンツでいっぱいだった!

 もちろんパンツのことばっかり考えていたわけじゃあない。ブラジャーのこともちゃんと考えていたし、どんなパンツ履いてるのかなって思ったのも事実だけど、そうじゃあない!

 そうじゃあないんだ! それ自体が間違いなんだ!



 愛華は目を閉じて、口元に握りこぶしを当てて深呼吸をする。六秒ほど経った頃、落ち着きを取り戻した様子で咳払いをした。


「いきなりで驚きましたよ。セクハラはいけません」

「えっと、ごめんなさい。無意識だったもので」

「無意識なら許されるとでも? ……蓮さんのために言いますけど、こういうものは往々にしてエスカレートしていくものです。気をつけましょう」

「すいませんでした。気をつけます」


 はぁ……怒られちゃった……。気まずいなぁ……。


 『気をつけます』とは言ったものの、なにに気をつければいいんだろう。話す前にいちいち考えなきゃいけないのかな。

 そもそも会話が遅いのに、さらに遅くなっちゃいそう。

 それに、なにを気をつければいいか分からないままだと、どんなに気をつけても仕方ないよな。

 ……しょうがない、聞いてみよう。聞かぬは一生の恥ともいうしな。


「なにに気をつければいいの?」

「自分で考えてください」愛華は即答する。


 こちらの沈黙に罪悪感を感じたのか、こちらをちらりと横目で見る。

 それからため息をひとつ落として、カーペットの端に荷物を寄せる。愛華はこちらに体を向けて、真面目な顔つきで話し始める。


「……良いですか。男という生き物は、知らず識らずのうちにセクハラしている生き物です」

 ……随分と偏った意見だな。まぁいいか。

「そっか。そもそも、セクハラっていうのは相手を不快にさせたらアウトなの?」

「ええ。一般的に浸透しているのは『相手を性的なことで不快にさせたらアウト』という意見ですね」

「……え、てことは、普通に生活しているだけでアウトなんだ。なるほど」



 一通り荷物を整理し終えた愛華は、立花家の干しっぱなしの洗濯物をたたみ始める。


 それさえも終わると、「んん〜」と呻きながら体を伸ばす。

 例によって胸が強調されるわけで、なるほど、こういうところにセクハラ発生の一端があるのだろう。


 体をほぐし終えた愛華は冷ややかな視線を送ってくる。こちらの視線に気付いていたらしい。いや、気付いて当然か。


「こういう何気ないことがセクハラなんですよ。あと、そう。替えの下着ですね。あえて同じ下着を履き続けてギネス記録に名を刻むのも悪くないかもしれないです」


「世界一夜の関係を持ちたくない女、世界一アソコらへんが不潔な女、世界一新しい下着が似合う女。どれがいいだろう」


「さすがの私でも全部イヤです」

「ははは、でしょうね」

「……バカにしてますね」

 ムッとした視線がこちらに向けられる。


「……話を戻しましょう。下着ですよね」

「そう。下着」


 我が家には愛華が履けるような下着なんてない。下着自体を買わなきゃならない。

 さすがに母さんの下着なんて、同じ年頃の女性には履いてほしくない。


「下着は……そうですね。さっき、小人に全部盗まれたみたいで……パンツは新しい屋根にしようとかなんとか」

「なるほど。ブラジャーは」

「そっちはハンモックにするみたいです」


 普通の声。普通の口調でなんともメルヘンでシュールなことを言う。

 苦し紛れの言い訳が実現された光景を、思わず想像してしまう。こみ上げてくる笑いを必死に抑え込む。


 愛華は観念した様子で、コホンと咳払いをひとつすると、そのまま押し黙ってしまう。心なしかほんのりと頬を赤らめる。


「……小噺を一つ。私、実はここ二年くらい、パンツを買った記憶がありません。逆説的に考えると、今履いているパンツたちは全て二年前に買った精鋭揃いでして、二年といえば世界の変遷は凄まじいものがあり、総理だって大統領だってかわりました。そんな長い年月を支えてくれる屈強なパンツたち。なんとも心強いなあ、などと思うのです。 しかしですね、面白いもので、どうも、女性用のパンツの耐用年数ってのは使用頻度にもよるのでしょうが大体二年くらいに設定されているらしく、その年数が来るとまるで堰を切ったかのように一斉にパンツどもが破れ始めるのです」



「ブフッ……失礼。続けてくれ」


 何を話し始めたのかと思えば、楽しい話らしい。すこし聞いてみよう。


「その耐久性たるやなんたる妙。まさに絶妙な職人たちの技術力に感心するばかりなのですが、己の限界を悟ったかのように一斉にパンツが破れ始めるのです。ある日、荷物を運ぼうと屈んだらお尻の部分がビリッ、まいったなあと思いつつ別のパンツをはいたらまたビリビリ。おかしいなと思いつつ次もビリビリビリ。一日で三枚も殉職したとなると、お尻から鋭利な刃物でも生えてるんじゃないかと思うほどです」


 愛華の顔は林檎のように真っ赤になっている。とても恥ずかしい思いをしたんだろうな。


「とにかく、もう、履くパンツがなくて、泣く泣く最後に残った二枚をヘビーローテーションで履く毎日で、早くパンツを買いに行かないとなあ、と思いつつ、なかなか買いにいけないというジレンマを感じる日々を過ごしているのです。しかしながら、パンツってのは買い物をする上でどう考えても主役じゃなくて、何かのついでに、例えば服を買ったついでに買うのが一番美しい形ですから、よっしゃパンツ買うぞ、とはならないのです」


「つまり、替えの下着は一応あるけど、今日にでも破れる可能性がある……さらに言えば、私服も持ってないってことか……」


 愛華は黙ったままコクリと頷く。


「そうか。わかった。……下着だけでも、今から買いに行こう」


 買い物に行くなら、早いほうがいい。この辺りの店は防犯の為に早く閉めるところが多く、あと二時間もすれば全ての店が閉まる。


「今からですか……うん、せっかくの機会ですからね。お言葉に甘えます」

 先ほどとは打って変わって、どこか遠慮しているような声色で言葉が紡がれた。


「……ん? なんで甘えられてるの?」

「だって私、お金ないんですもん。銀行閉まってますし、ATMもこの時間だと引き落とせませんよね」

「あー、そっか。明日にする?」

「今日新しい仲間が欲しいって、パンツの精が言ってます」

「パンツの精がそう言うんなら間違いないな。お金返してくれるならいいよ」


「お給料すら払ってくれないのに、随分としっかりしたご主人様ですね」


「それはほら、五千万あるし……ていうか、しれっとご主人様なんて呼ぶなよ。お前打算的すぎだろ」


「あのお金は使っちゃダメですって。打算的でも、それを大目に見るのがいい男ってもんですよ。あと、私の方が歳上ですからね」

「それに気付きつつもあえて流すのが、いい女ってもんですよ。……そういえば、あの鞄には何が入っているの? 現金とか、ポンと百万円くらい入ってないの?」

「入ってませんよ。さっき広げてみせた通り、あの中には前に勤めていた屋敷から頂いたメイド服とか記念品の懐中時計とかが入っています。あとは、通帳ぐらいなものです」


「その通帳を有効活用するべきなんだけれど」

「通帳からポンとお金が出てくるわけではないんですよ」

「そうだったらいいのにな。……下着っていくらぐらいするもんなの?」

「さあ? ピンからキリまでって感じですね」


 そういえば、クラスの奴が言っていた。一回履いた綿のパンツが五千円するって。庶民の戯れだとか言って笑っていたっけな。


 中古で、しかも綿素材のものが五千円もするのだ。新品のパンツなら、軽く一万は超えてしまうのだろう。

 そんなに高いのに、なかなか衆目の目に晒されない。だからこそ、パンチラを拝めた時のありがたさが際立つのだろう。


 愛華の金銭感覚は、たぶん高級志向だ。

 身に付けているものはどれも上質で、程よくくたびれている。パンツだって二年履いて履き潰すくらいだ。良いものを買って、長く使うタイプなんだろうな。


 うーん……何枚買うかにもよるけど、二万くらいあればいいのかな。余裕を持って二万五千円……よし、二万五千円にしよう。

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