1.平凡な朝には綻びがある
学校に行く途中、ごみ集積所の建物から革靴の先端が揃ってはみだしていた。よく見れば建物の陰に人が隠れているらしかった。
それは五月のある日のことだった。
朝の日差しを浴びながら歩く。
舗装された町並み。建物に阻まれることなく広がる空。ゆっくりと流れる細い雲。閑静な住宅街の平和な街並みそのものだった。
錆の浮いたオレンジ色の鉄柱と凸面鏡。カーブミラーには学生服を着た男が映る。他に人影はない。
ため息は他人に不快な思いをさせてしまう。ため息の大きさと不快さがどれだけ比例するのかは一考の余地があるが、どんな結果にせよ、こんなに大きなため息なら慎重になった方が良い。周りに人影がないのは不幸中の幸いか。
「……グスッ」
誰かが鼻をすすっている。辺りをもう一度見回すが人影は見えない。
身長と同じくらいの高さの小さな建物から、鼻をすする音が聞こえる。打ちっ放しのコンクリートの壁。金網のついた扉。扉にはラミネート加工されたA4サイズの紙が貼られている。ごみ集積所と書いてあった。
さほど距離はない。ため息はしっかりと聞かれていたらしい。建物の陰に注意を向けながら近づく。
姿が見えた時、お互いに目が合った。
とても綺麗な人だった。
涙に濡れた整った顔と肩先まで届くセミロングの髪。栗色の髪は柔らかくウェーブし目鼻立ちの整った小さな顔を縁取る。幼さの残る顔立ちで凛々しい表情を崩しながら泣いていた。
くすんと鼻をすすりながらこちらを睨むように見据えている。
涙で濡れた手の甲のその奥に、珠のような瞳と切れ長の目尻がのぞいている。
綺麗な人だったが、とてもじゃないが普通ではなかった。
白と黒を基調とした家政婦風の姿。白いエプロンドレスはその存在を示すものの筆頭である。エプロンドレスと対をなすのは黒のクラシカルなワンピース。彼女はその二つを併せ持っていた。
栗色のくせのある髪にフリルの付いたカチューシャが差し込まれ柔らかそうな髪を程よくコンパクトに纏めている。
フリルのついたミニスカートからは光沢のある黒いタイツがすらりと伸びており美しい脚を強調している。
革製のロングブーツを履いて、傍には大きなカバンを置いている。カバンも革製だ。
身に付けているものはどれも上質で趣味が良くほどよくくたびれている。
これぞメイドと言えるような完璧なメイドだった。
ふと、視線が合う。視線がぶつかっただけなのに体が硬直した。目が離せなかった。
「なんでしょうか。そんな、舐め回すように見て……」
嗚咽まみれの声を出し、女は充血した目でこちらを射抜く。たしかに舐め回すようにじっくりと見てしまった。とりあえず謝っておこう。
「なんでもないです。すいません」
「なんでもないなら、ほっといてください」
……何故だろうか、ほっといてと言われると放っておけなくなる。俺は天邪鬼なのかもしれない。
そもそも、泣いている女性は放っておくことができない。老若問わず男なら誰しもそうだろう。時間の許す限りジェントルマンとしての責務を果たさなければならない。何事もなく通り過ぎてしまうのはよろしくない。
そう、他のなによりも紳士として、よろしくないのだ……。
『お困りのようじゃな……わしはいま、きみの脳内に直接語り掛けておる』
その時、頭の中の住人であり紳士的ジェントルマンの理想形とも言えるハルトマン博士が語りかけてきた。
頭の中に時間という概念はない。その証拠に彼の書斎ではいつであろうと紳士的なナイトランプが灯っている。ハルトマン博士は自分の書斎の一角で、片手に紳士的なカップ、もう片方の手に紳士的なソーサーを持ち、穏やかな表情と時折見せる鋭い視線で紳士的ななにかを訴えている。
頭の中の住人たち。彼らは基本的におせっかいなのだ。
『今までの状況はきみの回想からだいたい把握させてもらった。放っておけないと、きみはそう言いたいのだね。実に、きみらしい』
ハルトマン博士はなにか液体のようなものを紳士的にすする。一息ついてからカップをソーサーにのせた。
『ならば、紳士的ジェントルマンとして、彼女の涙を拭いてあげる事こそ、きみの役目じゃないのかね。ワトソンくん』
涙を拭く……。し、しかし、博士、相手は美少女です。しかも明らかに一般人とは感性が違っています。斜め上をゆく難易度です。私に対応出来る範囲をはるかに超えているのです。そして何より、恥ずかしいです。おっぱいと呟いた奴に涙を拭かれるというのは彼女の人格を侮辱する行為になるのではないでしょうか。
『なに、恥ずかしい? 難易度? 感性? 美少女? ……侮辱?』畳み掛けるようにハルトマンは言う。
『だからどうしたと言うのだね。そんな事を気にかけていては、本物のジェントルメェンにはなれないぞ、ワトソンくん。さあ、まずは声をかけるのだ。幸いにも相手は泣いている。会話の糸口はある』
しかし、博士、なんて声を掛ければいいのか、どうすれば百点なのかわかりません。彼女が見目麗しい可憐な女性であるならば私は失敗したくありません。私はどうすればいいんですか博士。
『無自覚なのかね……これ以上の失態なんてないだろうに。まずは彼女の隣に座って、同じ景色を見てみるといいじゃろう。座りたまえ』
わかり、ました……。座ります。
『何が見えるかね』
ごみ置き場の壁、アスファルトの地面、道路向かいにコンクリートの壁、電柱、空……です。
『そう、なんの変哲も無い景色に過ぎない。だが、彼女の見ていた景色でもある。そのことを噛みしめるのじゃ』
はあ。そうですね。
『人生なるようになる、なんてことは無いのじゃよ。人生はなるようにしかならない。きみならどうすればいいか分かるんじゃないかね、ワトソンくん』
……人生なるようになるなんて、都合のいい言葉を信じてはいけない。そう、行動しなければ何も生まれない。俺の頭の中ではそうらしい。ハルトマン博士という謎の人物が何を言いたいのか、詰まる所なにもわからないが、彼女に話しかけてみる方がいいと、そういう方針に相成っている。
「あの」と言うと、彼女は「なんですか」とかえす。
冷静になればなるほど、恥ずかしくなってくる。こういうことは勢いに任せるのがよろしい。紳士的な男には、やらなきゃならん時があるのだ。
未開封のポケットティッシュを彼女の目の前に差し出す。視線は彼女をとらえられず、でこぼこしているごみ集積所の壁を見ている。
「あの、これ。使えるんじゃないかと」
差し出したものの、少女は動かず、ティッシュを受け取ろうとしない。彼女がティッシュを受け取るまで、俺はこの手を引っ込められない。
「結構、でず」
「え?」
思わず振り向いてしまう。ごみ集積所の壁はあっという間に彼女の泣き顔へ変わった。すぐあとに自分の顔が火照ってくるのを感じた。
ズビズビと鼻水をすすりながら、彼女は言う。
少し遅れて、言葉の意味を理解する。そしてすぐに、頭の中のあれこれが消えて、ポカンと真っ白になる。
さて、どうする。
俺の顔は真っ赤だ。もはや極限。気を遣いすぎて限界だ。あれこれ考えても仕方がない。鼻をかんでほしいのだ。ティッシュを鼻に……やるしかない。
差し出した手を引っ込めて、ティッシュの袋を開封する。一枚、二枚と素早く取り出し彼女の鼻に押し付けた。
彼女は慌てふためいて両手で宙をかく。すかさず叫ぶ。
「我慢すんな! 鼻をかめ!」
「は? ええっ? え、え」
彼女は言われるがままに鼻水を出す。両目をつむり、拳を握り、脇を締めている。
反射的に鼻をかんでしまったらしく、ゆっくりと目を開け、それから彼女は目を丸くした。
少しの間、彼女は動きを停止させてから、こちらをチラリと見る。またしばらく沈黙してから、思い出したようにティッシュを受け取り、鼻の端に付いている鼻水をゆっくりと拭き取る。
ティッシュを半分に折り畳み、ペコリとひとつお辞儀をして、そのすぐ後に、耳に残る音を撒き散らしながら再度鼻水を放出した。
……女性が鼻をかむところを見る趣味はない。紳士のやることではない。一通り見たあとだから言えることだが、あまり見ていいものではないな……フッ……さあ、学校へ行こう。
立ち上がり、尻についた埃を取り除く。
平凡な人生を送るものだと思ったけれど、たまにはこんなことも起こるらしい。多分、おじいちゃんになってもこの日のことは忘れないだろう。
こんなことなら、髪のセットにいつもより時間をかけるべきだったか。
「あの、ちょっと、すいません! 待ってください!」
跳ねる声と共に、背後から足音が迫ってくる。荒い息遣いが耳に届く。足音と連動するように、栗色の髪が波打つ。
すぐ目の前まで走ってくる。目の前まで来ると呼吸を整えはじめる。わずかな距離とはいえ、走ることは心臓に負荷がかかるらしい。
呼吸を整え終わる前に、彼女は大きく息を吸い込んだ。
「あの! 待ってください!」
冷静そうで落ち着いた印象の見た目とは裏腹に、甘く澄んだ快活な声が耳に入ってきた。
彼女が呼吸を整えるまで、しばらく足を止めておくとしよう。他人を疲れさせる趣味はない。
「あの、ティッシュ、ありがとうございました」
「いえ、どういたしまして」
「なんて言えばいいのでしょう。とにかく、ちょっとだけお話があるのですが……」
「話、ですか」
「はい。あの、ええと……」
言葉を重ねる度に、彼女の頬は赤くなっていく。淡い桜色をした唇がきつく結ばれる。
小さな顔の輪郭に沿うようにして、艶やかな栗色の髪がはらりと流れる。
ゆるく癖の掛かった髪の毛は、肩に届くこともなく、ゆらりと宙をさまよう。
胸元に寄せられた片手が華奢に映る。スゥッと、彼女は息を飲む。
こちらにも緊張が移ったらしく、つられて喉が鳴る。
「あの、突然こんなことをお願いするのは、非常に急であり迷惑であるという事は分かってます。ですが……お願いが、あります!」
「お願いですか」
「あ、あの、あのですね、その、なんといいますか……」
彼女はそわそわと落ち着きなく体を揺らし、視線はあちこちに向いていて定まらず、そして声だけが大きくなっていく。
まともに視線を合わせることもなく、メイド服がふわりと揺れる。
少しの間をおいて、彼女は勢いよく頭を下げた。
「わたしを! 雇ってください!」
「は?」
彼女は一礼したあとガバリと頭を上げた。
ほろほろと髪の毛が素肌に垂れている。毛先の行く先をぼーっと眺めていたら、視界が揺れた。
制服の胸ぐらを力任せに掴まれている。
悲鳴と驚きが口からこぼれる。他人の声のような自分の声が漏れた。
「炊事洗濯お裁縫、その他もろもろのお手伝い、何でもやります! 何でもできます! わたし、万能です! だからお宅の余っているお部屋、一部屋貸して下さい! お願いします!」
叫ばれる。
空が舞う。視界がフワリと回転する。
押し倒されて、それでもなんとか肘で身体を支えて、圧倒されて、胸ぐらを掴まれて、身体を前後に揺さぶられて。
空は青く、それでいてゆらゆらしている。
ああ、押し倒されている……。
ああ、あの、アレだ。
「おっぱいが当たってる」
素直な感想が溢れる。恥ずかしながら今はこんな気持ちでいっぱいだ。
不意に、身体の揺れが止まる。
焦点の合わなかった視界が明瞭さを取り戻す。目尻に涙を貯めた彼女が、こちらを見据えている。
彼女の目尻に溜まった涙が、ふわりと宙に浮いた。
静寂に包まれた住宅街の片隅に、頬をビンタされたような、気持ちのいい破裂音が響いた。