四面楚歌
「ひっ!」
隣の電話ボックスで起こった惨事を目の当たりにした渥美は悲鳴を上げ、しりもちをついた。しりもちをついたまま彼は下がれるだけ後ろへ下がった。ガラスの向こう側には今や笑い顔が重なるように張り付いていた。仕切りガラスに張り付けてある無数のプリクラに映っている人々ですら彼を嘲り笑っているように見えた。
そんな彼の視線に天井から落ちてくる黒い粘液に汚れた地面が映った。そして、その粘液に汚されたスラックスも。渥美は背広のあちらこちらを引っ張り、細部を確認した。スーツ全体が黒い染みに塗れていた。
今着ているスーツは母親が就職祝いに買ってくれた大事なスーツだった。洋装店でそのスーツを纏った姿を前に母親は誇らし気だがどこか寂しそうな微笑みを湛えていた。そんな母親の表情が一瞬浮かんで消えていった。
渥美は身体を前に倒し、四つん這いになっていた。そして叫んだ。言葉にならない叫び声だった。大事なものが一つずつ彼の中で崩れ落ちていくような気がした。その怒りと悲しみ、そして恐怖が綯交ぜになって身体中を駆け巡っていた。それを吐き出すように彼は叫んだ。
だが、彼の叫ぶ姿を見て外にいる群衆はどっと笑い始めた。電話ボックスに群がる笑い声は明らかにその数を増やし、耳が痛くなるほど大きな音量になっていた。
「ちくしょう!俺は見世物じゃねぇぞ!分かってんのか!」
両手を地面についたまま、渥美は歪んだ笑顔で彼を取り巻く人々へそう怒鳴り散らした。だが、絞り出した声はまたもや笑い声の渦の中へいとも簡単に飲み込まれてしまった。彼の視界の端で紺色のブレザーを着た男子高校生達が彼を指差した。
「ギャハハハ、『わがっでんのが!』だってよ!どんだけ訛ってんだよ、ハハハ!」
一人が渥美の物真似をし、高校生達は更に爆笑した。渥美はその姿に唖然とした。見渡す限りどこもかしこも笑い顔ばかりで埋め尽くされていた。
「もっと面白いこと言え!」
「何か言えって!」
「次のネタやってよ!」
「変声ヤバい!」
「ねぇ喋ってよ!早く!」
「変声!」
電話ボックスに閉じ込められた渥美に向かって周から次々に彼を囃し立てる声が上がり始めた。渥美はふらつきながら立ち上がった。隠れられそうな場所を探してみるが、四面を人に囲まれている以上、そんな場所はこの狭い空間の中には無かった。
遂には群衆が「早く」と「変声」という二言を大合唱し始めた。中には手拍子を始め、周りを煽る者すら居た。渥美は今一度、周りを見回した。だが、視線を落ち着かせる先はどこにもなかった。渥美は両手で頭を抱えた。そして目を瞑ると大声を吐き出した。
「止めろ!みんなどっかいっちまえ!」
そう渥美は叫んだ。だが、その叫びは更なる大爆笑を生むだけに終わった。笑い声と笑い顔が彼の周りから離れることは無かった。
「何語しゃべってんの、こいつ?!」
そう言って水商売風の若い女性が声を出して笑った。その女性の一言に周りがもっと沸いた。皆、腹の底から笑い声を搾り出している。ガラスを叩く振動に加え、次から次へと押し寄せてくる人の波に、汚された電話ボックスは軋んだ。フレームやガラスなど至る所に大きな圧力がかかっていた。
天井からはあの得体の知れない黒い液体が滴り続けていた。渥美は電話機を睨みつけた。電話が繋がればこの窮地から脱出できるかもしれないのにそれを阻み続けているこの機械のことが恨めしくて仕方がなかった。
そう思った瞬間だった。
渥美は口を開き、額に手を当てた。このパニックに囲まれて冷静に考えることができなかったが、まだ試していない方法があった。渥美は受話器を手にすると三桁の番号を押した。警察への緊急電話は例外なく繋がる筈だった。
『おかけになった電話番号は現在使われておりません』
「そんなわけねぇだろ!」
そう叫びながら渥美は受話器をフックに叩きつけ、再度受話器を上げた。そして彼はもう一度同じ番号を押した。
『おかけになった電話…』
渥美はフックに指をかけ、引き下ろした。人差し指と中指が力無くフックから滑り落ちた。不意に辺りが暗くなった。おそらく天井の蛍光灯が湧き出る黒い粘液によってその機能を完全に奪われてしまったのだろう。不安を増長させる出来事に続くかのように、手にした受話器からあの耳障りな声が這いずり出てきた。
『何をやっても無駄なんだよ…』
『俺達と…一緒に…なれ』
『…どうせ…黒く塗り潰されるんだ。そこにある…電話帳のように…』
『あんたを…取り囲んでる…人達に…否定されたままね…』
個人名と電話番号が黒マジックで塗り潰された電話帳が瞼の裏に一瞬蘇った。渥美は受話器をフックに戻し、閉じた目を開いた。自分の名前と自宅の電話番号も黒く塗り潰されるかと思うと目を閉じてなどいられなかった。しかし、眼前に待ち構えていたのは彼だけが与り知らない可笑しさに腹を抱える人々の顔であった。その顔の一つ一つが笑いに醜く捩れていた。渥美の唇は震えていた。
「助けてくれー!誰か俺をここから出してくれぇ!」
渥美は再び叫んだ。
今まで一度として陥ったことのない恐怖が彼の身体を締め付けていた。その恐怖から逃れたい一心で彼は叫んだ。だが、その叫び声は電話ボックスの周りから飛んできた野次馬に一蹴された。
「叫ぶんならまともな日本語で叫べ、バ~カ!」
その野次にまた笑い声が上がった。
渥美は項垂れた。今まで生きてきた中で公衆の面前で晒しものにされたことなど一度も無かった。そんな経験は社会に生きる大多数の人間がせずに済むものだった。何故それが自分の身に降りかかっているのか、渥美には全く理解できなかった。
何で俺なんだ?
その問いに対する答えはどこにもなかった。電話ボックスの内外から忍び寄る恐怖は、会社という組織に守られている人間の身体を雁字搦めに縛り上げていた。
逃げられない。
外側に詰め寄った大衆によって電話ボックスは今や揺さぶられていた。渥美は電話ボックスに背中を預けていた。群衆に飲み込まれていった男性の姿がフラッシュバックとなって脳裏に蘇った。そして、想像したくない状況を思考が描き出していった。
大勢の人間によってこの電話ボックス自体が壊されない保証はどこにもなかった。
開閉ドアもいつ誰にこじ開けられるか知れたものではなかった。唯一の出口が解き放たれれば、もっと残酷な群像劇が待っているのかもしれない。電話ボックスを取り囲んでいる人々は彼を引き摺りだし、取り押さえ、「もっと笑わせろ!」と罵声を浴びせながら暴行に次ぐ暴行を加えてくる危険性もあった。