隣の電話ボックス
電話機の後ろに構える仕切りガラスには無数の顔があった。
安全ヘルメットを被った髭面のにやけ顔もあれば、若い女子高校生の微笑む顔もあった。年嵩の主婦達は互いにひそひそと耳打ちし、笑い合っていた。その顔という顔が一様に渥美を見つめ、笑っていた。仕切りガラスに貼られたプリクラやステッカーなどの隙間という隙間に笑い顔が押し寄せていた。そして、その表情という表情がどれも嘲笑に歪んでいた。渥美は膝を曲げ、両手で頭を抱えながら顔を伏せた。この状況を直視したくなかった。叫び声が喉元を通り過ぎようとしていた。そんな短いか長いかも分からない間隙を縫って新たな恐怖が彼のうなじに落ちてきた。
「うわぁぁ!」
渥美は飛び起きた。そして身体の至る所を電話ボックス内の壁面に打ちつけながら彼はコートを脱ぎ捨てた。地面に落ちた黒いコートにはそれよりも更に濃厚な黒い筋が幾つも線を引いていた。彼は首筋に手を伸ばし、肌に付着したものを拭い取った。
掌には重油なのかどうかさえ判別のつかない例の黒い液体がぬらぬらと光っていた。彼は天井を見上げた。さっき見た時は何もなかった筈なのに、天井に設置されている蛍光灯の隙間から、どす黒い液体が溢れ、糸を引き始めていた。その涎に似た液体が地面に落ちた。落下の衝撃で飛び散った滴が渥美の靴の上へと跳ねてきた。渥美は慌てて足を退けると、視線を天井に戻した。黒い滴りは明らかに数を増やしていた。
「何なんだよぉ…一体どうなってんだよぉ!」
天井の蛍光灯が一瞬明滅した。滲み出てくる黒い粘液に中の電球が浸食されてようとしているのかもしれなかった。渥美は何度も天井を見上げながら受話器を掴んだ。だが、受話口からトーンが聞こえない。フックを下して手を放す。だがそれでもトーンは聞こえてこなかった。テレフォンカードも出て来ない。受話器をフックに戻し、持ち上げてみる。それでもトーンは無かった。
渥美は何度も同じ動作を繰り返した。彼は焦っていた。ここは危険だと本能が告げていた。四回目に受話器をフックに戻した際、テレフォンカードが排出口から飛び出してきた。彼はテレフォンカードを拾い上げ、受話器を耳に添えた。
トーンが鳴っていた。
彼はカードを挿入口へ差し込み、実家の電話番号を押した。呼び出し音が鳴り始めた。若いサラリーマンは両肘を電話機の上に預けて祈った。
『おかけになった電話番号は現在使われておりません』
渥美は目を閉じたまま天を仰いだ。その表情は落胆の色に塗り潰されていた。実家にすら電話が繋がらないとすれば他も繋がらない可能性が極めて高かった。八方塞がりの状態だった。
粘液が雨のように滴り落ちる中、電話機から警告音が発せられた。早くカードを抜き取れと言わんばかりに警告音は鳴り続けた。無機質な電子音が狭い空間に鳴り響く。渥美はカードを抜き取った。しかし、次の瞬間、彼は悲鳴を上げて手にしたテレフォンカードを宙に放り投げていた。コンクリートの地面に落ちたカードは気泡を弾かせながら黒い液体を垂れ流し始めていた。周りの地面に黒い染みがどんどん広がっていった。
「ちくしょう…畜生!」
渥美はそう呟きながら後退り、開閉ドアに寄り掛かった。後ろのガラス戸に外側から押し開けようとする圧力が掛かった。咄嗟に振り返った先には白いコートの女性が捩れそうな腹に耐えきれなかったのか、寝そべるようにして開閉ドアに寄り掛かっていた。その後ろには倒れ込んだ女性を押し潰しそうな勢いでドアに額を押しつけ彼を指差し笑うブレザーを羽織った中年の男が居た。タクシーの運転手と思わしき出で立ちだった。黒縁メガネをかけた柔和な顔をした男性だった。笑っているが、この男性になら話が通じるかもしれなかった。
「運転手さんお願いです、笑ってないで助けてください!本当に困ってるんです!」
若いサラリーマンは開閉ドアに両手を預けてそのタクシー運転手に懇願した。だが、白髪の目立ち始めたタクシー運転手は哄笑したまま開閉ドアを勢いよく叩いた。渥美はガラスに響いた衝撃に驚き、右手を翳した。
そこにカメラのシャッターを切る音が聞こえた。開閉ドアの側面にはスマートフォンを構えた女子高校生が居た。その女子高校生がつい先程撮った写真を見て笑っていた。そしてその女子高校生は隣にいる同級生に写真を見せ、嬉々とした声を上げた。
渥美は矢立も無く反対側の仕切りガラスへ駆け寄った。ガラスの向こう側にはドレッドヘヤーに無精ひげを生やした青年が立っていた。そして、渥美は懇願した。
「お願いします。ここから出してください。会社の用事でどうしても急がないといけないんです!」
無精ひげを生やした青年はニタニタと笑いながら手を添えながら耳を近づけてきた。
「何?もう一回。全然聞こえないんだけど?」
渥美は大声を張り上げて頭を下げた。
「ここから出してください!」
渥美は目を瞑って大声を張り上げていた。しかし、彼の頭上にはレゲエミュージシャン風の青年が放つ大きな笑い声が降り落ちて来るばかりだった。顔を上げると先程の青年が腹を抱え、渥美を指差していた。渥美はその尋常ではない様相を前に身動きが取れなくなっていた。
電話はどこにかけても通じない。
ガラスで囲われた四角い空間は彼をあざ笑う人々で埋め尽くされていた。逃げる場所などなかった。それでも逃げ場所を見つけ出そうとしていた彼の視線はふと、隣接する電話ボックスに止まった。もう一つの電話ボックスに人影が見えた。彼は藁をも縋る思いで側面の仕切りガラスを叩き始めた。
「気づいてくれ!頼む!」
ガラス壁を叩き、体当たりをしながら助けを求めた。漸くその人影が動いた。顎を上げて、こちらの様子を窺うような姿勢を取っているようだった。渥美は叫んだ。
「おい!助けてくれ!ここに閉じ込められたんだ!」
が、渥美は力の限り振り絞った声を一瞬にして噤まざるを得なかった。
隣の電話ボックスに居たのは渥美と同じ年頃の男性だった。そして、その男性は反対側の電話ボックスで半狂乱になりながら助けを請う渥美の様子を見守っていた訳ではなかった。その若い男性は仕切りガラスの方へ両手を広げたまま、いきなり体当たりしてきた。
渥美は再び身を庇いながら仕切りガラスから離れた。
恐々と右腕を下げてみると、対面の仕切りガラスには先程の男性が全身を壁にくっつけたまま動かなくなっていた。渥美は大きく目を見開いた。目の前の出来事から視線を逸らすことができなかった。
その男性は仕切りガラスに体当たりしたのではなく、押し付けられていた。男性の背後に伸びる無数の手によって。男性は顎を上げたのではなく、後ろ髪を鷲掴みにされ、引っ張られていたのだった。顔がガラスへ何度もぶつけられていた。顔中に赤い血がこびり付いていて、左の目は赤黒く腫れ上がっていた。男性は口を開いて何事かを喋っていたが、その声は周りの群衆が上げる嘲笑に掻き消されていた。
ガラス越しに視線がぶつかった。
渥美が現実に起こっている事象を認識して咀嚼する間もなく、男性は更に増えてきた手に上着を掴まれ、渥美の視界から引きずり下ろされた。そして、対面に構えているステッカーだらけの仕切りガラスには土木作業者風の中年男性が姿を現し、渥美が閉じ込められている電話ボックスを見回していた。そうして渥美の姿を見つけると中年男性は彼を指差し、口を大きく開けて笑い始めた。