変化
人を嘲るかのように誤動作ばかりする機器に対する苛立ちがようやく収まってきた時だった。
後ろで貝のように口を閉じたままだった開閉ドアを通してノック音が聞こえた。渥美は咄嗟に後ろを振り返った。利用客がこの電話ボックスにやって来たことを期待して。かくして、ドアの向こうには白いコートを羽織った女性が立っていた。乱雑に貼られたプリクラの隙間から顔が僅かながら見えるが、容姿の良い女性のようだった。
明らかに電話ボックスとは縁のなさそうな女性だった。
だが、助けを呼んでもらえるかもしれない。もしかすると、渥美が中でもがいていることを心配して様子を見に来てくれたのかもしれなかった。渥美は受話器をフックに戻すと、開閉ドアに詰め寄った。白いコートの女性は落書きやステッカー類の合間からこちらの様子を伺っていた。渥美は大きな声で助けを求めた。
「助けてください!ドアが開かないんです!公衆電話も壊れてて助けが呼べなくて」
そう言葉を繋ぐと、ようやく胸の内から安堵感が温かさを帯びて広がってきた。これで助けてもらえる。渥美はそう思った。
だが、次の瞬間、渥美を眺めていた女性は口元に手を添えた。
渥美の口からは言葉が出て来なかった。電話ボックスの内側と外側に静けさが訪れた。雀の囀りさえ聞こえそうなほど長閑な時が流れたかのように思えた。その直後だった。女性はガラス壁越しにも聞こえるほど大きな声で笑い始めた。腹を抱え、思わず開閉ドアに寄りかかる女性。仕切りガラスの下からあけすけな笑い声が洩れて聞こえてきた。
渥美はその様を呆然と見つめていた。
だが、腹の底から込上げてきた憤りが直ぐに身体中を駆け巡った。この状況で困っている人間を前に手を差し伸べるどころか笑い出すとは一体何事だ。そんな怒りが身体中の血管を駆け巡って行った。電話ボックスに閉じ込められた若いサラリーマンは瞬く間に表情を強張らせていた。
「何なんだよ!笑ってんじゃねぇーよ!」
そう言い放って彼は開閉ドアを殴りつけた。だが、開閉ドアの反対側に立っている女性はその様を見ると更に笑った。
「笑うなって言ってんだろ!」
そう大声を上げながら渥美は開閉ドアを再び殴った。だが、外側にいる女性にとっては渥美の罵声も抑止力どころか笑いの種にしかなっていないようだった。女性は更に激しく笑い出した。痛みが残る拳をもう片方の手で庇いながら、渥美はその様を見ていた。
女性と再び視線が合った。そして相手は彼を指差し笑った。渥美は開閉ドアをつま先で何度も蹴った。だが、ドアは振動を返すだけで開くことは無かった。渥美は全体重をかけ、膝蹴りでドアを蹴破ろうとした。しかし、ガラスに打ちつけた膝に激痛が走り、その反動で彼は身体のバランスを崩した。身体は後ろへ大きく傾き、背中を電話機に打ちつけてしまった。
背中と膝に耐えがたい痛みが走っていた。
渥美は背中を押さえながら仕切りガラスに凭れ掛かった。そうして痛みを堪えた後で、彼は目を開いた。しかし、状況は既に変化していた。開いた両目には電話ボックスの側面へいつの間にかやってきていた老人の姿が映っていた。突然のことに渥美は驚き、ガラス壁から顔を放した。そして今度は後頭部を電話機の側面へ強かに打ち付けてしまった。
その老人は中の様子を観察しながら何かを堪えるような表情をしていた。そして、後頭部の痛みに顔を顰めている渥美と目が合った瞬間、いきなり噴き出した。腰を折り、震える膝を押さえながら老いた男性は渥美を指差し、笑い続けた。
雲間から日光が差してきた。
その白んだ光が電話ボックスとその周りに居る人々を照らし出した。多くの名も知らぬ人々に傷つけられ、汚された電話ボックスの周りでは歳の離れた二人の男女が笑い転げていた。渥美は怒りに駆られて厚いガラスを拳の手甲部で払い除けるようにして殴った。
「笑うのを止めろ!一体何がそんなに可笑しいって言うんだ?」
だが、手が痛いだけで状況に何も変化は無かった。渥美の怒鳴り声を聞いた老人は更に入れ歯が外れてしまいそうな勢いで笑い出した。
渥美はいつしか黒い染みに覆われた電話機に身体を預けてしまっていた。
年齢も性別も違う二人の人間が電話ボックスの周りで笑い転げていた。自分に何の失態があるのか?渥美の頭の中はそんな疑問で埋め尽くされていた。だが、変化しつづける状況は彼に思考を停止する暇さえ与えてくれなかった。
電話機からはテレフォンカードを抜くよう催促する警告音が一定の間隔を持って鳴り続けていた。だが、肝心のテレフォンカードは電話機からまだ出てきてもいなかった。渥美は電話ボックスの外にいる人々に気を取られていてその事実を見逃していた。
そして、その警告音の合間に別の音が聞こえてきた。それは音というより声であった。
『後じゅうよ~んか~い』
それはやけにくぐもった声だった。その声に聞き覚えなどなかった。渥美は辺りを見回した。
『じゅうさんかぁ~い』
どこだ?
天井を見上げてみるが何の変化もない。だが、気味の悪い声はまたもや彼の鼓膜に響いた。
『じゅうに…ぃがぁ~…い…』
頬を伝う冷たい汗をそのままに、渥美は狭い空間を見回した。青年の忙しなく動いていた瞳が捕らえたのは、だらりとコードを垂らしたまま前後に揺れる受話器だった。彼は逆吊りになったまま揺れる受話器を凝視した。心持、電話ボックスの周辺が更に暗くなったような気がした。そして、彼はその姿勢のまま動くことができなかった。
鼓膜に響く笑い声が大きくなった。
今や内側から開こうともしない電話ボックスを取り囲んでいるのは若い女性と老人だけではなかった。笑い声は確実に数を増やしていた。電話ボックス周辺はざわつき始めていた。周りに押し寄せてくる圧迫感が閉鎖された空間に閉じ込められた渥美に振り返ることを許さなかった。
テレフォンカードの度数を示す電子数値は十一にまで減っていた。そして、受話器から奇声じみた声がいきなり飛び出してきた。
『ひひひ、じゅういっかぁぁぁい!』
渥美は受話器を掴むと、荒々しくフック目掛けて投げつけた。
音を立てて黒塗りのテレフォンカードが電話機から飛び出してきた。そして、黒塗りのカードは渥美の胸元にぶつかってきた。渥美は仰け反ったが、足が滑り、再び後頭部を開閉ドアに打ち付けてしまった。その瞬間、笑い声が更に大きくなった。渥美は後頭部を押さえながら開閉ドアに背中を預けたまま崩れ落ちた。