黒いテレフォンカード
電話帳を捲り続け、渥美は漸くお得意先の会社名と電話番号を見つけた。
これ幸いと言わんばかりに彼は鞄の中から小銭入れを取り出し、十円玉を取り出しした。そして彼は慌ただしく銅貨を電話機の挿入口に突っ込んだ。
しかし、その後に訪れたのはただの静寂だった。
金銭受けに十円玉の落ちる音が一向に聞こえなかった。いくら待てども、何の音沙汰も無かった。電話機を叩いてみたが、黒い汚れに塗れた機器は沈黙を守ったままであった。
渥美は苛立ちを抑えきれず、まともに作動しない機械を殴った。
衝撃音は外に漏れた。だが、ロータリー脇の公衆電話から飛び出してくる音に興味を示す人間は居なかった。駅の改札口から出てきた誰もが素通りしていく。こんな平日の昼前に誰かが公共施設に閉じ込められているなどと考えもしないのが普通だ。ある意味、当然の成り行きであった。
渥美は隣の電話ボックスを一瞥したが、そこには何事もなく電話越しに会話を続けている男性の姿が映っているだけだった。二基ある電話ボックスはどちらも酷く汚されていた。一見する限りどちらに入ろうが大差は無かった筈だった。よりによって何故、自分が飛び込んだ電話ボックスだけこんな酷いことになっているのかと思うと、渥美は隣の電話ボックスに入った男性が恨めしく思えて仕方がなかった。
考えようによっては、隣の男性もこの電話ボックスの中を見て使うのを止めたのかもしれなかった。そして、隣の電話ボックスに入り電話をかける。その後に駆けつけてきた渥美がハズレくじを引いたという状況も考えられなくは無かった。だが、渥美はそれ以上その可能性について考えることを止めた。深く考えると余計に隣の電話ボックスに居る男性が憎く思えて仕方がなかった。
腕時計に視線を落とせば、もう昼が近かった。
時間は焦っている時ほど飛んでいくものだと思い知らされるばかりだった。そうして俯いたところで渥美は電話機の下に視線を止めた。不意に彼の表情が明るくなった。電話機の下にはテレフォンカードの販売機が取り付けられてあった。
そうだ、どうしてもっと早くこれに気がつかなかったんだ?
渥美はそう自嘲しながら鞄から札入れを取り出した。長財布から取り出した千円札は皺一つなかった。紙幣を販売機の挿入口に差し込んで渥美は機器の動作を静かに見守った。このガラスの仕切りで覆われた空間では常識を裏切ることばかりしか起きない。それ故に紙幣を挿入した時、この販売機もまたおかしなことをしでかすのではないかという不安があったが、機械はスムーズに紙幣を認識した。カード表紙のサンプル画の隣に設けてある購入ボタンが点灯した。ボタンを押すと、機械はのろのろと作動した。やがて販売機は一枚のテレフォンカードを吐き出した。
渥美はほっとしたのも束の間、出てきたカードを見て顔を顰めた。
そのテレフォンカードは真っ黒に塗り潰されていた。カードをひっくり返してみるが、裏側も黒かった。まるで何かにコーティングされているかのようでもあった。販売機のサンプル画は一体何の為にあるのかと思いながらカードを見つめていた彼の眉間に皺が寄った。よく見ればテレフォンカードの右端に使用したことを示す小さな穴が数個、既に穿たれていた。
「ふざけんな!何で新品が出て来ねぇんだよ?」
苛立ちが頂点に達し、渥美は販売機をも殴った。だが、役目を果たした販売機はただ沈黙するばかりだった。渥美は息荒く誤作動ばかりを起こす機器を睨み付けたまま、真っ黒なプリペイドカードを電話機のカード挿入口に突っ込んだ。そうして手にした受話器を耳に添えた。そこで彼はまた固まった。
トーンが無い。
フックを忙しく引き下げてみたが、今度はテレフォンカードも出てこなかった。受話器を元に戻しても何も反応が無い。渥美は電話機を殴り、後ろの開閉ドアを蹴った。だが、ドアは相変わらず頑として開こうとしなかった。
「…くそっ!」
プリクラや落書きで埋め尽くされたガラス壁を一頻り睨みつけると、渥美は唇を噛み締め、再び受話器を手にした。
聞き覚えのあるトーンが今度は聞こえていた。渥美の表情にようやく光が差した。急くようにしてタウンページを引き上げ、渥美は番号を指でなぞりながらダイヤルボタンを押していった。受話器の向こうで呼び出し音が鳴り始めた。渥美はガラス壁に肩を預けながら着信を待った。そして、彼は回線が繋がる音を聞いた。弾かれるように姿勢を正し、彼は堰を切るようにして受話器に話し掛けた。
「もしもし!」
『おかけになった番号は現在使われておりません』
渥美は目を見張り、電話帳をもう一度確認した。番号を間違えたかと、焦りで汗が噴き出てきた。更に音声メッセージが続いた。
『番号をお確かめの上、必要とされていない方にお掛け直し下さい』
ページ上の番号をなぞる指が止まった。
今何つった?
渥美は身体を起こした。
突然、電話機の返却口から真っ黒なテレフォンカードが音を立てて出てきた。そして、カードの横には小さい穴が新たに穿たれていた。受話器から繰り返し聞こえるアナウンスはいつの間にか終わっていた。外は昼食時を迎え、様々な人々がロータリーの前を行き交い始めていた。駅周辺が喧騒に満たされようとする中、電話ボックスの中だけが沈黙に包まれていた。
渥美は受話器を置き、カードを引き抜いた。
何故テレフォンカードの度数が減ったのか彼には分からなかった。電話が不通だった場合、度数は減らないものとばかり思っていたが、もしかするとそれは勝手な思い込みなのかもしれない。渥美は気付かない内に指を口元に添え、そう考えた。彼は深く息を吸って吐いた。このような時ほど落ち着きを取り戻すことが大事だと思った。
番号をもう一度見直し、受話器を上げ、テレフォンカードを挿入した。だが、受話器を耳に添えると再びトーンが消え失せており、受話器の向こう側には沈黙が構えているだけになっていた。
バカにしてやがる。
込み上げてくる怒りを抑えきれなかった。渥美は受話器を握り閉め、受話器を何度も電話機に叩きつけた。
「くそっ!」
渥美はそう罵った。
「こっちには!」
受話器は成されるがまま電話機目がけて振り下ろされた。
「時間が!」
電話機の上に大きな衝撃音が響いた。
「ねぇんだよ!」
更にもう一度、彼は手にした受話器で電話機を殴りつけた。
「時間が!」
壊れるかと思うくらいに電話機を受話器で叩きのめした後、彼は肩で息をつきながら受話器をフックに叩きつけた。呼吸が静まってから渥美はもう一度受話器をフックから外し、受話口を耳に当てた。
再びトーンが戻っていた。
腹の底から新たな怒りが込み上がってきたが、渥美は唇を噛み締めてそれを堪えた。その衝動的な感情を抑えきった後で彼は電話番号を押した。受話口から呼び出し音が聞こえてきた。そして、呼び出し音は途切れた。
『おかけになった電話番号は現在使われ…』
「使われてねぇんなら電話帳から削除しとけ!」
怒りのあまり、道理の合わないことを叫びながら渥美は受話器を今一度、電話機に叩きつけた。渥美の手から解放された受話器は宙を舞い、電話機や分厚い仕切りガラスにぶつかった後、逆さ吊りの状態になったまま揺れていた。
電話番号が正しかったかどうかは良く確認していなかった。だが、押し間違えは無かった筈だった。その証拠に呼び出し音は鳴っていたのだ。契約の切れた電話番号に誤って電話した場合、呼び出し音ではなく音声メッセージが先に流れて来る筈だった。今起こったのは逆で、呼び出し音が鳴った後に音声メッセージへ切り替わっていた。どうやっているのかは分からないが、相当手の込んだ悪戯であることには違いなかった。渥美は肩で息をつきながら電話機を睨んだ。「大丈夫だ、おかしいのは絶対に俺じゃない」と、胸の内で反芻しながら。