密閉空間
ドアを繋いでいる蝶番が軋み開閉ドアが開いた。
だが、目の前に広がる光景が露わになると足が竦んだ。内装は外観から受ける酷い印象を丸ごと反映させていた。頑丈なガラス壁にはプリクラなどはもちろんのこと、出所の怪しい婚活サイトや風俗店の集客用ステッカーが乱雑に貼り付けられていた。そういった種類のステッカーの隙間を埋めるようにして有名フードチェーン店のクーポン券がご丁寧にも糊付けされてあった。そのクーポン券の上にも卑語が幾つも油性ペンで落書きされてあった。
だが、仕切りガラスの表面に施されている悪戯はまだ序の口でしかなかった。狭いスペースの中央に鎮座している電話機はもっと酷いことになっていた。
どういう過程を経て出来上がったのか想像もつかないほどの黒い染みが電話機の至る所にこびり付いていた。その液状の物体は工事などに使われるコールタールに良く似ていた。そして、その黒い染みは曇り空の合間から差し込む仄かな光を受けて、ぬらぬらとした光沢を放っていた。悪戯をされてからまだ時間がそう経っていないことだけが窺い知れた。
平たく言えば、電話ボックスの内側は嫌悪感を催すほどの汚さであった。
一瞬、他の公衆電話を探そうかとも思ったが、そのような時間的余裕は無かった。渥美は唇を噛み締めて中に入り、鞄をコンクリートの地面に置いた。唯一地面だけが汚れの少ない場所だった。室内には黴臭い匂いが充満していた。渥美は噎せ返りそうになりながらもドアの取手から指を放した。開閉ドアがゆっくりと閉じて行った。約九十センチ四方のスペースには何もかもが近く見えた。それ故に細部まで手の行き届いた悪戯の方が注意を引く。一体どうやって電話機の裏側にまでプリクラやシールを貼ったのかと思うと逆に感心してしまうほどだった。だが、手の込んだ悪戯に心を奪われている場合ではなかった。狭い空間の中で渥美は鞄を開けて中に手を突っ込んだ。
だが、今度は目当てのシステム手帳が見つからなかった。手帳を鞄の中に入れたのは確かだった。『入れた』というよりは、『投げ込んだ』が、正しい表現だったが。若いサラリーマンはコートを退けて鞄を目一杯開いて中を確認した。だが、鞄に残っているものは書類や筆記具しかなく、手帳は姿を消していた。
悪態をつきながら渥美は鞄を地面に放り投げた。
考えられる可能性としては走っている内に手帳が鞄から転げ落ちたということだった。それに気付かなかった自分が恨めしかった。いずれにせよ、必要なものが無いということには変わりない。渥美は公衆電話と鞄を交互に見回し、ようやく決意して鞄を抱えた。そして、開閉ドアを右手で押し開けようとした。だが、そこで彼は異変に気付いた。
ドアが開かない。
もう一度、力を込めて取手を押してみたが、ドアはびくともしなかった。
取手の下には『押』の文字が印字されていた。開閉手順を間違っている訳ではなさそうだった。渥美は首を傾げながらもう一度取手を前後に揺さぶってみた。だが、ガラス一面にステッカーやサムネイルサイズの写真が張り付けてあるドアは固く閉じられたままだった。渥美は扉の上から下までつぶさに眺めた。何かが引っ掛かっているというわけでもなさそうだった。
渥美は片頬を歪めて笑っていた。
誰かの悪戯だと思った。電話ボックスまで弄る大掛かりな仕掛けを用意して一般人を試すようなテレビ番組が昔流行っていた。その再来かと思い、渥美はステッカーやプリクラ、落書きの合間から見える景色にカメラマンが潜んでいないか見回してみた。しかし、そのような怪しい人影は見当たらなかった。
渥美は我に返った。
こんなことをしている場合では無かったのだ。今度は肩を使って身体全体の体重をかけて開閉ドアを押してみた。だが、開閉ドアはやはり動きもしなかった。背後にある電話機、とりわけ機器に付着している黒い液体に背中が当たらないように気をつけて距離を取った。そうして渥美は開閉ドアに向かって体当たりした。しかし、肩に痛みが走っただけで状況に変化は無かった。痛みを我慢して何度か同じ要領で体当たりをしてみる。だが、その電話ボックスは体がぶつかった際の振動に揺れるだけで渥美を解放してはくれなかった。渥美は鞄を投げ捨て、開閉ドアを足で蹴った。それでもドアは開かなかった。ガラスの仕切りに貼り付けられた若いカップルのプリクラに自分の靴跡が残っているだけだった。
空は風に乗って押し寄せる灰色の雲にまだ覆われていた。
背の曲がった老人が杖をつきながら駅隣のロータリーを横切っていく。そのロータリーの端に佇んでいる電話ボックスの中で若い男が電話帳を引っ張り上げる様が見え隠れしていた。
こうなったら電話帳を調べるしか方法は無かった。時間はかかるが、一番堅実な方法に望みをかけるしか方法は無かった。渥美は電話帳の表紙を直視した。そして一気に表情を曇らせた。同じような黒い汚れに覆われたタウンページを見た瞬間、うんざりする気持ちで一杯だったが、それでも渥美はページを捲った。そして、ページを捲る度に彼は眉を顰めた。
「何なんだよ、これ?」
そんな言葉が自然に彼の口から洩れた。個人電話番号が記載されているページを誤って開いてしまった。だが、そこには黒マジックで個人名から番号まで塗り潰されているものが幾つもあった。
気味が悪い。
直感でそう思ったが、それでも作業を止めることはできなかった。彼は会社や企業の電話番号が記載されているページを開いて目当ての番号を探り始めた。番号を上から下へと指でなぞり、ワックスで整えられた前髪から覗く瞳は忙しく動き続けた。