老婦人
「すみません、ちょっとお尋ねしますがね」
すぐ近くに赤色のバッグが目立つシルバーカーを押す老婦人が立っていた。外見から察するに八十歳前後かと思われるお年寄りであった。その老婦人が柔和な笑顔を浮かべて今風の身だしなみを整えた若いサラリーマンに話し掛けてきた。渥美は逸る気持ちを堪えて笑顔を返した。
「何でしょうか?」
「病院へ行くにはこの道で良かったんでしょうか?」
「病院?病院ならここにありますよ」
そう言って渥美は今しがた出てきた診療所を指差した。老婦人は老眼鏡を掛け直し、目を細めて塀に立てかけてある看板を眺めた。そうして渥美の顔へ視線を戻した。
「いえ、ここじゃなくてね、もっと大きな病院なの」
渥美は口を開け、頭を掻いた。話から察するに老婦人が探しているのは総合病院クラスの大きな病院なのだろう。だが、土地勘の無い彼にはこの近くに総合病院があるかなどさっぱり分からなかった。交番で警官に道順を尋ねた方が早いのだろうが、老婦人と交番にまで付き添ってあげられるほどの時間的余裕は無かった。渥美は迷った末に老婦人の顔を見据えた。
「ごめんなさい、私もこの近辺詳しくないんで総合病院がどこにあるか知らないんですよ。交番でお巡りさんに尋ねてみてはいかがですか?」
老婦人は渥美の顔を凝視したままだった。反応は返ってこなかった。耳が遠くて聞き取れなかったのかと思い、彼はもう一度ゆっくりと要点だけを伝えた。
「交番でお巡りさんに聞いてみてください」
だが、老婦人は目を細めるばかりで渥美の言ったことに反応を示さなかった。渥美は腕時計へ視線を落とした。ここで時間を取られている場合ではなかった。渥美は老婦人に引き攣り気味な笑顔を向けて話し掛けた。
「私も急ぎの用事がありますので、もう行きますね。交番に行ってくださいね」
そう言って渥美は踵を返した。
「何があっても」
そんな言葉が渥美の背中に投げかけられた。渥美は振り返った。シルバーカーに身体を支えてもらいながらも老婦人は渥美の方を真剣な眼差しで見つめていた。
「何があっても、自分で居なさいね。自分であることは戦うということなのよ。分かるわね?」
そう言って老婦人は渥美に向かって頷いて見せた。渥美は引き攣ったままの笑顔を老婦人に向けたまま軽く頭を下げた。そして再び歩き出した。総合病院に行くのならついでに精神科にも寄った方が良いんじゃないかと思いながら。だが、歩き出す彼の背中を老婦人の声が再び追ってきた。
「負けちゃダメよ!いいわね!」
ネクタイを締めた青年は歩く速度を上げた。これ以上老婦人に構っていたくはなかった。時間は無かった。今立ちはだかっている状況を打開するには急いで携帯のバッテリーを用意する必要があった。バッテリーを売っている家電販売店が見つからない場合は公衆電話を使うしかなかった。彼はいつしか走り出していた。
マンションの合間に流れる雲には黒肌を這わせる蛇のような陰が貼りついていた。
駅の出入り口に面した三叉路に出ると渥美は辺りを見回した。
彼は両膝に手を預けて肩で息をついていた。こんなに走ったのは学生の時以来だった。だが、真剣に走ったのは生まれて初めてかもしれない。携帯の充電器を売っている大手の家電販売店が近くにあることを期待していたが、その期待はものの見事に裏切られた。大江戸線の入口が斜め前に構える三叉路の角からはスーパーは見えるものの、家電販売店は無かった。
渥美は頭を振り、家電販売店を探すことを諦めた。残るは公衆電話を使うという方法のみだったが、辺りを見回しても目当ての公共施設は見当たらなかった。
老若男女問わず誰もが携帯電話を所有している時代なのだ。そんなご時世に公衆電話なんてそう簡単に見つかるわけがないだろう。渥美は心の中でそう毒づいた。漸く呼吸が落ち着いてきた。彼はロータリーの方へ更に駆けた。