失態
それは『ちょっと』などという距離などではなかった。
横浜みなとみらいから渋谷まで出るのでさえ時間が取られるのに、その上まだ込み合っている山手線に乗る羽目になってしまった。渋谷駅から副都心線を使おうものなら出張交通費にまで目を光らせている経理から何を言われるか分かったものではなかった。池袋駅で山手線を下り、西武池袋線に乗り換える。『西武』を冠している割に西武池袋線は池袋駅の東側に発着場が設けられている。中央改札口を出て西武デパートの地下を横断し、混み合う階段を上った。デパートの入り口前で恋人を待っている若い待ち人達がうらやましく思えた。改札を通り抜けて渥美は発車時刻を知らせる電子掲示板を見上げた。準急や快速電車は既に駅を後にしていたようで、彼は仕方なく豊島園行きの各駅停車に乗車した。
大学時代、江古田に遊びに行ったことがあるが、その江古田ですら遠いと思ったくらいだった。今度は江古田よりも更に遠い練馬駅が終着になる。渥美は溜息をついた。
座席に腕を預けて車窓から見える景色を眺めてみた。窓の外に流れる景色には暗い灰色の雲覆い被さっていた。江古田駅を過ぎた辺りから線路が地面の高さから高架橋へと移り変わっていった。桜台駅に着く頃、空を覆う雲の色は増々暗くなっていた。下手をすれば雪が降ってきそうな空模様だった。
スマートフォンを操作し、若いサラリーマンは天気情報を調べ始めた。東京は雪マークがついていた。急いで自宅を出たので、傘は持ってきていなかった。渥美は肩越しに流れ行く景色に向かって溜息をついた。東京二十三区の中で一番寒暖差が激しい区域に仕事とはいえ、張り切って足を延ばす気には全くなれなかった。
練馬駅の中央改札口を出ると、案の定、頬を切るような冷たい風が通り過ぎていった。
渥美は急ぎ足でマンションや小さな商店が林立する狭い通りを歩いて行った。地図アプリを起動したスマートフォンを片手に辺りを見回しながら歩くが、目的の診療所は一向に姿を見せなかった。暫くして彼は曲がらなければならない道を間違えたことに気づいた。一旦引き返して道を曲がる。駅から徒歩十分の距離を彼は二十分かけて歩いた。目的地に辿り着いて書類整理を済ませた頃には既に十一時近くになっていた。
印鑑を押してもらう為だけにどうしてここまで面倒なことをしなければならないのか?
そう腐りながらスケジュール管理用のアプリを起動した時だった。不意に渥美は足を止めた。足を止めた渥美の顎が自然に下がった。今日のスケジュールに十一時から面談の予定が入っていた。慌てて鞄からシステム手帳を取り出してカレンダーページを捲るが、そこにも同じ日、時刻と得意先の会社名が書き込まれていた。彼は愕然とした。その商談は明日だと思い込んでいた。携帯の時刻を確認してみるが十一時まで後二分しかなかった。どう考えても間に合わない。南青山まで行くには最短でも三十分はかかる筈だった。
最近やっと割り当てられた得意先への挨拶をすっぽかしたことになってしまった。
気難しい社長で、やっと新製品の購入について首を縦に振ってもらったばかりだった。風で前髪に視界を遮られながら、痩せぎすな青年は携帯のアドレス帳からデータを探し当てた。そして前任の先輩へ電話をかけた。一緒に何度も社長を前にして頭を下げてくれた先輩だった。
「お前、一体何やってんだよ?!」
そう怒鳴られた後、先輩から更に責め立てられた。
「お前、俺がこの件でどれだけ苦労したと思ってるんだ?」
「本当に申し訳ありません」
「なんとしてでも社長を捕まえろ!それができるまで帰ってくるな!」
そんな怒鳴り声と共に電話は切れた。失敗については非を認めるが、命令されたと思うと腹立たしくなり、渥美は舌打ちした。終話ボタンを押し、彼は先輩の三村へ電話した。
「…カンベンしてくれよ。何やってんだよ、お前は?」
三村も事の顛末を聞くと呆れ返った。だが、元はと言えば三村がこんな用事を頼んでこなければこんな事態も起こらなかった筈なのだ。渥美はそのことについて言及したい思いだったが、言葉を飲み込み、三村に謝った。
「じゃあ資料は俺が片付けとくよ。けどこんなこと普通有り得ないからな?分かったか?」
そう言われると渥美はもう平謝りに謝るしかなかった。
「本当に申し訳ありませんでした」
「心が篭ってねぇんだよ!全く…お前のパソコン借りるからな!」
いきなり声を荒げながら怒りをぶつけてきた三村は受話器を投げつけるようにして電話を切った。いや、本当に受話器を投げつけたのだろう。プラスチックの製品同士がぶつかった際の衝撃音が携帯を通して聞こえた。渥美は思わず携帯電話を遠ざけていた。その乱暴な音が渥美の神経を逆撫でした。
「誰のせいでこうなったと思ってんだよ!」
思わず本音が口から洩れてしまった。だが、過ぎてしまったことに腹を立てている場合ではなかった。彼はシステム手帳のページを捲り、携帯画面のキーパッドから得意先の電話番号をダイアルした。
「…御社に連絡しましたがご不在とのことでしたので、織部は今しがた外出しました」
電話に応じた女性からそんな返事が突き返されてきた。足から力が抜けて行きそうだった。渥美は目を閉じ、唾を飲み込むと震える声で尋ねた。
「いつ頃お戻りになられるかご存知でしょうか?」
「申し訳ございません。いつ戻るとは申しておりませんでしたので」
「では、もし差し支えなければ織部社長の携帯番ごう…もしもし?もしもし!」
携帯のインターフェースは真っ黒に塗り潰されていた。渥美は状況が飲み込めず、電話機を振ってみた。だが、何の反応もなかった。昨日充電していたはずだった。しかし、自分が確実にその作業を行ったかと自問してみれば、怪しいところだった。眼前に転がっている事実は充電が失敗に終わっていたことを告げていた。どれだけ電源ボタンを押してみても、携帯はうんともすんとも言わなかった。
「くそっ!」
そう罵りながら若いサラリーマンは手帳を鞄の中に投げ込んだ。そして駅の方へ駆けようとした。だが、しわがれた声が彼を呼び止めた。