受話器から聞こえる声
受話口から変化することの無い音程を保っているトーンだけが聞こえていた。その筈だった。
『…おま…えだ』
『要…らんのは…お前…だ…』
渥美は受話器をまじまじと見つめた。トーンに混ざって、耳障りで掠れた声が受話器から這いずり出てきた。
『必要…ない…んだよ…お…前』
渥美は受話器をフックに戻そうとした。その時だった。
『おまえ…「助かる」が…きえれば「方法は」…いいんだ』
違う声が混ざっていた。渥美は咄嗟に受話器を耳に押し当てていた。
『やぐに・ただねぇ「一つ」おまえ・なん「しかない」がぁ…』
それはまるで複数の人間が一本の電話回線に割り込んで話をしているように聞こえた。渥美は聴覚に 全神経を集中させた。
『あんだ…だ・け・「自宅に電話を」ずるぅ…「するんだ」い・ぃ・「自分が」あんだだげ・ぇ・「どれだけ」なんで・ぇ…「人に迷惑を」こだ・えが・「かけたか」もら「懺悔」える「しな」のぉ・「さい」よぉ…』
渥美は静かに受話器をフックへ戻した。
プリクラやステッカーの合間から見える外側には相変わらず笑い声をあげる人だかりで覆われていた。渥美は目を閉じた。もう一度、受話器から聞こえてきた内容を胸の内で繰り返し暗誦してみた。電話ボックスの中で起こっている奇怪な事象も周りに集まってきている人々も彼に自分自身を戒めることを強いていたのだ。答えは最初から一つだったのだ。彼はそう解釈した。
電話ボックスの中には暫しの沈黙が訪れていた。
渥美はいきなり立ち上がった。そして仕切りガラスの前に立つと、壁を殴った。殴って、殴って殴り続けて、拳に滲んだ血が赤い染みとなってガラスにこびり付いても尚、彼は仕切りガラスを殴り続けた。それがあまりにも無駄な抵抗でしかないことも彼は十分承知していた。
辺りに注ぐ嘲笑の雨は一向に止まなかった。渥美が仕切りガラスを殴る様を間近で見ていた老人が点滴スタンドに寄りかかって膝を叩きながら笑った。電話ボックスの天井から黒い粘液は溢れ、電話ボックスの中は漆黒の雨に黒く塗り潰されようとしていた。
渥美は拳をガラス壁に預けたまま動かなかった。考えついた脱出方法を試すとなると身も心も彼を嘲笑する群衆の前に曝け出すことになる。出ることは叶っても自分という存在は完全に貶められる。社会的に見ても居場所がなくなるくらいに。生きる為に払わなければならない代償はあまりにも高かった。こんな不条理に過ぎる状況が自分の身に起こること自体、理解できなかった。いや、より正確に言えば理解したくなかった。
渥美は頭を壁へ何度も打ちつけた。シルバーカーを押していた老婦人の言葉が頭の中に蘇っていた。
「自分であることは戦うということなのよ」
あの時、あの老婦人は渥美から何かを感じ取ったのかもしれなかった。そして、考えつく限りのアドバイスを彼に与えようとしてくれたのかもしれなかった。その好意を無駄にしてしまったと思うと悔やんでも悔やみきれなかった。この異常な状況は眼前に立ちはだかったままだった。考えうる方法をすべて試して自分は敗北した。それが彼の出した結論だった。
渥美は鼻筋を伝う、黒い液体に混ざった自分の涙を拭うと、受話器を再び取り上げた。




