かかってきた電話
リンチという後味の悪い群像劇。
彼の頭の中で渦を巻き始めた懸念はそういった恐ろしい結末を描き出していた。隣の電話ボックスに居た男性の末路を自分が同じように辿ることを考えるだけでも寒気がした。彼にとって外へ出るという選択肢は、もはや選択肢では無くなっていた。
若いサラリーマンは崩れるようにして地面に両膝をついた。
「頼む、誰か助けてくれ」
俯いたまま渥美はか細い声を絞り出した。だが、その懇願に対して返ってくるものは笑い声の雨でしかなかった。ふと、地面に落ちていたテレフォンカードが目に留まった。暫くの間、渥美はその姿勢のまま動かなかった。今や嘲笑となった笑い声は大きくなるばかりだった。
渥美は地面にねっとりとした染みを形作っている黒溜りからテレフォンカードを摘み上げた。そして彼は地面に正座し、ハンカチを取り出してカードにこびりついた黒い液体を拭き取り始めた。その姿に笑い声の大合唱が一瞬静まったかと思うと、地響きと共に噴火するような抱腹絶倒の笑いに変わっていった。彼は汚れを拭き取ったテレフォンカードを両手でしっかりと握り、立ち上がった。
渥美は再び受話器を手にした。カードを差し込み、素早く十一桁の番号を押した。彼女の携帯番号だけは頭に叩き込んでいた。緊急時の予防線としてそうしていたのだった。だが、その予防線も電話が繋がらない今となってはもう意味を成さなかった。無駄な試みであることは分かっていたが、それでも電話をかけた。
ただ純粋に彼女の声が聞きたかった。
渥美は受話器を耳に添えた。受話器から呼び出し音が鳴り始めた。今や黒い染み天井全体に広がっていた。その染みから滴り落ちる黒い液体が本降りの雨のように仕切りガラスや地面に落下していた。電話機は彼の掌にこびり付いた黒い染みの残骸に汚されていた。こうやってこの機械は汚されていったのだと思うと、その事実が新たな恐怖となり、彼の身体を強張らせた。
受話器の向こうからはまだ呼び出し音が鳴り続けていた。
渥美は多くの視線に晒される中、電話機を抱き込むように顔を伏せた。電話はまだ繋がらなかった。留守電でも構わない。そう思い、祈りながら渥美は待ち続けた。そして呼び出し音が止まった。渥美は顔を上げた。それと同時に口を開いた。だが、受話器の向こう側から聞こえてくる言葉に彼は動けなくなってしまった。
『おかけになった電話番号は現在使われておりません。番号をお確かめの上、必要とされていない方にお掛け直し下さい』
渥美は顔を上げた。後ろ髪に天井から垂れ下がってくる粘液がへばりついてきた。だが、彼は電子数字板を睨みつけたまま動かなかった。彼の脳裏にはある言葉が焼きつくように残っていた。
…必要とされてない?
電子数値が示すテレフォンカードの度数がまた一つ減った。渥美は慌てて受話器をフックに戻した。正体が全く分からない液体に包まれたテレフォンカードが再び電話機から勢いよく吐き出され、白いシャツの上にべっとりと黒い染みをつけた。その様子を受けて電話ボックスの周りからまた、笑い声が上がった。しかし、彼は周りのことなどもう気にしていなかった。
一縷の望みを見つけた青年の瞳は文字通り目まぐるしく動き始めていた。天井から垂れてくる黒い液体がガラス壁を伝わり、流れ落ちてきた。その液体がガラス壁に張られたプリクラの上を通り過ぎて行った。あるカップルの片方をえぐり取るように。渥美は漸く顔を上げた。人だかりが増した景色を前に視線の焦点がぼやけていった。
…必要としてない?俺が死ぬほど嫌ってる奴ってことか…?
渥美の顔に生気が宿り始めていた。だが、どれだけ記憶のページを捲ったところで、死ぬほど憎い人間などそう容易く思い浮かぶはずもなかった。
諦めようとしたその瞬間、ある疑問が浮かんだ。
そもそも何で俺はここにいるんだ?
三村さんが自分の仕事を俺に振らなきゃこんな目に会わずに済んだんじゃないのか?
黒く長い前髪の合間から見える目に光が宿った。渥美は再びテレフォンカードを差し込み、勤めている会社の電話番号を押した。
『おかけに…』
渥美は即座にフックを下した。何の目的も果たすことなく、黒いテレフォンカードが再び頭を出した。『必要としていない』に対する答えとして選んだ三村は電話機にとって見当違いの答えだったようだ。
背中に絶えることのなくなった笑い声と振動を受けながら、渥美は受話器を片手に持ったまま頭を抱えた。『憎んでいる人間』ではなく、『必要としていない人間』なのだ。そんな人間の存在をこの切迫した状況下で思いつく訳がなかった。滴り落ちる闇は今や蛍光灯の白いカバーを塗り潰し、ガラス壁を汚し、地面を覆い尽くそうとしていた。そんな空間を切り裂くように今度は目の前の公衆電話から着信音が鳴った。渥美は顔を上げた。
電話は鳴り続けていた。
何の悪戯だ?
ふつふつと湧きあがってくる疑問に彼は受話器を取れずにいた。が、電話は静かに鳴りつづけている。渥美は下唇を噛んだ。どちらにしろ、今この状況で失うものなど何一つないのだ。彼は受話器を取った。
「もしもし?」
『もしもし?…あの、電話貰ったみたいなんですけど?』
電話をかけてきたのは渥美の彼女だった。彼の表情には希望が一瞬にして広がっていた。
「か、一美か?よかった、俺だ!征也だよ!俺、今変な電話ボックスに閉じこまれてさぁ…」
『もしもし?』
「もしもし?もしもし一美?聞こえるか?俺だ!」
『ヤダ…何これ?…気持ち悪い…』
「もしもし?!」
受話器の向こうで彼女の声が遠退いていった。屋外の雑音と誰かと話している声が微かに聞こえるだけだった。「気持ち悪い声」という言葉だけが受話器の向こう側に広がる雑音に紛れながらも辛うじて聞き取ることができた。
渥美は焦った。このまま電話を切られてしまうのではないかという不安が彼の頭を過って行った。彼は大声を上げていた。
「おい!俺だよ!頼むよ!警察を呼んでくれ!」
『もしもし、アンタ一体何なのよ?』
受話器の向こう側で言葉を発したのは渥美の彼女ではなかった。一緒にランチを食べに外出している同僚なのかもしれなかった。
「一美出してくれよ!渥美征也だって言えば分かるからさぁ!」
『…変態!』
その一言を残して電話は切れた。
渥美は口を大きく開いたまま動けなかった。変態と言われる覚えもないし、変なことを言ったつもりも無かった。それでもたった今、彼は変態として拒絶されてしまった。呆然としている彼の頬に刺さる視線があった。渥美は受話器を片手にガラス壁の方へ顔を向けた。
そこには群がっている人々の中には見るからに母と娘と分かる女性二人が電話ボックスを恐る恐る覗いていた。視線が母親の方と合った。そして次の瞬間、その母子は笑い出した。まだ小学校に上がる前の年頃と思われる女の子は渥美を指差した。
「キャハハハ!ヘンなひと~!」
そう言って女の子は顔を崩して笑った。母親は女の子の手を下げさせようとしたが、可笑しさのあまりそれを断念し、腹を抱えて笑い始めた。渥美は力の抜けた表情で彼の周りを取り囲む電話ボックスと群衆の姿を眺めた。他にこの状況から脱出する手だてなど考えつかなかった。




