急な出張
不愉快な表現などがありますので、予めご了承ください。
渥美征也は真っ暗になった携帯の画面を見つめながら溜息をついた。街路樹が植えられた歩道の真ん中に彼は立ち尽くしたままだった。底冷えのする風が吹き抜け、コートの襟を揺らしていった。
その日の朝、渥美は出勤定刻二分前に営業部のドアを荒々しく押し開いた。
ドアの前を通り過ぎようとしていた女性社員がその音に驚き、両手に抱えていた書類を落としてしまった。
「ごめんなさい!」
フロアに散らばった紙を拾い集める女性にそう言って、彼は壁にビス止めされてあるタイムカードラックへ駆け寄った。ラックから自分のタイムカードを剥ぐようにして掴むと、傍に設置されてあるタイムレコーダーへカードを差し込んだ。電子タイムレコーダーがカードを飲み込んで打刻し、紙を吐き出すまでの動作を苛々しながら見守った。そうやって定刻一分前の時刻が印字されたタイムカードを戻すと、彼は腰を屈めながら通路を小走りに走った。女性社員達がひそひそと噂をする傍を通り過ぎ、鞄を傍に放って自分の席についた。そこで彼は二日連続で遅刻にならなかったことについて漸く胸を撫で下ろしたのだった。
胸の動悸が治まったところで渥美は起動するのにやたら時間がかかるパソコンの電源を入れた。本体のハードディスクランプが点滅し始め、カリカリと耳障りな音を立て始めた。臨終間近なのではないかと思わせるくらいの大きな音だった。渥美は目を閉じて頭を下げた。毎日パソコンが起動してくれるよう黙祷を捧げるのが日課になっていた。
彼が座る席の隣では仲の良い同期二人組が仕事をしながら無駄話をしていた。
「そういえばさぁ、大学時代の友達から面白い話を聞いたんだけど興味ある?」
「どんな話?」
「友達が街歩いてたら、どこにでもあるような普通の電話ボックスの周りに人だかりができてたんだって」
「電話ボックス?何で?」
「そう、何でって思うっしょ?友達も不思議に思って遠巻きに見てたらさぁ…」
渥美はそれ以上同期の話を聞こうとしなかった。どうせいつもの下らない話だ。そんな与太話に構っていたら朝の大切な時間が無駄になってしまう。渥美は姿勢を正し、ディスプレーに視線を戻した。
パソコンのディスプレー上にウィンドウズのロゴが現れ、青空と緑に包まれた草原をバックにした画面が表示された。何とか今日も無事に起動してくれた。渥美は連日掛かりっきりになっていた資料の作成に取り掛かった。そうやって業務を始めた時である。渥美のデスクに向かって、でっぷりと肥えた先輩の三村が声を掛けてきた。
「おぉ渥美、丁度良かった」
マウスを片手に握ったまま、入社一年目の若者は口をぽかんと開けた。
「おはようございます…」
「なぁお前、練馬の秦野医院まで行ってくんねぇか?」
「え?」
「練馬だよ、ね・り・ま」
「いつですか?」
「今だよ」
「今からですか?」
「俺、会議があんのすっかり忘れててさぁ。頼む。午前中までにハンコもらってくればいいから」
三村は渥美のデスクに横付けされたキャビネットへ肘を預けて手を合わせた。
「でも、この前三村さんに頼まれた資料を片付けてるところなんですけど?」
「は?あれまだ終わってなかったの?ったくしょうがねぇなぁ。会議終わったら手伝ってやるから、ちょっと行ってくんねぇか?」