まっすぐな気持ちを『君に』 後篇
だから僕は気づけなかった。
あんなにあからさまだったはずだったのに。
だから僕は見て見ぬふりをした。
この幸せが永遠に続いてほしかったから。
その日は仕事のクレーム対応に追われていていつもよりも二時間遅くに帰宅した。
ずっとPCの画面を見ていたせいで目がしょぼしょぼとなっていたし、肩で電話を挟んで話していたので肩こりが酷くてつらかった。
こういう時には奥さんが効く。
奥さんの愛のこもった笑顔が僕を癒してくれる。
そう思ったらもうだめだ。
一秒でも早く奥さんに会いたいと家路に急ぎつつも、チョコレートケーキとレアチーズケーキ、クレームブリュレを買い込んで帰宅したのは嬉しそうな奥さんの笑顔を期待してだった。
もう少しで家が見えてくる。
奥さんがキッチンからひょっこりと顔を出して「おかえりなさい」と言ってくれる愛おしい日常が待っている。
はやる気持ちを抑えながら歩いていると、ふと、違和感にぐらりと頭が揺れた。
門燈がついていない。
いつもなら僕を迎える煌々とした明かりが今は一筋の光もなく、暗く冷たい電球が玄関にただ存在しているだけだった。
僕は言いようのない不安にかられた。
以前に門燈がついていなかったとき。
ちょうど、僕がケーキを買ってきたとき。
真っ暗なリビングでいったい何があった……?
偶然揃ったたった二つの出来事なのに、どうしてこんなに胸が苦しくなるのか。
けれど揃った二つ出来事は、そのあと家に入ればまたあの時のように底知れぬ淵に沈んだ奥さんが焦点をなくしてまっているのではないかという不安を掻き立てる。
――――――はやく、かえらなきゃ。
単なる偶然、単なる妄想。
逃れるためには奥さんの笑顔を見るしか手立てはなかった。
いつからだろうか。
料理が豪華になってきたとともに味付けが濃くなった。
シンプル好きの奥さんの数少ない小物がいつの間にかなくなった。
旅行で撮った沢山の写真が几帳面な奥さんに似合わずカメラ屋さんからもらってきたままの袋に入れられたままだった。
奥さん曰く。
料理をブログにアップするようにしたので見た目をきれいに飾っているの。
ごめんなさい、ちょっと最近おっちょこちょいに拍車がかかったみたいで。掃除中に壊したり無くしたりしてしまって。物がすくなくなったよね。でもこのほうがすっきりしてるかな?物は壊れちゃったけど、その分掃除はしやすいからいいよね!?
写真はねえ。沢山とりすぎてどれを選んでアルバムにはさもうか迷っちゃって。旦那さんがかっこいいから選べないんだよ。ぜーんぶかっこいい旦那さんが悪い!
なんでも笑いにすり替えられて、僕の不安を一蹴した奥さん。
子供が産めないことをずっとずっと気に病んで、時たまうずくまって嗚咽を漏らす奥さん。
小さな体は僕の腕の中にすっぽりと入りこんで。
けれども彼女の温かな愛は僕の原動力だった。
その奥さんが、目の前で、一息。
すうぅと深く吸い込んで。
―――――その命の炎を消し終えた。
あの夜。
一つの灯りもついていない家の中では。
奥さんがリビングのテーブルの下で、散乱したカードの中に倒れていた。
手の先には電話機の子機が落ちていた。
何度声をかけても反応がない奥さんに、僕は慌てて子機を拾い上げて救急車を呼び寄せた。
既往歴を聞かれても、通院先を聞かれても、僕は何一つ答えることができなくて。
散乱したカードの中にあった、目立つように装飾された一枚のカードが事実を突きつけた。
それは産婦人科も入っている総合病院の、緩和ケア病棟につながる電話番号が記載されたカード。
緩和ケア、その言葉の意味するところはただ一つ。
奥さんは、――――――もう。
僕は何も知らなかった。
僕は何も知ろうとしなかった。
いや本当は怖かった。
化粧っ気のなかった奥さんが日に日に厚化粧になっていくことが。
サイズが合わなくなったからと、クローゼットから消え失せていく服の数が。
豪華な食事は僕の前にしか出されず、自分は先に食べたからと一緒に食事をとらなくなったことが。
突き詰めれば簡単に分かったはずなのに、その言葉がのど元まで出かかるというのに口に上らないのは、なぜかその時ばかり奥さんの瞳が僕をじっと見据えるからで。
そう。僕は臆病だった。
とてつもなく臆病だった。
そして、僕はどうしようもなく狡かった。
奥さんがただ笑っていてくれる。
僕を「何か」から遠ざけているとはわかっていても、僕にほほ笑んでいてくれるその事実だけを受け止めたかった。
死を願うほどの痛みを取り除くための薬は、同時に意識を奪う。
点滴を受ける奥さんが目覚めないことを疑問に思った僕が問えば、主治医の先生はそう言った。
病気が見つかった時はすでに手遅れで、痛み止めの薬や注射だけが唯一の治療法だった。
おだかやに、おだかやに。
奥さんは病院の一室でじっと死を待つのは嫌だと、どうせ死ぬなら僕に病気のことを最後まで知らせずに楽しく暮らしたいとそう主治医の先生に言ったそうだ。
病魔に侵された体に妊娠は命を縮める好意だ。
仮に生まれたとしても、奥さんに育てるだけの力は残されていない。
僕に病気を一秒でも隠すために、そしてどんどんと悪くなる体を隠し通すために、奥さんはひどい貧血のために子供が産めないと事実を置き換えた。
馬鹿だな。
君が望むなら、僕は君が思い浮かべたとおりにするのに。
たとえそれが偽りであっても、砂の上に建てられた一本の棒であったとしても、僕は君が望むままにするのにね。
愛している君がいつでも幸福であることが、僕が幸福でありつづける唯一の方法なんだから。
やせ細ってこそげ落ちた頬に少しでも血色をよく見せようとおしろいをはたく。
薄い唇には赤い紅を。
旅立ちに相応しい白い着物の上には沢山の色とりどりの花を。
しっかりと組み合わせた手の上には、奥さんが撮った僕の写真をおいて。
さようなら、僕の愛する人。
僕のために痛む体を押して過ごしてくれてありがとう。
君は僕のすべてだけど、僕は君のすべてになっただろうか。
そうだったら嬉しいな。
そうであってほしいと、心から願うよ。
ありがとう、僕の愛する人。
君という存在が、臆病な僕を生かしてくれた。
急なお別れは辛すぎてどうしていいかわからないけれど、それは君が望んだことだから、僕はその苦しみも受け止める。
あの時僕の腕の中にすっぽりと入って泣いた君は、今は白い布に包まれて僕の腕の中で眠る。
さようなら、ありがとう。
見上げた空は、まるで君のようだった。