まっすぐな気持ちを『君に』 中篇
奥さんはよく笑う。
憑き物が落ちたかのようにあの日を境に昔の彼女に戻った。
いや、それ以上の快活さで笑うようになった。
何がおかしいんだか、箸が転がっただけでも笑うんじゃないかって勢いはまるで青春真っ只中の高校生のようだ。
「お帰りなさい……って!うわー、旦那さん!!その顔で帰ってきたの!?」
仕事から戻ってリビングの扉を開けたとたん、キッチンから出てきた奥さんが僕の顔を指さして叫んだ。
もちろん、そのあとお腹を抱えて大爆笑。
いくら愛する奥さんでも、いつまでも人を指さして笑い転げるのは切実に止めてもらいたい。
「なに?僕の顔っておかしいの?」
ちょっと不機嫌気味にそう問うと、奥さんはひーひー言いながら僕を鏡の前まで引っ張った。
「口元。チョコ、食べたんでしょー」
「……げ」
口端から頬にかけて一直線、チョコをふき取って失敗した線が一本できていた。
今日は頬が引きつるなあ、乾燥してるからかな?なんて考えていた僕はよっぽどの間抜けだ。
奥さんはまだ笑いが止まらないのか目に涙をためながら、僕の頬を絞ったタオルで拭いてくれた。
ごしごしとちょっときつめに拭ってくれたのは、もちろん笑っているから力加減ができなかったんだろう。
「い、痛いよ。奥さん」
「うふふふー。旦那さんってほんと、可愛いな」
「お、奥さん??」
珍しくストレートに愛情表現なんてするもんだから、僕は非常に戸惑った。
奥さんは快活なくせにとても恥ずかしがり屋で、滅多に自分からは僕に何かしようとはしない。
そんな奥さんが「可愛い」なんていうものだから、なんだか盛大に照れてしまってうつむいた。
「耳まで真っ赤っかになってるよー」
くふふふと手を口に当てながら幸せそうに笑っている奥さんは、絶対僕で遊んでいる。
スーツから部屋着に着替えてリビングに入ると、部屋の真ん中に置いてあるテーブルの上には乱雑に旅行パンフレットが置かれていた。
珍しいことがあるんだな。
奥さんは旅行好きといえば旅行好きなんだけど、どちらかというと自分で行先を決めたら行程を自分で計画していくような旅行が好きだ。
パンフレットが必要なパック旅行は時間に追いやられるから好きじゃないっていつもいっていたはずなんだけど。
「ねえねえ、旦那さん。旅行、行こうよ。海外がいいなあ」
「どうしたの、いきなりだねえ。海外行きたいなんて初めて聞いたよ。それにパンフレットも」
「うーん。海外に行くなら無茶ぶりはできないでしょ?なので涙をのんでパック旅行で」
「海外ねえ。……駄目だなあ。奥さん、貧血が酷いんでしょ?いきなり体調が悪くなったら海外じゃあどうしようもないよ。旅行にいくなら国内にしよう。それに案外国内のパック旅行も面白いかもしれないし……なんだ、国内のパンフレットもあるじゃん」
「え、いや、それは」
「へええ?どういう風の吹き回し?」
「うううううっ。ちょっとだけ興味があったのよー」
さっきとは真逆に今度は奥さんの顔が真っ赤になって僕の手からパンフレットをひったくる。
あうあう言っているけれど、こういう時の奥さんはとても可愛い。
「うん、どっか行こうか。どこがいい?」
頭をぽんぽんと軽く叩くと、上目遣いの奥さんが目を潤ませながら睨んでる。
だめだって、普段見せることのないそんな顔されても僕にとっては嬉しいだけなんだから。
思わず体を引き寄せてそのままソファに座り込む。
奥さんの足をソファに乗せて、いわゆるお姫様抱っこ状態になると、僕の胸にことんと頭を預けてきた。
「どこ行こうか。奥さんはどこがいいって思ったの?」
「どこ……っていうか、今度の土日に行きたいなあ」
「はあ?何それ。急だねえ」
「うん。急なの。でも行きたくなったの」
珍しいわがままに、僕はにへらと笑ってしまった。
奥さんにとって最近はとてもつらいことが多くて我慢をしていたんだろうから、旅行に行くことで気持ちが晴れるなら叶えてあげないと。
「じゃあ二人で決めようね。僕は……」
そうして僕たちの旅行三昧な生活が始まった。
東京、大阪、それに名古屋と、「観光」目的で訪れることがなかった場所は、決められたルートとバスガイドさんの冗談を交えた案内で意外に面白かった。
奥さんのはしゃぎっぷりは見ものだった。
初めて乗る有名なバスをいろんな方向からカメラに収め、それだけでは飽き足らずバスの運転手さんとバスガイドさんもレンズを向ける始末だった。
名所を巡るたびにカメラを取り出し、僕にああだこうだと指示を出してシャッターを下ろす。
いつもはそんなに写真を撮らないのに急にどうしたんだろうといぶかりながらも、奥さんがあまりにもうれしそうに笑っているから多少の疑問は置いておくことにした。
休みのたびに旅行に出かけたとしても奥さんの笑顔が見れるなら疲れなんて溜まらない。
たとえ子供ができなくったっていいんだよ。
僕には君さえいてくれれば、君さえ笑っていてくれるのなら僕は十分に幸せだから。
前後篇で終われなかった(爆)