まっすぐな気持ちを『君に』 前篇
僕には愛する奥さんがいる。
ちょっと小柄でちょっとお茶目でちょっとわがままな、僕の愛する奥さん。
高校生の時に知り合って、大学生になっても社会人になっても、そのままずっと奥さん一筋。
怒った顔、泣いた顔、笑った顔。
くるくるとよく動きまわる奥さんは、僕の宝物だ。
このところ、奥さんの具合がよくない。
そりゃあそうだろう、と思う。
奥さんの両親が突然、交通事故で亡くなったからだ。
奥さんはそれはとても親を大切にしていたし、昨日まで元気だった両親が今日はもういないなんて誰が信じることができるんだろう。
だけど僕はひどい奴で。
僕の身近な人が亡くなった経験がないから、奥さんの本当の気持ちには気付いてやれなかった。
日に日に痩せていく奥さんを慰めることができても、奥さんの苦しみを分かち合うことができなかったんだから。
そんな僕だから、とうとう奥さんは心労がたたって倒れてしまった。
奥さんは「大丈夫」なんて強がったけれど、そんなわけはない。
僕は慌てて病院に奥さんを連れて行った。
やはり過労ということで、その日は栄養剤を入れた点滴を打ってもらって家に戻ったけれど、顔色は倒れる前とあまり変わっていないように見えた。
「うーん。そういえば前からちょっとふらっとくることがあるんだよね」
「それはよくないよ。過労だけでここまで顔色が悪くなったり痩せたりするとは思えないから、一度病院にいってちゃんと調べてみてもらったら?」
「大げさだなあ。でも、もしかしたら違う方向化もしれないし」
「違う方向……?」
「あ。ううん。でも。まあ、そうかも、ね?」
奥さんはこの時ばかり悪い顔色を桃色に染めて、嬉しそうに微笑んだ。
きっといい話が可愛い奥さんの口からきける。
無理矢理定時に仕事を終わらせ、駅前のケーキ屋さんで奥さんが大好きな和栗のモンブランを買って家路へ急いだ。
日が長くなったといっても夜6時を回るとあたりは暗くなる。
いつもならついている門燈が点いていないことに少し驚きながら家の鍵を開けると、
――――――どうしたんだろう。
いつもなら奥さんのころころと転がるような鈴ような声で「おかえりなさい」と聴こえてくるのに、今日はどこからも聞こえてこない。
それになにより、家の中が――――暗い。
家に灯りが全く点っていなかった。
僕は得も言われぬ不安に襲われ、靴を脱ぐのももどかしく急いで中に駆け込んだ。
奥さんがいるはずのリビングはまだ薄明るい外のわずかな光をも通さないようにカーテンがきっちりと閉められて真っ黒だ。
「……奥さん?」
リビングの隅にあるオリーブの鉢の元に真っ黒よりも黒い影がぴくりと動いた。
「奥さん?どうしたの?」
ぴくりぴくりと動く影は、背中越しに見ていてもひどく弱弱しげで儚げで、このまま闇に溶けてしまうんじゃないかと思ったほどだ。
僕は恐ろしくなって、いつもよりもいくつも細く見える肩を揺さぶった。
ところが何度揺さぶっても奥さんの反応がなくて、首ががくがくと不安定に揺れるだけ。
おかしい。おかしすぎる。
ぐぐっと喉元に何かがせりあがってくるような恐怖にとらわれて、僕は奥さんを強く揺さぶった。
するとぐらぐらしていた頭にすっと力が入ってゆっくりと僕のほうに振り向いて、ふにゃりと顔をゆがませた。
「……あ、旦那さん。お帰りなさい」
「うん、只今帰りました。……どうしたの?電気も点けないで」
「……う、ん。あ、のね?あのね、旦那さん」
歪んだ顔をさらに歪ませて、奥さんは目に涙をためていた。
「あの、ね。違ったの。赤ちゃん、違ったの」
奥さんはわんわんと泣き出した。
ずっと欲しがっていた赤ちゃんだったから、おなかの中に宿ったかもしれないという期待がすでに決定になっていたんだろう。
それに僕があんまりにも嬉しそうにしていたもんだから、きっと奥さんは責任を感じているんだろう。
細くて小さな奥さんの体を抱き寄せると、背中をゆっくりとさすりながら、僕は自分を責めた。
「まだ僕たちのもとに天使は来てくれなかったってことだね」
「あ、のね。それだけじゃないの」
「うん?」
「わた、し、ちょっと貧血がひどいらしくて、あの、その、子供はしばらく作らないでって、先生が」
僕は驚いて奥さんの肩に手をやって、じっと奥さんの涙に濡れた瞳を見つめた。
「どういうこと?奥さん、子供を作るなっていうくらい酷い貧血なの?」
「ご、ごめん」
子供が産めなくてごめんなさい。
奥さんは小さな小さな声で何度も何度も謝った。
「違う!違うよ、奥さん!僕が言っているのは奥さんの体調のことだよ。そんなに酷い貧血なら、入院とかしなくて大丈夫なの?」
「う、ん。それは大丈夫なんだけど」
「けど?」
「ごめんなさい」
そういうとさめざめと泣きだして、僕はどうしたらいいのか途方に暮れた。
気のせいだったのは残念だけれど子供は授かりものだから奥さんのせいでもないのに、どうしてここまで謝るのかわからない。
それに奥さんの体調のことだって気になるし。
貧血がひどいなら、何か手立てはないのか考えないといけない。
食べ物とかサプリとか、点滴だってあるんじゃないのかな。
あたまの中でぐるぐると思考が渦巻いている間に、奥さんは泣き疲れて僕の胸の中でことんと眠っていた。
僕はほうと息をついて、奥さんを抱き上げて寝室に運んだ。
翌日は、昨日のことが嘘のようにいつもの奥さんに戻っていた。
僕は訝しみながらも、昨日の思いつめたような奥さんを見るのはつらかったので元に戻ってくれてほっとした。
―――――本当に僕は奥さんのどこを見ていたんだろう。
おかしいと思ったことをどうしてもっと突き詰めなかったのか。
その時の僕を殴ってやりたい。