金木犀
糖度ゼロかもしれません……。
季語でいう、寒露の頃。
私はこの時期が一年の中で一番好きだ。
ひんやりとした朝は起き抜けのぬるい体を引き締めてくれるし、晴れた昼の空は高くどこまでも澄んで美しい。
それになにより、金木犀の1cmにも満たない小さな橙金色の花が強烈な匂いを放ち、そこかしこから漂ってくる。独特の甘い匂いに世界が包まれる。
今はもうなくなった実家の庭先にあった金木犀。
花が咲きはじめると一枝切り落として部屋に持ちこんで、部屋全体を一気に桃源郷へと変化させた小さな花。
金木犀の咲くこの季節は、私にとって懐かしい我が家にいるような、そんな錯覚を起こさせてくれる。
薄曇りの朝。
いつものように部屋の空気を入れ替えようと公園が見える窓をからりと開けた。
今住んでいるアパートに引っ越すことに決めたのは、駅から十五分という立地もさることながら、隣接する公園に植樹としては珍しい金木犀が植わっていたのを見つけたからだった。
―――――ああ、もうそういう時期なんだ。
開けた途端に部屋に流れ込んできた金木犀の香りをいっぱいに吸い込むと、つと郷愁に胸が痛んだ。
これから一週間ほどの花期を楽しませてくれる金木犀を見ようと、公園を覗き込むとそこには一人の影がうずくまるようにあった。
金木犀の匂いは強く、花が咲いているときに真下にいようものなら匂いで頭痛がするほどなのに、その影はびくともせずにそこに座り続けている。
それよりなにより、この時期、昼ならまだしも朝はかなり寒い。厚着しているようには見えないけれど大丈夫なんだろうかと他人事ながら思ってみた。
けれどせわしない朝の支度に追われて、いつしかそのことを忘れていた。
思い出したのは仕事に行くときに公園の横を通った時だ。
金木犀を眺めることは私にとって生活の一部となっているので、仕事に行く前には必ず一目無意識に見てしまう。その時になって早朝に樹の下にうずくまっていた人のことを思い出した。
初めて見たときから二時間もあのまま……?
そのとき、影がぐらりと揺らいでずるずると樹の幹を伝って滑り落ちていった。
……眠った?それとも具合が悪い?
考えるよりも先に体が動き出して、金木犀の樹のそばまで駆け出した。
「大丈夫ですか?」
確認だけをしようとしていたはずがつい声掛けをしてしまったのは、その人が浅く息をしていたから。
はっはっとリズムを刻む息は、少し熱を帯びているように感じられた。
「救急車を呼びましょうか?」
いくら待っても帰ってこない返答に、こちらから声をかけてみれば、ふるりと頭を横に揺らしてそのまままた息をあげていく。
「救急車がいやでも、せめて病院にはいきましょう」
すでに返答すら難しいほどの熱が体を侵しているのだろう、首すらもう動かさなかった。
迷わず携帯電話を手に持つと、職場に連絡を入れて今から患者を連れていくことと少し遅刻しそうなことの了解をとった。
タクシーを止めて、運転手さんと二人がかりで車の座席に座らせると、職場であるクリニックまで急いでもらう。
「急患ね」
「すいません。うちの横の公園で倒れていたんです」
「じゃあ、あとは私たちがするから、あなたは開院準備して。患者さんが今日もたくさんお待ちだから」
ぺこりと看護師長に頭を下げると、急いで制服に着替えて患者さんたちの対応をはじめる。
そろそろインフルエンザを警戒してか、症状の軽い人が大勢来院しているのにはちょっと驚きをかくせない。そのせいか、昼過ぎの予防接種の時間に訪れる患者の数はいつもよりも多く感じるほどだった。
やっと手があいて、件の人を見舞いにいくと、少し顔色が戻り、息も長くなっていた。
「点滴をしたら、落ち着いたわ」
「そうですか。よかった」
「ずっと寝ていたからそろそろ起きるんじゃない?」
そういうと看護師長はにこやかに他の業務に戻って行った。
さて、どうしよう。
すやすやと落ち着いて眠る人をじっとみているとぴくりと瞼が動き、ゆっくりと目を開けた。
一瞬、焦点が合わないかのように瞳がぶれたけど、そのあとは意識がはっきりしてきたのか瞳に力が宿ったのが分かった。
人の顔を見て息をのんだのは生まれて初めてかもしれない。
『病人』というくくりで見ていたため、顔なんて顔色以外まともに見なかったが、瞳に命が宿るとこんなに雰囲気が変わるのかと驚きを隠せなかった。
けれど目の前の人は私の動揺など知る由もなく、不安そうにあたりを見回し、そしてベッドの横で座っている私に気がつくと不安そうに見上げてくる。
「こんにちは。ここがどこだか分ります?」
「……病院……?」
「そうです。あなたは公園で倒れていたんですが、それまでのことを覚えていますか?」
逡巡するように瞳をぐるりと動かすと、また私をじっと見て、何か思いだしそうだと眉をひそめた。
「あまり。でも金木犀の匂いに誘われて木の近くまでいったことと、あなたが声をかけてくれたことはおぼろげに覚えています」
「そうですか。救急車を嫌がられたのでこちらにお連れしたんですが、そのころにはあまり意識がなくて。今はもう意識もはっきりされたようですし、症状も落ち着かれたみたいですから、もう帰られてもいいそうです。連絡先をお教えくださればご連絡いたしますが」
「……俺はどのくらいここにいましたか」
時計を見れば、夕方の四時過ぎ。
朝一番に運んできたことを思い返せば、八時間近くはいたことになる。
時間を告げると彼は驚いたようだった。
そして上着に入っている携帯を取ってほしいと頼まれて手渡すと、連絡先の電話番号を伝えてきた。ちょうどよいとこの機会に名前を聞いてカルテを作っておく。
しばらくすると迎えの人がやってきて、まだふらつく彼を支えながら何度もお礼を言う。彼もぺこりと頭を下げたのが印象的だった。
「なんだか風のようだったわね」
「そうね。普通こういうときは嵐になることが多いけど」
「さあ、夜の部が始まる前に少しだけ休憩しましょうか」
そうしてこのことはいつもの日常の中のヒトコマとして忘れ去られてしまった。
翌日。
いつものように起きぬけの身体に活をいれようと公園側の窓を開け放ったのは、早朝のまだ晴れきらない空が鈍くのしかかっているときだった。
冷やかな空気は金木犀の甘い香りのアクセントだ。
いつものように目線を公園の金木犀に向けると、昨日より少し金色に膨らんだ樹。これからだんだんと花の香りも強くなっていくだろう。
澄んだ空気と昨日よりも一段と濃い香りを胸一杯に吸い込むと、いつもの郷愁に加え、昨日起こったちょっとした騒動に頬が緩んだ。
高熱が引いたばかりの倦怠感でふらつく身体を迎えに来た人に支えられながらも丁寧に挨拶をして帰って行った人。
金木犀の匂いに一つ新しい記憶が刻み込まれた。
花が散るまでの数日間、その記憶は優しい気持ちにさせてくれるだろう。
花が咲きはじめて一週間が過ぎようとしていた。
強烈に存在感を知らしめていた匂いも、そろそろ終わりを迎えようとしている。
仕事から帰ってくるのは夜になるため、朝の出勤時に最後まで咲き誇る橙金色の花を堪能しようと、いつもよりも少し早い時間に家を出た。
「あの」
公園の入り口でふいに声を掛けられた。
声がかかると言うことは不審者ではないんだろうなと思いながらも警戒しながら声の主を探すと、入り口の樹の蔭からこの時期にしてはまだ早いダウンジャケットに身を包んだ男の人が現れた。
ダウンジャケットの下は濃い色合いのスーツ。けれど一見してサラリーマンにはない華やかな印象を持つその人は、手にしていた紙袋をぬっと私の前に突き出した。
「先日は助けていただいてありがとうございました。これは少ないですがお礼です」
なるほど、どこかで見たような顔だと思ったら、金木犀の人だった。
息をのむほどの印象深い瞳は変わらなかったが、そこまで初対面だと思っている人の顔は見つめない。
「当然のことをしただけですから、お礼の必要はありません。それよりもどうしてここに?」
「お礼に病院に行こうかと思ったのですが、仕事の邪魔をするのではないかと思って。それに俺が倒れていたのはこの金木犀の下でしたから、ここに同じ時間にいれば会えるんじゃないかって」
「憶測で朝早くからここで待っていたんですか?」
あきれた。
一週間前に高熱を出したばかりだというのに、朝冷えるこの時期に外で現れないかもしれない私を待っていただなんて。
「直接、お礼が言いたかったんです。それに待った甲斐はあったでしょう?」
邪気なく笑うその人に、少し心を躍らせたのは秘密だ。
「お礼、受け取っていただけませんか?」
「わかりました。頂きます」
そういって差し出した手に、その人は紙袋と一緒に自分の手を重ねた。随分ここで待っていたのだろう、とても冷たい手だった。
驚いて顔を上げると「あたたかい手ですね」と悪びれず微笑まれる。
「あ、あのっ、手を……」
「少し身体が冷えてきました。よかったら一緒に珈琲でも飲みにいきませんか?」
チープすぎる誘い文句。
いつもなら笑って受け流すその言葉だというのに、握られた手が真摯にぎゅっと強くなる。
「断らないで」と強い願いがその力に込められている。
「……残念ですが、時間があまりありません。今から出勤しなければなりませんから」
言葉を紡ぐのに、少し時間がかかってしまった。
強張った顔を見る限り、彼はきっとその間の意味を取り違えているのだろう。
「そう……ですか。そうですよね。すいませんでした。でも」
「あの、何がいいですか?」
「は?」
「珈琲を飲みにはいく時間はないですが、珈琲を飲むくらいならありますよ?ちょうどそこに自動販売機がありますから、何か買ってきます。何がいいですか?」
合点がいったのか、ひそめていた眉をゆるめると同時に手を強く握られて、引っ張られ気味に歩きはじめる。
くすっと笑いが漏れたのは、背中越しに感じる照れだ。
「はい、どうぞ」
「……温かいですね」
金木犀の近くにあるベンチに腰を落ち着かせて、二人で静かに珈琲を飲んだ。金木犀の匂いが一緒に喉に入り込む、不思議な味のする珈琲になった。
「名前を教えてくれませんか」
そういえば名乗ったことがないことを今さらながらに思い出した。
私はといえば、彼のカルテを作るときに名前を聞いていたので知ってはいたが、その状況では彼の名を知っているというべきではない。
「これきりですし、別に名乗らなくてもいいでしょう」
「これきりなんてしたくない、といえば教えてくれますか。これからもこうやって一緒に過ごしていたいといえば、軽いと思いますか」
「……いいえ。ただ信じられません」
そうなのだ。
自分の、この揺れる気持ちを表すならば、彼をではなく自分を信じることができない。
振るえる瞼を開けた時に感じた、息をのむほどの衝動は、忘れるようにと願っていたのだから。
だからこそ、こうやって一緒にと言われても、それを本気で受け止めるべきではないと思ってしまうのだ。
「信じてください。そうでなければ俺はここにいないことになる」
不安を払しょくするように、缶コーヒーで暖まった手を握られる。
大きくて骨ばった、男の手。
私の小さな手を包み込んだ、大きな手。
少しくらい違う世界に飛び込んでも、私を包んで守ってくれそうな大きな手。
処置室での数時間だけの邂逅で、何がこの人の琴線に触れたのか。
けれども私は思い出さないように蓋をするほど、この人の瞳に魅かれたことは確かだった。
ふわりと香る金木犀が、後押しをする。
匂いとして刻んだ記憶が、橙金色に染まっていく。
「名前を、教えてください」
もう一度その人はその言葉を呟いた。
そして私は返すのだろう、特別の意味をもって。
「私の名前は―――――」
24.10.27 改行を加えました。