渡会くんの、無くした―――――
『その記憶の片隅に』の渡会くんのお話です。
そちらを読まないとわかりづらいかもしれません。
あれ、何だ?
ええっと、何かが―――――――へん?
高校の最終学年になった新学期。
俺こと、渡会 景虎はとてつもない違和感に襲われていた。
部活が終わって家路につくと決まって胸の中に手を突っ込んでゆっくりと心臓を握られているような、耳の奥で何かを取り損なったような、妙な感覚に囚われる。
なんでだろ。
何かが、へん。
何かとてつもなく大切なことを忘れたみたいで、忘れてはいけないことを思い出せない、そんな感覚。
校門の陰の中、いつもそこで、何かがあったんだけど。
それが何かわからないけれど、わからないから大したことじゃないんだろうと結論付けて、肩に食い込む防具入れを掛けなおす。慣れた重さだけれど、なんだかずっしりと肩にくる。
我知れずため息をついた。
教室の扉を開ける度、休み時間になる度、お昼休みも部活帰りの校門の前でも奇妙な感覚が俺を襲う。
気にしないようにしているのに体は正直なようで「最近お前、よく眉間に皺をよせてるよな?」と隣の席の葛城に言われてしまった。
「そう? そんなつもりはないんだけど」
「まあなあ。ストちゃんがいないからかねえ」
ストちゃん?
ストちゃんってなんだろう。
「あれ。まさかストちゃんを忘れたのか? 去年あんだけお前に引っ付いていたのに」
ひでえなあと葛城は呆れながら、それもお前らしいかと笑われた。
いやいやいやいや、ちょっとまって。
俺、そんなに酷くない、と思う。
でも「ストちゃん」がわからない……。
「まじか……お前、終業式のときにちゃんとストちゃんの苗字を呼んでたぞ? 桧垣って」
桧垣!
その名前を聞いた途端、目が大きくてくるくると良く動くちっちゃな女の子が現れた。びしっと指を突き出して「桧垣! 桧垣 笑だから!!」と声を大にしてよく叫んでたっけ。
なんでどうして忘れていたんだろう。
覚えたよって言ったのに。
「ストちゃんっていうのは桧垣の別名だよ。なにせお前のいくところいくところに現れる奴だったからさあ、俺たち『渡会のストーカー』なーんて呼んでたんだよ、お前の陰で。で、ストーカーからストちゃんになったわけ」
ああ、そうだ。そうだった。
二年生の始業式の日に「私を覚えてもらうんです!」とやたらめったら意気込んで俺の前に現れたとてもユニークな女の子。それが桧垣だった。それから毎日、部活が終わるとどこからか現れて「一緒に帰りましょう!」と、俺よりも頭一つ以上違う小さな体だというのにこちらの鼓膜が破れそうになるほど大きな声を出して近寄ってきてた。クラスも同じだったようで、朝、教室の扉を開ける度、休み時間になる度、昼休みはもちろんのこと放課後や部活帰りに至るまで視界の端に入っては「桧垣ですよー」と笑ってる。なんで俺に覚えてもらいたいのかなあ。めんどくさいなあ。なんて思っていたのは初めのうちだけで、同じ中学出身だった桧垣が懐かしい話を振ってくるからついつい話に乗ってしまっていたっけ。というよりも、俺と桧垣って同じ中学で三年間同じクラスだったみたいだけど、話したことあったんだ。
「そういや、最近見かけないなあ。俺のクラスにはいないみたいだけど」
いたら大きな目を輝かせて「桧垣ですよー」とアピールしてる。絶対に。
すると葛城が驚いたように俺を見る。
何? どうしてそんな顔をするんだろ。
「え、嘘。お前しらねえの? ストちゃん、転校したって」
「は?」
「うわ、まじか。お前ら、あんだけ毎日一緒に帰ってたのに、なんか基本的なこと間違ってねえ?」
盛大にため息をつかれ、気の毒な子扱いをされてしまったが、そんなことはどうでもいい。
俺、知らないけど。
何も、聞いてないけど。
なんで、どうして、転校なんて。
……あれ? 胸が苦しい。
「おいっ!? どーした景虎、顔真っ青だぞ。気分が悪いのか? 保健室、行くか?」
慌てた葛城に大丈夫だよと無理やり作った笑顔で答えたが、信じてくれてなさそうな感じがする。
だけど教室に入ってきた担任が出席を取り始めたのを機にこれ以上の詮索はしないと決め込んだらしい、ちらちらとこちらを窺いつつも推薦狙いで担任に少しでも覚えをよくしてもらおうと真っ直ぐ前を向いていた。
ええと、これはどういうこと?
去年はあれだけ俺に覚えてもらうんだって頑張っていた桧垣は、俺が覚えた途端にどっかにいったってこと?
転校って急なことだったんだろうか。
それとも、俺には連絡しなくてもいい程度だって思われていたってこと?
あれでだけ俺の前に現れていたのに、俺ってその程度?
引っ越し先を教えてもらえないほど、俺は桧垣にとって必要ではない人ってことなのかもしれない。
――――――胸が、痛い。
その時やっと気が付いた。
名前を覚えてもらえないっていうことがどれほどその人を傷つけるのかってことを。
忘れ去られる、記憶に残さない、必要とされないと思われるということがどれほど人を傷つけるのか。 こんなにも胸が、痛くて、苦しい。
調べようと思えば調べることができた連絡先。
俺はあえて知ろうとはしなかった。
桧垣がきっと知られたくなかったんだろう転居先を知られなかった本人である俺が暴くことができなかったから。
それに。
桧垣になんて言っていいのかもわからない。
「こんにちは」?
「ひさしぶり」?
「どうして引っ越したの」?
安っぽい言葉しかでてこない。俺ってばボキャブラリー、ない。
けれど二度と桧垣を忘れないでおこう。
学祭の時に無理やりとられて手渡された写真を生徒手帳に挟んで、時折開く。
『桧垣です! 桧垣 笑!!』
元気な声と豊かな表情が一面に広がって、俺に問いかける。
『覚えてもらいたいんです! ……覚えましたか?』
ああ、覚えてるよ。 決して二度と忘れない。
俺に大切なことを教えてくれた桧垣。
彼女の無邪気な問いかけと根性の入った突撃がなければ、きっと俺は酷い人間のまま。
いつか高校を卒業して、大学も卒業して、そして大人になった時。同窓会で会うことができたなら「久しぶり、桧垣。 俺を覚えてる?」と、声をかけよう。
だから絶対忘れない。
二度と、絶対、忘れない。
春だというのにまだ吐く息が白い、冬の残像が濃く残る地に、俺は履きなれない革靴で踏みしめる。
総代に指名されてしまったがために、大学の合格通知を貰ってから気が休まらない。
空々しい言葉は頭の中に入っている。だけど人前にでて話すということにはいつまでたっても慣れないし、目立ちたくはないし、そんな柄でもないんだけどもと恥ずかしさを隠すための誤魔化しの思考をぐるぐると巡らせる。でも恥ずかしい。
こういうときには生徒手帳。
パッと開けば物怖じしない瞳が俺を見返して『頑張って!』と励ましてくれる。
桧垣はいつの間にか俺の癒しになっている。
その時、丁度目の前に歩いていた女の子がものの見事にこけた。俺と同じ新入生らしく、着なれないスーツに履きなれていなさそうな高いヒール。あちこちもの珍しそうに見ていたから足元まで注意がいかなかったんだろうなって思ったときに気が付いた。
俺ってこんなに人を観察する人だっけ。
「いたたたた……」
こけた女の子が漏らした声色が、『頑張って!』と脳裏に響いた声と重なる。
まさか、そんな偶然。
髪の色も長さも、身長も、雰囲気だって違ってるけど……、でもやっぱりその子は擦り切れるほど開けた生徒手帳の彼女、桧垣だった。
高校三年生の春に突然俺の前からいなくなった、俺の大切な、人。
「……桧垣、大丈夫か」
思わず手を差し出したのはぽかんと口を開けて俺を見る桧垣の顔が可愛かったから。少しでも早く、その存在を確かめたかったから。
「……え? 渡会、くん」
「驚いたな、桧垣がここにいるなんて。でも嬉しい驚き、だろ?」
「渡会くん、私のことがわかるの?!」
「……ひどいなあ。ちゃんと覚えてるから」
覚えてるよ。
二度と忘れないよ。
だから、桧垣も俺のことを―――――――。
渡会くん、確か進学校のトップさんだったんですけれど、お莫迦さん。




