表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/20

ありがとうを何度でも

おばあちゃんと死神のお話。

☆死に関する話があります。苦手の方は回避してください。

 澪は年寄りになっていた。

 一日の疲れを取ろうとゆったりと湯船につかっていた時に、自分がいつのまにか年を取ってしまっていたことに遅ればせながら気が付いた。

 寛ぐために入った風呂で、何気なしにかき回し、手ですくっては平や指の間から零れ落ちるお湯が、急に自分の記憶のようだと考え付いたからたまらない。ぱちゃんと力強く湯を打ち付けて考えを打ち消したかったが目に飛び込んできたのは皺だらけの醜い手だ。打ち消すどころか老いを突きつけられた気持ちになった。

 いったいいつの頃からだろう、ついさっきのことが覚えられなくなったのは。

 澪はゆらゆらと揺らめく湯を手でさらにかき混ぜながら、まるで自分の頭の中のようだと自嘲した。



 夜、澪がベッドに入ると、必ず枕元に現れる人がいる。

 澪はそれを当たり前のように受け入れていた。

 手は常に小刻みに震え、足も思うようには動かず、もの覚えも悪くなった澪だったが、毎晩のように訪れるこの男のことは忘れない。


「こんばんは、死神さん。今日こそ私を連れて行ってくれるの?」


 たどたどしく紡ぐ言葉は、この世の未練など一片も感じさせないほどに明瞭だ。

 死神と呼ばれた男は毎夜繰り返される問いに笑みを漏らし、同じ答えを口にする。


「こんばんは、澪さん。まだ連れてはいけないかな。それよりも今日はいったい何をしてたの」


 本当のところ、この男がどこの誰なのか、澪は全く持ってわからなかった。

 気が付けば枕元に立っている男は、いつこの部屋に入ってきたのか、そしていつ部屋から出ていくのか澪は知ることはできない。幽霊じゃないかと疑ったこともあるが、足がないわけでも向こうが透けて見えるわけでもなく、たしかにここにいるのだと思える存在感が男にはある。

 それに優男風に伸ばされた前髪で普段は顔が隠れているが、時折前髪の隙間から覗く造形が優美なラインを描いていて、死神がとてつもない美丈夫だと知れる。幽霊なら死んでいるのだから美丈夫どころか血色も悪かろう。

 全く怖くも恐ろしくもない柔らかな物言いは、いつかどこかで聞いたような気もするが、いかんせん記憶が滑り落ちる澪のことだ、もしかしたら知り合いに似たような話し方をしている人がいたのかもしれないが、全く知らない人かもしれない。

 いやそれよりも澪という年寄りの枕元にこの優男のような若者がやってくること自体がおかしい。

 だから澪は夜に現れる男を死神と呼んでいる。

 実際そうであってほしいとも思っている。

 この世に未練などないのだから。


「今日もいつも通り朝起きて畑の面倒をみたらあっという間に時間がたっていましたよ。……そろそろ畑仕事もおしまいかもしれないけれどねえ」

「澪さん、何を言っているの。澪さんが作るさつまいもは本当に甘くて美味しいよ。だからぜひとも来年も作ってほしいなあ」

「あれ、死神さん。死神さんはいったいいつ私が育てた野菜を食べたの」


 夜しか来ない優男は、澪の前で何かを食べてたことはない。

 それに澪が作る野菜はご近所に配ることはあっても、死神がご近所に住んでいるわけではないのだから手に入れようがないはずだった。


「さあ、いつだったかな。でも澪さんが作るさつまいもと皮が厚いトマトは好きだったな」


 死神はどこか遠くを見るように呟くと、とてつもなく優しい眼差しで澪を見下ろした。死神のきゅっと上がった口元に、澪はどぎまぎとした。そろそろ足袋を裏返して旅に出なければいけないという頃合いだというのに年甲斐もないと恥ずかしくなり、死神の端正な顔から眼を背けた。


 それからは他愛のない世間話に花が咲く。

 死神がなぜと思わなくもない澪だったが、存外にこの時間を楽しんでいるので口にはしない。

 そしてうつらうつらと夢心地になりかけると、つい死神に手を伸ばしてしまう澪がいる。

 まだいてほしい。

 そばにいてほしい。

 愛した伴侶は子供が小さかったころに脳内出血であっけなく先立った。

 唯一の子供はとおの昔に家から巣立ち、新しい家族を得て幸せに暮らしている。

 残されたのは小さな農地と思い出が詰まった小さな家。

 一人暮らしの気安さは反面、訪ねてくるものがいなければ寂しさも募る。

 無意識に縋ってしまう愚かさに、澪は気づくことはない。

 けれど伸ばされた手は如実に物語っている。

 だが。

 その手は何に触れることなく空を切る。

 たしかに死神の手に当たるはずの距離感だというのに、澪は死神に触れることができない。

 澪のしわくちゃな手はいつも死神の血管が浮き出るまっすぐな手をすり抜けてしまう。

 そうして、はっと気が付くのだ。

 自分が今何をしようとしていたのかを。


「私に触れることはできないよ」

「おかしいわねえ。ここにちゃんといるのに捕まえられないなんて、テレビの俳優さんみたいねえ」


 それに触れないなら物も食べれないんじゃないのかねえと己の愚かしさを隠すために冗談めかして言うと、死神は淋しそうにほほ笑んだ。




 次の日も死神は枕元に立った。

 澪は当たり前のように受け入れる。

 そしていつものように優しい時間を過ごした後、手を伸ばす。

 死神は淋し気だ。


 その次の日も死神はやってきた。

 少し調子が悪かった澪は、死神にあまり近寄らないようにと頼んだが、死神は首を縦には振らない。

 結局いつものようにゆっくりとした時間の流れに身を任せた後、澪はおずおずと手を伸ばした。

 死神は空を掴む手を悲しんだ。


 そうして幾日も同じ時間を過ごした澪と死神だったが、ある日とうとう澪の手が死神の手に触れることとなった。 

 こつんと当たった手に驚いたのは澪だ。

 一瞬鋭くなった瞳を隠すように瞬きした死神は、骨と皮だけになった澪の手を愛おしげに手に取り摩る。

 その時だ。

 失ったはずの記憶がまるで写真を見せられるようにつぎつぎと鮮明に映し出され、澪の心にもどってきたのは。

 その中で澪は赤子だった。母を探して泣く子供だった。近所の子供と一緒に野山を駆け回っていた。一張羅をきて百貨店に買い物に行った。車に乗った時はあまりの気持ちの悪さに嘔吐した。兄弟が多く下から数えたほうが早かった澪は高校に通わせてもらえるとは思わなかった。そして成績が良く大学に行けるとも思わなかった。そして。

 そこで死神と出会ったのだ。 

 手を繋ぐこともできない初心な二人は、そのまま結婚をし、子宝に恵まれ、そうして死が二人を分かつまでの数年を愛し合った。


「―――――あ、あ、あなた……」


 澪は愛し合った人の手から伝わる温もりに喜び、むせび泣いた。


「あなたがいなくなった後は、それはそれは大変でした。あの時代、母子で生きるには辛すぎました。父なし子となった息子は石を投げられ蔑まれましたが、私を労わる優しい子に育ちました。なんとか大学までやれたときは涙が止まりませんでした。そして就職をした先で見つけたきた素晴らしいお嬢さんと家庭を築きました。優しいお嫁さんは私のことをとてもよく面倒を見てくれましたが、二人の生活を楽しみなさいと家を出してからは寂しくて寂しくて、生まれた赤子の写真が大変な慰めとなりました。ああ、そしてなんとうことでしょう。あなたに会えるなんて。これほどの喜びはもうないことでしょう」


 死神を掴む澪の手からは、いつのまにか皺も老人斑もなくなり、肉のついた柔らかい手になっていた。薄くて白いばさばさの髪は艶のある黒髪に、呂律もまわり、声も数段高くなった。なにより動けなくなった体がとてつもなく軽くなり、このまま踊りだせそうだった。


「澪さん、綺麗だ」


 死神は丸みを帯びた澪の真っ白い頬を両手で挟み込むと、ぷっくりとした唇にちょんと自分の唇を合わせ、はむ。

 それは愛された時代の二人の時間を思い起こさせる仕草だ。

 死神はやはり、と澪は心を躍らせた。

 そこから二人は互いの瞳を煌めかせると、手のひらを合わせて指をからめ、どこからか差し込んできた光に向かって仲良く歩き始めた。

 澪の顔は、喜びで溢れていた。





「おばあちゃん。本当によい顔だね」


 亡き父にそっくりだといわれる息子が、母の冷たい手を握りながらつぶやいた。

 できるだけ家族が傍にと、ホームからの連絡が入った最後の一週間、息子と嫁と三人交代で詰めた部屋で、母が一番微笑んでいたのは息子の番だった。

 息子が傍にいるときは、私や嫁が傍にいるときよりも数段穏やかで優しい顔つきになった。

 きっと意識がないにしても亡き父を思い、感じていたのだろう。

 母子二人の生活でどれほど母が苦労をして私を育ててくれたのかと思うと、晩年少しは返すことができたのかと自問するも、答えはない。

 今迄で一番穏やかで幸せそうに微笑む母に多少は報いることができたのか。


 ただ、今は小さな白い箱に入ってしまった大切な母に、ありがとうの言葉を何度でも捧げよう。




文学か恋愛か。それが問題。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ