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その記憶の片隅に

 私には大好きな人がいます。

 大好きだなんて陳腐でありふれた言葉では言い表せないほど、大切な人です。

 どうしてその人が大切な人になったのかなんて、わかりません。

 いつの間にかその人は私の心に住み着いて、寝ても覚めても私の心から離れません。

 でもその人は私のことを覚えていません。

 いいえ、少しは覚えているのかもしれませんが、それは決して私ではありません。

 その人は、私という個人を覚えているのではなく、私と共有したその場面を覚えているだけなのです。


 例えば、休み時間の度に教室の片隅で本を広げている女の子がいたとします。

 その前の席に座ろうとしたその人が、その広げている本をたまたま知っていたとしてその女の子に話しかけようとします。

 ―――――あれ、そういやお前の名前、なんだっけ。

 その女の子に話しかけるたび、同じようなやり取りをしているというのに、その人は卒業するまでその子に話しかけるときは必ず名前を聞くのです。

 そうして、卒業した後、同窓会でたまたま本を読んでいた女の子の話題になったところで、その人は言いました。

 ―――――あれ、そういやそんな子いたなあ。名前わかんないけど。


 その時の場面は覚えていたとしても、顔も名前も曖昧な女の子。

 同じ教室にいたときですら、名前を覚えてもらっていなかった女の子。


 つまりは、彼にとって私は記憶の片隅にも覚えている価値のない人間だったということです。


 だから私は決めました。

 顔も名も覚えてもらえないほどの無価値な私ですけれど、せめて一つくらい私を記憶してもらおうと。

 できれば名前がいいかなあ。

 それとも顔のほうがいいんだろうか。

 せめて私という存在が傍にいたことを、誰に言われてからではなく自分で記憶の蓋を開けたときに思い出せてもらえるようになろう。

 私、頑張ることにします。




渡会(わたらい)くん! 一緒に帰ろう」


 彼と同じ高校に入れたことは私にとればラッキーでした。

 なにせ渡会 景虎くんはとても頭がいいのです。

 人の名前をあれほど記憶しない彼だというのに、どうして頭脳は明晰なんでしょうか。

 いえ、頭脳が明晰すぎて、自分に不要だと思っていることにその許容量を埋めることなどできないのでしょう。

 もちろん渡会くんが通う高校は県下一の進学校で彼は学年一位、かたや絶対受からないと太鼓判を押されたくせになぜか受かった私はほぼ底辺の人間ですから授業についていくだけで必死。部活なんてしている暇などなく、放課後はその日の復習と塾で一日が終わりますが、渡会くんは剣道部で活躍し、たまに朝の集会で表彰されることもあります。人間ここまで違うと妬みやひがみなんてものはありません。いえ、それ以前に私は中学生のころから渡会くんに恋心を抱いてるわけですから、尊敬のまなざしは惜しみなく送っておりますが。


「え? ……ええっと……い、石垣さん?」


 ちっ、惜しい。


「はずれ。桧垣(ひがき)です。桧垣 (えむ)

「……あ、ああ、うん。桧垣さん」

「はいはい、桧垣です。一緒に帰ろう?」

「ええっと……なんで?」


 高校二年生の春。

 学年トップの彼と学年最下位な私が同じクラスになれたのも、何かの運命だと思います。

 ここで頑張らずにいつ頑張るというのでしょう。

 始業式の朝、校門の後ろに張り出されたクラス一覧表を見たときに、決めたのです。

 この一年で彼に私を覚えてもらおう。

 中学の時は三年間同じクラスだったというのに顔も名前も覚えてもらわれず、そこにそういう子がいたという認識しかしてもらえなかったあの屈辱を今年こそ払拭して、顔も名前も覚えてもらうのです。


「私を覚えてもらいたいからです!」

「……はあ」

「ですから一緒に帰りましょう!」


 呆れたような顔で見られました。

 ちょっと涙がでそうになりました。

 なにせ今日は金曜日。

 月曜からずっと一緒に帰っているというのにいまだに名前を覚えてもらえず、いまだに同じ質問をされるのです。

 部活に入っていない私は図書館でその日の復習をしながら渡会くんが部活を終えるまで待っています。

 地道に努力しているつもりなんですが、そんなことは渡会くんには関係ないことですし知りようもないことです。

 ですが少しは覚えてくれてもいいんじゃないかなー。

 似たような名前を覚えているようですのであと少しでしょうかね。


 なんとか一緒に並んで歩き始めると、とりあえずの話題に中学校のことを話します。

 渡会くんはあまり中学のことを覚えていないようなのです。

 きっとそれはもう渡会くんの中では必要じゃなくなったことなんだと思うと少し悲しいですが、私はたった一年前の鮮明に覚えている出来事を渡会くんに話して聞かせています。

 すると誰がどうしたとは覚えていないのですが、どうしたという部分に反応していろいろ思い出すようです。

 校門の前の桜が一本だけ校舎の日陰に入っているからいつもその桜だけは開花が遅いというと、ああそういえばそうだった、たしか誰かがそれで入学式の写真の撮り直ししてなかったっけと思い出しましたし、そしてその取り直しした子が結局のところ入学式と書かれた看板がなかったから意味がないと嘆いていたことも思い出したようでした。

 運動会では一番奥まったところで走高跳をしていたので誰も応援してくれなかったんだというと、ああそういえばそうだった、だけど決勝だけは放送がかかってみんな観ていたと思う、ええと、……垣は決勝にでてたっけ?と人の名前を微妙に言わないことで難を逃れようとしていましたが、聞きのがしません。「桧垣。桧垣だから!」と突っ込みをいれれば、ああそうだそうだったと笑ってごまかされました。くそう。

 こうしていろんなことを少しずつ話しては懐かしみ(といっても懐かしむほどの歳月が流れているとは到底思えませんが)、そうして話した分だけ渡会くんに近づければいいなと思うのです。名前は覚えてもらいますけれども。



 そうして過ごした一年間。

 さすがにしつこく一緒に帰ったせいか、渡会くんは私の名前を憶えてくれたようでした。


「桧垣。お前の根性には参った」

「うんうん、参りたまえ。私だってやるときにはやるんだから」


 渡会くんは苦笑い。

 なにせクラスの女子の中で名前と顔を覚えられたのは私と学級委員をしている子だけですから。

 その時に気が付きました。

 もしかして学級委員に立候補していれば渡会くんに簡単に覚えられて『渡会のストーカー』などと言われなくて済んだのではないでしょうか。 

 間抜けな自分を呪いましたが後の祭り。

 クラスではすっかり定着した二つ名です、もう取り返しはつきません。

 渡会くんはかわいそうな子を見るような慈愛のこもった瞳を私に向けてきました。

 ちがうもん、かわいそうじゃないやい。

 そうは思っているのですが、渡会くんのごっつい手がぽんぽんと頭を叩くのは気持ちが良かったので言えませんでした。



 そうして迎えた新年度。

 私は真新しい制服に包まれて、編入試験の時に一度だけ訪れた校舎に足を踏み入れました。

 始業式の朝、クラス替えの掲示を見ることもなく、見知らぬ人たちの中に入ることになりました。

 私は親の転勤に伴って転校をしたのです。

 全く知らない土地で、全く違う言葉を話す人たちと一緒に、これから過ごしていくことになったのです。


 せっかく覚えてもらったのに。

 きっともう、渡会くんは、私のことを忘れてる。


 やっと覚えてもらったばかりでしたから、今度中学校の同窓会があったとしても、もう彼は覚えてはいないでしょう。

 一年間の努力は、結局いったいなんだったのでしょうか。

 いえ、最後に名前を呼んでもらえただけでも、満足しなければいけないですよね。

 中学校の三年間で成し遂げなかったことを、高校の一年間で叶えることができたのですから。

 ですから、この涙はうれし涙なのです。





 高校最後の一年間、私は渡会くんのことを忘れようと努力しました。

 なにもしなかったらぐしぐしと悩むのはわかっていたので、それこそ今までにないほど勉強に明け暮れました。というか、編入した高校も結構な進学校だったのでそれはそれは追いつくのに必死でした。それが功をせいしたのか、希望する大学に合格したときは文字通り飛び上がって喜びました。

 そして迎えた大学の入学式。

 以前住んでいたところとも、今家族が住んでいるところとも全く違う新しい土地で、新たな気持ちで挑んでいこうと決めました。

 だから、これは予定外。


「桧垣、大丈夫か」


 慣れないヒールにこけた私の目の前に差し出された手の持ち主が、誰も知らないはずの私の名前を呼びました。

 とても懐かしい声で。


「……え? 渡会、くん」

「驚いたな、桧垣がここにいるなんて。でも嬉しい驚き、だろ?」

「渡会くん、私のことがわかるの?!」

「……ひどいなあ。ちゃんと覚えてるから」


 一年間の間に随分と大人びたように見えるのは私の気のせいでしょうか。

 けれどもその苦笑の仕方は一年間では変わりようがないようで、とても、とても懐かしい。

 覚えてる、その言葉がどれほど嬉しいのか、きっと彼にはわからないでしょう。

 でもあの頃のように、これからひとつずつ彼に伝えればいいのです。


 そして私は差し出された手を取り、立ち上がりました。


短編掲載日:2013年 11月04日 21時40分

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