第三話
2話の続きです
---その夜---
「ただいま帰りました……」
タムラとマリアが学園に迎えに行って、二人に寄り添われレイチェルが車から降りると、心配そうに玄関の前で待っていた祖母に帰宅の挨拶をした。
「レイチェル、大丈夫なの?今、お医者様を呼ぶわね」
目を赤く腫らしてているレイチェルを見て祖母が尋ねた。
「いえ、もう大丈夫です……ご心配を、お掛けしました……」
「そうなの?本当に大丈夫?……」
「はい……」
心配する祖母に暗い表情で返事をすると、レイチェルは家の中に入って行った。
「あっ、レイチェル……」
祖母が呼び止めると、レイチェルは自分の部屋へと走って行った。
「どうしたのかしら、あの子……」
心配そうにレイチェルを見送った祖母が振り返り、
「マリア、先生は何か仰っていて?」と、尋ねた。
「いえ、特には仰っていませんでしたわ。軽い貧血で暫く休まれていらっしゃったそうで、お向かえに上がりました時には、良くなられていたみたいです」
「そう……」
祖母はレイチェルが回復している事を聞いて、安心した笑顔を浮かべた。
「ご苦労様」
「失礼します」
マリアが祖母に一礼をして家の中に入って行くと、
「タムラ、何か聞いていない?まさか……ケイトという子と何かあったのかしら」と、祖母は眉をしかめながら尋ねた。
「申し訳ありません、私は何も聞き及んでおりません」
「そう……」
タムラからケイトの事を聞いていた祖母は、レイチェルの様子を見て不安になり「やはり、早く何か手を打つべきだったかしら……」と、後悔した。
夕食の時間、マリアがレイチェルを呼びに来た。
「お嬢様、お食事の用意が出来ましたわよ」
「……」
返事が無い部屋に向かって、
「お嬢様、いらっしゃいますの?」と、問いかけた。
「ごめんなさい……今は食べたく無いので……」
中から帰って来た小さな声に、
「いけませんわ、お嬢様。お食事はちゃんと取らないと」と、マリアが優しく諭す様に言った。
「ごめんなさい……後で行きます」
レイチェルの返事を聞いて、マリアは小さな溜息を一つついて、
「お待ちしております」と、静かに言ってその場を離れた。
ダイニングに戻り、レイチェルの様子をマリアが報告すると、
「まぁ、そうなの……」と、祖母は顔を曇らせる。
益々心配になって来た祖母は、
「いいわ、私が行きます」と言って、レイチェルの部屋に向かった。
レイチェルの部屋の前で、
「レイチェル入るわよ」と言って、祖母はレイチェルの部屋に入って行った。
電機の点いていない部屋は暗く、静かだった。
レースのカーテンが掛かった出窓から、庭の照明が僅かに射し込んでいる暗い部屋の中を見渡すと、レイチェルがベッドにうつ伏せになって寝ているのを見つけ、
「大丈夫なの?明かり、付けるわよ」と、照明を付けてレイチェルの方に向かう。
「本当に、どうしたの?まだ気分が悪いの?」
問い掛けても、ただ黙ってベッドに寝ているレイチェルを見て、何かあった事を確信した祖母は、更にレイチェルを傷付けてしまわないかと尋ねる事を躊躇っていたが、
「……学校で何かあったの?」と、思い切って尋ねてみた。
尋ねても、黙ったままのレイチェルを見て更に心配が膨らみ、
「……ケイトさんと何かあったの?」と、一番確かめたい事を尋ねた。
その言葉にぴくっと反応してから、ゆっくりと起き上がると、
「どうしましょう、お婆様……私……私、ケイトに嫌われて・し・まっ・た・の」と、言葉が終わらない内に両手で顔を覆ってレイチェルは大きな声で泣き出してしまった。
「まぁ……レイチェル……」
大きな声で泣いているレイチェルに驚きながら、祖母は優しくレイチェルを抱き寄せ「この子が、こんなに激しく感情を出すなんて……」と、祖母は戸惑っていた。
腕の中で、大きくしゃくり上げながら声を上げて泣いているレイチェルを見て「そう、何時もこの子は、躾の厳しい母親のせいもあって、感情を強く表す事が無かったのに……だけど今、私の腕の中で震えながら大きな声で泣いているこの子は……」と思いながら、レイチェルを強く抱きしめた。
そして「思っていた通り、ケイトが原因なのね……」と、内心掻き乱される思いを押さえ付けて、
「ケイトさんと喧嘩したの?」と、優しく尋ねた。
レイチェルはその言葉を聞くと、直ぐに泣き止み、祖母の腕の中で首を横に振る。
そして、徐にレイチェルは顔を上げて、
「私ね、ケイトに励まされたの。でも、どうしても上手く歌えなくて、自分でどうしたら良いか解らなくて、がんばったのに、何時までも上手になれなくて、ケイトが、諦めないでって言ってくれたのに、私、出来ないって言ってしまって、一緒にやって行きたいのに、だから、だから、私、どうして良いのか分からなくて……」
すんすんと、しゃくり上げながら今日の昼休みにあった事を説明をしたが、それは意味不明の支離滅裂な説明になっていた。
理解に苦しみ途方に暮れた祖母は、苦笑いをしながら、
「いいわ、レイチェル。少し落ち着きましょうね。そして、順番に話してくれる」と、レイチェルの頭を撫でた。
「はい……」
祖母の提案にレイチェルは小さく頷いて祖母の隣に座りなおすと、一通り時系列に沿って説明し始めた。
長かった。
レイチェルの話は、中学舎初日、メイが合唱部に誘った所から始まったからだ。
そして二時間かかって、やっと今日の昼休みの話に辿り着つき、祖母は可愛い孫のために食事も取らずに長い話を微笑みながら黙って聴いていたが、かなり疲れた。
しかし、二時間半我慢した甲斐もあって、
「そうなの……ケイトさんと、そんな事があったの……」と、何とかレイチェルが泣いている原因が理解出来てケイトへの不信感が和らぎ、内気だったレイチェルに初めて感情をぶつける事の出来る相手が出来た事を知った。
「ケイトさんは、好い子ね」
微笑んでいる祖母に、レイチェルがこくりと頷く。
「あなた、幸せよ。そんな良いお友達が出来て」
「でも、私がいると、迷惑だから……」
祖母から目を逸らしてレイチェルが小さな声で言うと、
「良いじゃない、お友達なんですもの。迷惑掛けても」と、祖母がにこやかに言った。
「えっ?」
祖母の言葉に驚いて、レイチェルが再び祖母を見ると、
「それがお友達よ」と、祖母は静かにレイチェルを見ながら言った。
「いい事、お友達として一緒に歩いて行こうとすれば、遅い人は早く歩こうと努力する。早い人は少しゆっくりと控えて歩く。お互いの事を思って歩いて行く、それが友達じゃないの?」
「でも……」
「レイチェル、人はそれぞれに良い所と悪い所があるわ。それをお互いに相手の事を理解して許し合うの。それが友達だから」
レイチェルは、じっと祖母を見ている。
「そしてね、助け合って行くのよ。それはね、けっして嫌な事でも迷惑な事でも無いのよ。だって、一緒に居たいから……だから友達と呼べるのよ」
優しい微笑を浮かべながら祖母がレイチェルの目を見詰め、
「ケイトさんと一緒に合唱部を続けたいのでしょ?」と、尋ねると、レイチェルは大きく頷いた。
「だったら、諦めちゃだめ。ケイトさんの仰る通りよ。諦めたら其処で総てが終わるわ……あなたが、皆と……ケイトさんとお友達でいたいのなら、諦めないで」
「でも、私……私、ケイトに嫌われてしまった……」
「大丈夫よ。嫌ったりなんかしてないわ」
「本当に?」
「ええ、本当よ。だって貴方の事を思って一生懸命になってくれているのよ。嫌ったりしないわよ」
其処まで言って、祖母は急に真剣な顔になり、
「でもね、ケイトさんが励ましてくれているのに、それに答えず弱虫のレイチェルが諦めたら、どうかしらね?」
「あ……」
「明日ちゃんと誤りなさい。きっと許してくれるわ。だから、あなたも焦らずに、諦め無いでがんばりなさい」
力強く励ます祖母の言葉を聞くと、
「はい」と、返事をしてレイチェルは静かに祖母の胸に顔を埋めた。
---一方ケイトの場合---
「あれ、ケイトは?」
父親が帰って来ると、何時もリビングで雑誌を読んでいるケイトがいない事に気付く。
「うん……ああ、ちょっとね。あっ、ご飯食べた?」
「うん、食べて来た……って、おい、ちょっとって何だよ」
「貧血起こして早退して帰ってから、部屋に閉じこもっちゃってさぁ……返って来た時、泣いてたもんなぁ」
テレビを見ながら他人事の様に話す母親に、
「おいっ!泣いてたってなんだよ!ただ事じゃねぇだろうが!」と、父親が慌てて問いただす。
「まぁ、難しい年頃だからねぇ……なんかあったんだろ」
「なんかって……おい、まさか、男じゃないだろうな!おいっどうなんだ!」
大声で食って掛かる父親に、
「知らないよ、そんな事。ほっといてやりなよ」と、母親が鬱陶しそうに吐き捨てる。
「ほっとけるか!」
堪りかねてケイトの部屋に向かおうとする父親の腕をぐいっと掴んで、
「おまちよ!どうする気だい!」と、父親を制止する。
「どうするって、決まってんだろうが!ケイトに話聞くんだよ!」
腕を振り払おうとする父親を、母親は更に腕を強く引っ張りながら、
「止めときな!あんただって、あの年頃には親に知られたく無い事の一つや二つは有っただろうが!」と、怒鳴り付ける。
「うっ……そりゃぁ、そうだけど」
母親の言葉に勢いをそがれた父親が、
「だからって、ほっといて良いのかよ?」と、不満気に聞くと、
「いいんだよ」と、父親の心配を他所に、母親はあっさりと答えた。
「あの子は頭のいい子だよ。言わなきゃならない事があればちゃんと言うよ」
「そりゃそうだけど……だけど、お前、心配じゃねぇのかよ?」
「はっ!親なんてもんはね、子供の心配して老けて行くもんなんだよ!こんな程度で騒いでいたら、親なんてやってられるかぁ!」
「うっ……そ、そんなもんかなぁ……」
母親の迫力に押されケイトの部屋へ行く事を諦めたが、どうも納得出来ない父親は、腕を組んで心配そうにケイトの部屋の方を向いた。
一方ケイトは、部屋で机の前に座り頭を抱えて考えていた。
「あああぁ……どうして、あんな事言っちゃったのかなぁ……」
後悔の気持ちで胸が張り裂けそうだった。
大嫌いだとレイチェルに言った事を思い出し「レイチェルの事が大好きなのに、嫌われちゃったかなぁ……もう、話してくれないかなぁ……」と、悩んでいた。
ケイトは、学校から帰ってからずっと同じ事を繰り返し考えていた。
「ああぁぁ・・・どうしよう。どうしたらいいんだよおぉ?」
レイチェルの事を思い、熱くなっていた自分を思い出し「レイチェルが嫌だって言うんだったら、辞めさせてやれば良いじゃない。どうせクラスは一緒なんだから……私もやめれば良いことだし……それから別のクラブに一緒に入って……」と、今に成って冷静に考える。
でもそれは、ケイトの本心ではなかった。
ケイトは「でも、それで良いの?本当に、それで良いの?」と、自分の心に問い掛けると「嫌だ、そんなの嫌だ!そうよ、私はレイチェルと合唱部を一緒にやりたいのよ。そう、一緒に……」と、本当の自分が答えるが「なのに……」と、昼間の事を思い出し髪の毛を掻き毟りながら、
「あああぁ……どうして、あんな事言っちゃったのかなぁ……」と、繰り返していた。
そうこうする内に、窓の外が部屋の照明より明るい事に気付くと、
「えっ!もうこんな時間!」と、慌てて時計を見たケイトは驚いた。
そして急いで学校に行く準備をした。
---光の中で---
酷い顔だった。
一睡もしないで一晩中悩んでいたケイトの目の下には隈がくっきりと浮かんで、綺麗な艶のある黒髪も掻き毟っていたせいか寝癖の様に乱れくすんでいる。
更に、慌てて出て来たせいか結んだリボンタイの左右の大きさが違うと言う先生に見付かれば絶対にお小言を貰う格好で、ケイトは校門を少し入った所で立っていた。
まだ誰も登校して来ない時間ではあったが、早くに登校したのには理由があった。
レイチェルを待っているのだ。
レイチェルに会って誤りたい。
ケイトは「許してくれるかな……たとえ、許してくれなくても……謝らなきゃ……」と、朝早くから校門でレイチェルを待っている。
だかケイトには「あんな事を言っちゃったから……もしかして、レイチェルは私の話なんか、聞いてくれないかもしれない……」と言う不安が「もう、私なんかに会ってくれないかも……」と、膨らんで来た。
不安に押し潰されそうに成りながら下を向いてレイチェルを待っているケイト。
その姿は、小柄なケイトが更に小さく見えた。
生徒達が徐々に登校しだした頃、レイチェルも何時もより速い時間にやって来て、タムラがドアを開けると、酷い顔のレイチェルが降りて来た。
祖母に慰められた後、それでも不安で一晩中眠れないでいたレイチェルの綺麗な青い瞳の周りは赤くなり、更に目の周りは腫れぼったくなっていた。
レイチェルは無言でタムラから鞄を受け取ると、ぺこりっと頭を下げて校門へと向かって行く。
そんなレイチェルを心配そうに見送るタムラが、ある気配に気づいて振り返ると、そこにはケイトの家の運転手が立っていた。
タムラは一瞬、大男を睨んだが相手に敵意が無い事を察し表情を緩めた。
「何か、御用でしょうか?」
「あの……すんません、いや、すみませんが……あの、昨日、家のお嬢と、いや、お嬢様と何かあったのでしょうか……」
遠慮気味に尋ねて来る運転手が何を言いたいのかと、タムラは暫く考えてから察して、
「当家のお嬢様と、ですか?」と、確認を取る様に問い返す。
話に答えてくれたタムラに大男は恐縮し、
「へい、いや、はい、昨日から、ケイトお嬢様の様子がおかしくて……何か知ってる、いや、ご存知無いかと思いまして」と、滑稽なぐらい腰の低い態度でタムラに尋ねた。
「そうでしたか、やはり、そちらのお嬢様と……」
嫌な予感が当たったのかと考えてから、
「当家のお嬢様も、昨日から酷く悲しんでおいでの様子で……ただ……何があったのかは、お聞きしておりません」と、大男にきつい目線を送る。
本来なら、家中の事は他人に軽々しく喋ったりしないタムラだったが、今回の件にケイトが絡んでいると知って、何か情報が得られないかと思い話す気になった。
「そうですか……」
「そちらの、お嬢様も悲しんでおいでなのですか?」
「解りません……が、昨日から一言も口を利いて貰えなくて……あんなケイトお嬢様は初めてで……あっしは……あっしは……心配で心配で……」と言うと、真っ黒なサングラスをぐいっと上げてスーツの袖を目に当てる。
その意外な光景に、タムラは暫く呆気に取られていた。
そして、この大男が見かけによらず素直な忠義者である事を知り、
「そうですか、それは、お互い心配ですねぇ……」と、タムラが呟いた。
校門へと近づくレイチェル。
ずっと下を向いて考え事をしていた。
許して貰えるだろうか……ケイトに。
不安だった。
レイチェルは、重い足取りで校門へと向いながら「私、ひどい事をしてしまった……せっかくケイトが励ましてくれたのに……」と、昨日の事が心に重く圧し掛かる。
そして、ケイトの泣いていた顔を思い出し「ケイトは、あんなに……あんなに……私の事を心配してくれていたのに……」と、胸を締め付ける痛みを感じた。
そんな事を考えながら校門へと差し掛かると、
「レイチェル」と、名前を呼ばれ、レイチェルは我に帰って顔を上げる。
「ケイト……」
目の前にケイトがいる事に気付かず、レイチェルは少し驚いた顔でケイトを見た。
目が合った瞬間、二人は恥かしそうに互いの目線を反らし、黙ったまま下を向いていた。
沈黙が続く中「何て言えば良いのよ……何から話せば良いのよ……」と、悩んでいた時、通学バスが到着した音を聞いてケイトが顔を上げる。
バスから降りて来る生徒達の気配を感じて、
「こっちに来て」と、ケイトはレイチェルの手を取ると小走りに走り出した。
レイチェルはケイトに引っ張られるままに付いて行く。
優しく引っ張る程度の感じで前を走るケイトを見て、小さなケイトが自分より早く足を動かしているのに気付き「でも、同じ速さで一緒に手を繋いで走っている……」と、レイチェルは昨夜祖母に聞いた話を思い出していた。
そして「そうね、一緒に走ってる……」と、今まで強く胸を締め付けていた痛みが少し、軟らかくなった事を感じた。
二人は、生徒達が通る道から少し離れた林の中に入り、十月桜の所までやって来た。
昨日と比べると、随分と花弁が散って地面を桜色に染めている桜の元に二人は向かい合って立っている。
暫くは、お互いの顔を見れずに黙って俯いていたが、
「ごめんなさい」と、ケイトが意を決して話し出した。
「私ね、あの時どうかしてたの……ごめんなさい。レイチェルの事、嫌いだなんて、そんな……そんな事、絶対に思ってないよ。思ってないよ。だから、だから……許して、お願い」
ケイトは一気にレイチェルに向かって話すと、また下を向いてしまった。
レイチェルはケイトの言葉を聞くと、今まで胸を締め付けていた痛みが嘘の様に消えた。
そして、先程までの痛みとは違う何かが、そう、暖かい何かが胸に込み上げて来た。
暖かい物に包まれながら「がんばれ、私……」と、自分を励まし、
「いいえ、ケイト……謝らなくては成らないのは私の方だわ……」と、レイチェルはケイトの目を真っ直ぐに見詰た。
「ごめんなさい、ケイト。ケイトがあんなに心配してくれたのに……あんなに励ましてくれたのに……私……私、弱虫で……どうかお願い、私を嫌いに成らないで」
「そんな、嫌いに成るわけ無いじゃない!」
レイチェルの言葉に即座に反応してケイトが答えると、レイチェルは笑顔に少し涙を浮かべながら、
「諦めないから……私、諦めないから。強くなるから。ずっとケイトと一緒に歩いていけるようにがんばるから……ケイトと一緒なら頑張れるから」と、ケイトの目を見て言った。
「レイチェル……」
レイチェルの言葉を聞いてケイトは笑顔を咲かせ、持っていた鞄を落としレイチェルの両手を取ると、レイチェルも鞄を落としてケイトの手を強く握り、二人は見詰め合った。
「好きだよレイチェル。大好きだよ」
「私も大好きよ」
ケイトはレイチェルの言葉を聞くと、安心した安らいだ笑顔を浮かべ、そっとレイチェルの肩に額を付ける。
レイチェルも微笑を浮かべながら、自分の肩に寄り添うケイトの頭にそっと頬を寄せる。 両手を、お互いの胸の前で握り合いながら優しい時間が過ぎて行く。
初秋の柔らかい木漏れ日が二人を包んでいる。
そして、この時間が何時までも何時までも続く事を二人は祈った。
「そこのぉお二人さぁん。仲良くぅするのは良いけどぉ、授業が始まるわよぉ」
幸せな時間に陶酔していた二人が、突然の声に驚き慌てて顔を上げると、副顧問のオコナー先生が立っていた。
授業が始まる時間だと気付いた二人は、
「あっいけない!」と、慌てて鞄を拾い上げると、教室に向かい走り出す。
途中、律儀にレイチェルは立ち止まり、オコナー先生に向かいぺこりっと礼をした時、
「あら、ケイトぉ。ネクタイをぉ整えなさい」と、ケイトのネクタイに気付いて注意した。
「あっ、すみません……」
ケイトは慌てて立ち止まりネクタイを外すと、レイチェルがそっと手を伸ばして、
「かして……」と、ケイトのネクタイを受け取って結んであげた。
「これで、いいわ」
ケイトのネクタイを見て満足そうに微笑むレイチェルの顔を見て、
「あ、ありがとう……」と、少し頬を染めながらケイトが礼を言った。
そして二人は、オコナー先生に振向き、
「ありがとうございました」と、礼をすると、レイチェルと一緒に再び駆け出した。
笑顔で、駆けて行く二人を見守りながらオコナー先生は、
「仲直りぃ出来たんだぁ……」と、笑顔で呟いた。
---放課後---
遅刻してやって来た二人に、昨日早退した事を心配して、皆が休み時間に色々と質問して来たが「ごめんなさい」「ありがとう」「もう、大丈夫よ」で交わしていた。
「解決したのね」
「うん、ありがとう」
皆がいる中、ケイトにそっと耳打ちするメイに、ケイトははにかみながら礼を言った。
放課後、メイの後を笑顔で話しながら音楽室に向かう行列が、音楽室の前に到着してメイがドアを開けると、目の前に怖そうなマクドウエル先生が、どおぉん!と、言う感じで立っていた。
思わず、みんな身を引いて、
「ごっ、ご、ごきげんようマクドウエル先生」と、メイさえも少し慌てた。
「ごきげんよう。レイチェルはどなた」
メイ達の慌てる様子にお構い無しに、マクドウエル先生が冷静な声で尋ねると、皆が一斉にレイチェルの方を見て、
「私です」と、少し手を上げてレイチェルが答える。
状況が見えないケイトは、マクドウエル先生とレイチェルを交互に見ながら「なに、なに、何があったの?」と、戸惑っている。
「こちらへいらっしゃい」
マクドウエル先生は、突然の事に不安な顔をしているレイチェルの腕を掴んで教室の後ろへと連れて行った。
「あ、レイチェル……」
ケイトは何が起きるのか解らずに、不安な気持ちで連れて行かれるレイチェルを見送った。
オコナー先生は、発声の練習と地区大会で発表する曲を練習するようにと告げると、マクドウエル先生とレイチェルが居る教室の後ろへと向かった。
一年生の皆は、何が始まるのかと不安な気持ちの中、練習を始めた。
レイチェルの事が気になり「どうしたのよ……まさかレイチェル、上手くならないからって辞めさせるんじゃ無いわよね」と、ケイトは練習等上の空で不安な気持ちが膨らんで行く。
教室の後ろでオコナー先生が、
「今日ぉ、遅刻したでしょぉ」と、押っ取りとした微笑を浮かべてレイチェルに話しかけた。
「すみません……」
レイチェルが恥ずかしそうに答えるのを、マクドウエル先生は「まぁ!」と、言う顔で見た。
「レイチェル、あのねぇ私、昨日の事ぉ全部見ちゃったのよぉ。ケイトがいてぇあなたがぁ泣いてる所をぉ」
オコナー先生の言葉が終わらない内にレイチェルの顔が真っ赤に染まって行って、
「あの、あの、私……」と、レイチェルは焦った。
「大丈夫よぉ誰にも言わないわよぉ……あっ、御免なさぁい、マクドウエル先生にはぁ話しちゃったぁ」
おちゃめに舌をぺろっと出すオコナー先生の言葉を聞いて、
「ええぇぇ……」と、更に顔を赤くしてレイチェルはマクドウエル先生の方を見た。
「だからぁ、貴方を応援したいのぉ、暫く特訓しましょうかぁ?」
「特訓、ですか?……」
不安そうに聞き返すレイチェルに、
「では、オコナー先生、始めましょう」と、マクドウエル先生が冷静に言った。
音楽室の奥で何が起きているのか分からないケイト達は、練習をしながらレイチェルの方を心配そうに見ていた。
不安そうにオコナー先生とマクドウエル先生を見ているレイチェルを見て「嫌よ、レイチェルを辞めさせるなんて、そんなの絶対に嫌よ!」と、完全に勘違いの心配が膨らんで「レイチェルを辞めさせるんなら、私も辞めてやる!」と、先走って怒りが湧いて来た。
「耳に手のひらを当てて、自分の声をよく聞くの」
音楽室の後ろでは、皆の心配を他所にレイチェルの個別指導が行われていた。
「ほら、解るでしょ。声の感じが」
「はい」
二人の先生に挟まれ発声の練習を始め出したレイチェルを見て「あれ?}と、想像していた事と状況が違う事にケイトが気付いた。
一年生の練習時間が終わりに近付いた時、二人の先生が教室の前へとやって来た。
それに続いてレイチェルも皆の所へと戻って来た。
「それではぁ皆さぁん。これからぁ私とマクドウエル先生はぁ上級生の練習でぇホールへ向いますぅ」
「ありがとうございました」
皆が一斉に挨拶すると二人の先生は音楽室を後にした。
音楽室を出て、
「すみませぇん、地区大会がぁ近付いた大変な時にぃお願いしてぇ……」と、オコナー先生がマクドウエル先生に申し訳無さそうに頭を下げる。
「そうね、今はとても大事な時ね」
「申し訳ありませぇん、三年生のご指導で忙しいのにぃ……一年生はぁみんな少しづつ上達しているのですがぁ、レイチェルは少し遅いようでぇ……すみませぇん、私のぉ指導がぁ行き届かなくてぇ」
「ふっ、そうじゃないわよキャリー」
頭を下げるオコナー先生に、マクドウエル先生が立ち止まって声を掛ける。
「キャリー……貴方が誤る事は無いわ、貴方は良くやってますよ」
微笑みながらオコナー先生を見て、
「あの子にとって大事な時という意味よ」と、マクドウエル先生が言った。
「あ、あの……」
「ごめんなさいね。三年生の指導が忙しくて、貴方に任せっ切りにして」
「あ、いえ……」
微笑んでいるマクドウエル先生の顔を見て、オコナー先生も安心した様に微笑んだ。
「それにね、貴方から話を聞いて……ふふふ……」
話の途中で、楽しそうに笑うマクドウエル先生を不思議そうに見ながら、
「……どうかぁなさいましてぇ?」と、不思議そうにオコナー先生が尋ねた。
「ええ、私が教育実習で、この学園に来た時の貴方そっくりね、あの子」
「え、ええぇ……」
急な昔話にオコナー先生は顔を真っ赤にした。
「ほんと……でも、嬉しいじゃない?」
「何がですかぁ」
「貴方みたいに、熱心な生徒がいることが」
微笑んでいるマクドウエル先生の言葉に照れながら頷いて、
「ええ、はい先生……」と、オコナー先生も微笑んだ。
「だから、ちゃんと支えてあげないとね」
微笑みながらウインクするマクドウエル先生を見て、
「はい」と、オコナー先生は嬉しそうに返事をした。
一方、音楽室では、皆がレイチェルを取り囲み事情聴衆をしている。
「それでね、暫くの間はマクドウエル先生に、ご指導いただく事になって」
「まあぁ、そうなの……」
微笑みながら話すレイチェルを見て、ケイトは安心して胸を撫で下ろす。
「レイチェル、頑張ってね」
「ええ、頑張るわ」
皆に励まされ、微笑んでいるレイチェルを見て「よかったぁ、これからもレイチェルと一緒だ」と、ケイトは安心した。
自分達の練習が終わって、一年生の皆とホールの片付けに向うケイトとレイチェル。
「えぇぇー!見られていたの!」
ケイトの大声に「しっ!」と、言う仕草を慌ててするレイチェルを見て、ケイトは既に遅いが慌てて両手で口を押さえる。
「オコナー先生が仰ってたの……それでね、その事をマクドウエル先生にもご相談されたみたいで……」と、小さな声でレイチェルはケイトに顔を寄せて耳打ちした。
「じゃ……マクドウエル先生もご存知なの……えっと、その、あの、昨日の事……」
顔を赤くして焦り気味に尋ねるケイトに、レイチェルも顔を赤くして、こくっと頷く。
ケイトは昨日大泣きした現場を見られた事を知って「それは……恥ずかしい……恥かしいようぅ!二人共あんなに大泣きしてた所を、二人の先生に知られたなんて……ああ、どうしよう!」と、ケイトは更に顔を赤くした。
レイチェルはそんなケイトを見ながら、
「でも、お二人共とても優しい方で良かったわ」と、微笑んで言った。
屈託無く微笑むレイチェルを見て「良くない良くない!それと、これとは話が別だよレイチェル!」と、ケイトは思った。
そして二人は、真っ赤になった顔をお互いに見合わせ「くすっ」と笑った。
---地区大会---
地区大会が開催される日、日曜日の朝早くスクールバスでケイト達は会場に向かった。
一年生達が座っている箇所は、まるでお葬式の様に静まり返っていた。
普通この年頃の少女達が集まると、止め処無くおしゃべりが永遠に続くものだが、皆がちがちに緊張していて誰もおしゃべりをしようとしない。
レイチェルの成長ぶりはと言うと、特訓の甲斐も有り、何とか皆の邪魔には成らない程度までには上達していた。
大したレベルでは無い物の、本人からすれば目覚しい成長である。
一行が会場に着くと、その大きさに一年生達は既に場の雰囲気に飲まれ益々固まった。
広い敷地には大きなホールが建っていて、広い駐車場には各校の参加者を乗せて来たバスが止めてあり、更に、見物の父兄達の乗用車が所狭しと並んでいる。
「うわっ……」
大勢の生徒と父兄の波を見て、ケイト達の顔は青ざめている。
「今年も、十二校が参加するみたいよ」
「そうですわねぇ、でもぉ、私達の時はぁ二十校ぐらいぃ参加してましたからぁ、少し寂しいですわねぇ」
「ええ、そうね。参加人数も、三学年で四五名のディオニシウスが一番多いんですもの、少し寂しいわね」
話しながら歩いて行く先生達の後を上級生達が楽しそうにおしゃべりしながら付いて行く。
その後を、重い足取りで苦悩を抱える表情で一年生達が付いて行く。
只一人、一年生の中でメイだけが何時もの調子でずんずんと歩いている。
建物の中に入ってマクドウエル先生とオコナー先生が参加手続きに向った。
生徒達は、一緒に来た中学舎の校長先生と一緒に控え室に向った。
「ふふふ、みんな緊張してるわね」
「大丈夫よ、頑張ってね」
緊張している一年生達に向って、三年生のシンディーとマチルダが声を掛けると、
「あ、ありがとうございます」と、上擦った声で一年生達が答えた。
各校に割り当てられた控え室に生徒達が入って行くと、平机とパイプ椅子が並べて有った。
其処からが下級生達が忙しくなる。
机を並べ替える者、机に持参したクッキー等を並べる者、給湯室からお湯を貰ってくる者、お茶の準備をする者と、ばたばたと動き出す。
机の上が準備出来ると三年生のお姉様方が席に着く。
「お湯、貰って来ました」
ケイトとレイチェルが大きなポットに入れて来たお湯で、二年生のお姉様がカップにお茶を注ぐ。
一通りの準備が済んだ頃、マクドウエル先生とオコナー先生が参加手続きを終えて控え室にやって来た。
「では、一年生は少し練習しましょうか」
「はい」
マクドウエル先生の後を付いて一年生達が建物の外へ出て行った。
外では、彼方此方で最後の練習をしているグループがいて、ケイト達も練習を始めるが、やはり緊張して思うように歌えない。
これで、此処の大ホールの舞台に立ったらどうなるかは、皆想像が付いた。
大会の一週間前から上級生達の練習が終わった後、一年生達が舞台慣れする為に学園のホールで練習しだした。
学園の舞台で初めて上級生全員のギャラリーの前で歌った時でさえ、歌い出すタイミングを間違える位緊張した。
此処では、更に大きなホールで多くの観客がいる前で歌うのだ。
正直、みんな逃げ出したい気持ちだった、が、メイだけは堂々としていた。
例外はともかく、青ざめて震えている一年生達を見て、
「ふぅ、毎年の事ね……」と、溜息混じりにマクドウエル先生が少し困った顔で呟いた。
箱入りのお嬢様達に、根性据えろとか、度胸を持て等と言う言葉は、まったく遠い世界の異次元の言葉で、まったく無縁の存在である。
「皆とても、酷い出来栄えねぇ」
マクドウエル先生が渋い笑顔を浮かべながら、一年生達の顔を眺めながら言うと、一年生全員が、しゅんと落ち込む。
「でも、それで良いわ。上級生も皆そうだったのよ」
微笑みながら話す先生の言葉を聞いて、ケイトは「言われて見ればそうだよな」と、思い「今、控え室でお茶を飲んでいる、上級生にも一年生の時が有ったんだよな、当然……て事は、優勝候補の三年生にも、がちがちに緊張した一年生の時があったんだ……たぶん……」と、考えていた。
「皆、良く聞いて。貴方達が緊張している事は知っているわ。でも、それは誰も助ける事が出来ないの。だから私も、あな達に歌を教える事しか出来ないの」
マクドウエル先生が微笑みながら話す言葉を、一年生達は真剣に聞いている。
「今の貴方達に気休めの言葉なんて効かないわ……だから、自分自身で、今日の自分を乗り越えないといけないの」
少し間を置いて、マクドウエル先生は続ける。
「上級生達も、乗り越えて来たから今日が有るの。だから、貴方達も、初めから自分自身に負けないでね」
マクドウエル先生の言葉は、小学校を卒業して間もない一年生達にとって、とても難しい事だった。
「いいこと、今日の自分を乗り越える為に、今日があるの。今日の経験が自分を乗り越える足がかりになるの。だから今日、舞台で泣きたい人は泣きなさい。震える人は震えなさい。だけど、最後まで歌いなさい。歌詞を間違っても、音程がずれても、声が詰まって出なくなった人も、出るようになってからでいいから最後まで歌いなさい。それが、経験だから」
力強く励ます先生の言葉を、一年生達は黙って聞いている。
「今日を、まだ経験していない貴方達には、私の話が理解出来ないかもしれないわね。それは、言葉だけでは伝えられない事だから……」
マクドウエル先生は、それでも良いと思っていた。
なぜなら、明日には今日を経験して一つ成長した皆が必ずいるのだから。
---初舞台---
舞台の袖で出番を待つ一年生達がいた。
参加一二校のうち、一年生チームを出すのは三校だ。
皆、緊張しているのが良く解る。
手を胸で組んでお祈りしている子や、ただ遠くを見なが震えている子等が居た。
レイチェルは、ずっと前からケイトの手を握って放さない。
ケイトはレイチェルの手を握りながら「レイチェル……震えている……」と感じて、レイチェルを励ましたかったが、自分自身がちがちに緊張していて励ます余裕なんか無かった。
そんな中、一人、堂々と腕を組んで開会式の様子を見ているメイを見つけて「あいつの神経が見れる物なら、一度見て見たい物ね。きっと、月を引っ張れるぐらいの太さがあるね……」と想像していた……どんなけ太いねん……
そんな事を考えているうちに、開会式も終わりコンペティションが始まった。
前座扱いの一年生チームから二年生チーム、そして三年生チームへとプログラムは進む。
ケイト達は、一年生の中では最後の三番目の出場で、くじ運の強い(?)オコナー先生に感謝した。
やはり、一番目の発表はどうしても嫌なものだ。
一番目の学校の歌が始まった。
始まる同時に「何なの?あの子達……」と、ケイトの大きな目が点になった。
舞台で歌っている一年生の歌声は、とても合唱とは言えるレベルでは無かった。
二十人の構成で歌っているが、半分は以前のレイチェルクラスである・・・いや、失敬。
歌にはなんとかなってはいるが、レイチェルさえも呆然と見て、ケイトの手を握る力も少し緩んで居た。
「まぁ……あんなものでしょうね」
舞台の様子を腕を組んだまま見ているメイの横から、
「でも、酷すぎない?」と、ケイトが尋ねる。
「普通はあんなものよ。私達のレベルが高いの、お解り?」
いつもの様に、傲慢と言えるぐらい自信たっぷりに話すメイに、
「あのねメイ……貴方のその自信はいったい何処から来ているのよ……出来ましたら、詳しく聞かせていただけないかしら」と、ケイトが嫌味半分で呆れながら聞いた。
「あら、分からないの?ケイト、良く考えて御覧なさい。入部以来、私達一年生の比較対照に成っていたのは、とてもお上手な上級生のお姉様方よ。お姉様方と比べられては、私達の歌なんて、自信を無くして当然だわ」
「あっ……」成る程と、ケイトは珍しく素直にメイの自論に納得した。
メイの自論を聞いて「確かにこいつの言う通りだ。今回は確かに理屈が通っている。検証出来る実例も目前で歌っているし……でもなぁ、だからと言って自慢出来る程のもんじゃないしなぁ、それに、大勢の前で歌うと言う事の解決には成って無いだろうが……」と、ケイトは思っていたが、皆はメイの話を聞いて緊張が少し解れたのか、笑顔が戻って来た。
「だからレイチェル、自信を持ちなさい。怯える事は無いの。だって私達は上手なのよ」
「そ、そうかしら……」
メイの言葉に戸惑うレイチェルであったが、確実に緊張は解れて来た。
緊張が少し緩んで笑顔が戻ったレイチェルは、ずっと手を繋いだままのケイトに向かって、
「頑張りましょね」と、力強く言った。
「えっ、ええ、頑張りましょうね」
レイチェルに笑顔が戻った事にケイトは「おおっ!今回は感謝しますメイ!あなたの怪しげな催眠術が、レイチェルに効いているわ!」と、嬉しく思った。
一番目の歌が終わり、二番目の生徒達と入れ替わった。
二番目の生徒達は男女の混声で、本来なら幅のあるコーラスになるはずなのだが、ただ元気な男の子が大声で歌っているだけに聞こえる。
それは、それで審査する人によっては、好印象を与える場合もあるのだが、ケイト達にとっては更に余裕を与えてくれた。
「ねぇ、みんな、手を繋いで歌わない?」
メイの提案を聞いてケイト達は、顔を見合わせて皆が静かに頷いた。
良い提案ではあるが、ケイトにとって少し残念なのが、ケイトは背が小さいので一番前の列、レイチェルは背が高いので後ろの三列目と離れてしまう事である。
そして、二番目の学校の歌が終わると、聖ディオニシウス女学園の名前が呼ばれた。
緊張の中、ケイト達は並んで舞台へと進んで行く。
舞台袖には、オコナー先生がピアノの前に座っている。
ケイト達は舞台中央に列を作ると、打ち合わせ通り皆が隣の仲間と手を繋ぐ。
マクドウエル先生が、ケイト達とは反対側の袖から皆の前に向かって来た。
皆が手を繋いでいるのを見つけると、マクドウエル先生は、一瞬「あらっ」と言う顔をしたがすぐに微笑んだ。
並んだ皆は前を見ている。
眩しい照明が皆を照らしている。
広い……すごく広い。
大勢の観客の姿が見える。
やはり緊張してしまう。
でも・・・でも、すぐ隣に手を繋いだ仲間がいる。
大丈夫だ、そう、何も恐れる事は無い……
マクドウエル先生がタクトを振り上げた。
それは、とても短い時間に感じた。
歌い終わってケイト達が一礼をして、大きな拍手を受けながら舞台袖に引き上げて行く。
全員が舞台袖に入った時、誰からでもなく皆がほっとした笑顔でお互いの顔を見合わせる。
そして、徐々に笑い声が出始め、いつの間にか握手し合い抱き合ってお互いの健闘を称えあっていた。
「ケイト!」
「やったわよレイチェル!」
レイチェルとケイトも抱き合って、その達成感を分かち合っていた。
決して良い出来栄えとは言えないが、一つの事を仲間と成しえた満足感が其処には有った。
「あそこ、間違えちゃった」
「私なんか、忘れた所があって」
「声が詰っちゃって」
控え室へと戻る少女達は、此処へ来た時とは打って変って普通の少女達に戻っていた。
歩きながらケイトは
「メイ」と、呼びかけるとメイが振り返り、ケイトはメイに向かって手をぐうにして親指だけを上に立ててウインクした。
それを見てメイも、微笑みながら同じポーズでウインクを返した。
控え室に戻ったケイトは、
「あら、お姉様方は?」と、誰も居ないテーブルを見て言った。
「プログラムから言って、二年生は舞台に向かったのかしら?」
「そうね、三年生は最後の練習を始めた頃かしらね」
一年生達はそう推理しながら、テーブルに着いてお茶を入れる。
クッキーを食べながら、
「やっぱり駄目だったねぇ」と、ケイトが言うと、
「当然ね、でも次があるわ」と、メイが笑顔で返した。
皆はメイの言葉を聞いて、微笑みながら頷いた。
お茶の後、ケイト達は二年生と三年生の歌を聴くためにホールへとやって来た。
ホールの二階席で、ケイトは改めてその広さを知って、
「こんな所で歌ったの……」と思うと、今更ながら緊張が走った。
「そうね……横の広さは解ったけど……」
「ええ、二階まで有ったなんて……」
「こ、こんなにいっぱい人が居たなんて……」
他の一年生達も席に着きながら周りをきょろきょろと見回し、発表の時は照らす照明で全部見えなかったホールの様子を知って、自分達がとんでもない所で歌たった事に驚いていた。
ケイト達は他校の発表を真剣に聞いていた。
中には、そこそこの学校も有ったが、多くの素晴らしいコーラスに聞き入り、その中でも聖ディオニシウス女学園の三年生の歌は特に素晴らしかった。
三年生のコーラスを聴いて、
「私達も、あんなに素晴らしいコーラスが歌える様に成れるのかしら……」と、ケイトは不安になった。
「出来るわよ、きっと出来るわよ」
隣でケイトの手を握り、レイチェルが力強く言ったのを聞いて、
「ええ、そうね……出来るわよね」と、ケイトもレイチェルの手を握った。
全校の発表が終わって結果発表の時が来た。
皆が緊張して聞いている中、優勝校は聖ディオニシウス女学園と読まれた時、ケイト達は二年生と一緒に二階席で立ち上がり拍手をしながら歓喜の声を上げた。
三年生の表彰式見て、涙を浮かべている下級生も居た。
表彰式が終わり、ケイト達は急いで控え室に戻り、拍手で三年生を迎えた。
「おめでとうございます」
下級生たちが笑顔で三年生に声を掛けると、
「ありがとう」と、三年生も笑顔で礼を言った。
みんな笑顔で喜びを分かち合っている。
みんな笑っている、ケイトも笑っている。
そんな中、ケイトはとても不思議な気分だった。
自分が自分で無いような感覚にはしゃぎながら「何なの?今の私……こんな事って今まで無かった。こんなにはしゃいじゃって、私が優勝した訳でも無いのに、何してるの私?どうしちゃったの私?何でこんなに嬉しいの?何でこんなに楽しいの?合唱部の皆と居る事が……」と、考えていると「あれっ、あれっ……私、泣いているの?……なんで泣いているの?」と、急に涙が止まらなくなった事に気が付いた。
笑顔で皆とはしゃいでいるケイトが「レイチェルも他の子も、自分が優勝した訳でも無いのに、なんで……なんで、みんな涙を流して喜んでいるの……」と、涙の原因は分からなかったけれど、以前レイチェルが合唱部に合格した時に感じた感覚に似ている事を思い出していた。
悲しいときや、悔しい時にしか出なかった涙。
ケイトは「何で、今出てくるの?私、こんなに楽しいよ。私、こんなに嬉しいよ。なのに何故?何で涙が出てくるの?」と、不思議な感覚に包まれていた。
それは、決して嫌な感覚では無かった。
暖かい物に包まれ、とても優しい感じがした。
ケイトは生まれて初めて、仲間と共に嬉しくて泣いた。