第二話
一話の続きです。
---練習初日---
「えっ、そうなの?」
休み時間の教室で、大きな目を大きく開いてケイトがレイチェルに向かって聞き返すと、
「ええ、そうなの。お婆様が是非ケイトに会いたいって」と、ニコニコと微笑みながらレイチェルが答えた。
「でも、良いのかしら……私なんかがお邪魔して……」
「どうして?何も問題ないわよ、何かいけないの?」
不安そうに俯くケイトを不思議そうにレイチェルは見詰めている。
ケイトは「やばいかも……」と、不安でいっぱいだったが顔には出さない様にして、
「……ううん、何でもないわ」と、首を左右に振って微笑んでだ。
「実は、私のお母さんも、レイチェルを連れていらっしゃいって、言っているのよ」
「まぁ、嬉しい!お互い日を決めなくてわね!」
ケイトの申し出を手放しで喜ぶレイチェルの笑顔を見て、ケイトは少し照れながら、
「うん……」と、頷いた。
放課後、いよいよ合唱部の始めての練習が始まる。
入部テストに合格した十五人の少女達が音楽室に集まっている。
多くの生徒達は小学舎からの顔見知りらしく、わいわいと話が盛り上がっている中、ケイトを含む受験組みの生徒三人は、まるでタンポポの花畑にぽつんと立っている土筆の様に皆の会話に入れず遠慮がちに立っていた。
そこへ、試験の時ピアノを引いていた優しそうな先生がやって来て、
「はあぁいっ、みなさぁん、座って座ってぇ」と、パンパンと手を叩いた。
それを聞いて一年生達は、わらわらっと席に着いた。
「私はぁ、合唱部の副顧問を勤めますぅキャリー・オコナーでぇす。よろしくねぇ」
先生が押っ取りとした笑顔で皆に向って言うと、生徒達がいっせいに、
「よろしくお願いします」と、声をそろえる。
「顧問の先生はぁ、セシル・マクドウエル先生でぇす。私は主にぃ演奏と発声をぉ担当していますぅ。マクドウエル先生はぁ、コンクールに向けてぇ上級生の指導をぉなさっていますのでぇ、一年生の皆さんはぁ、私と一緒にぃ練習する事になりまぁす」
先生の話を聞いてケイトは「あの怖そうな先生に会う機会は少ないな」と、内心ほっとした。
「今ぁ上級生はぁ、コンクールが近いのでぇ、ホールで練習していまぁす。」
ケイトは、放課後ホールの側で発声の練習をしている上級生達を思い出していた。
「合唱部はぁ、百二十年の歴史がありぃ、多くのぉ栄冠に輝いてきましたぁ。今のコンクール形式がぁ定まってからぁ六十五年経ちますがぁ、過去にぃ全国大会優勝ぉ三十三回、州大会優勝ぉ四十七回にぃ輝いていまぁす。」
皆は、それがすごい数字なのかどうか解らないままに、
「おぉぉっ」と、声を上げた。
「これはぁ余談ですがぁ、そこのぉレイチェルのお婆様もぉ合唱部の大先輩でぇ、全国大会のぉ優勝者の一人なのよぉ」
「えっ!」
先生の話を聞いて皆が一斉に驚いてレイチェルを見た為、レイチェルは少し困ったように微笑んだ。
「はあい、では皆さんもぉ、この伝統ある合唱部のぉ一員である事をぉ自覚してぇがんばりましょう」
先生の言葉に、皆が一斉に、
「はいっ」と、元気に答えた。
「それではぁ、これからホールに行きまぁす。皆さぁん、上級生達にご挨拶しましょう」
「はい」
ケイト達は、
「行きますわよぉう」と、遠足で引率する様に手を挙げて教室を出て行く先生の後を付いて行く。
オコナー先生を先頭にケイト達一年生が音楽室のある棟を出て、石畳の小道を百mほど先にあるホールへと向かった。
講堂を兼ねたホールに入ると、舞台の上では三年生が練習していた。
入学式の時に入ったホールだったが、ケイトは改めてホールを見回し「大きい……」と、感動していた。
桜の板が敷き詰められた床は綺麗にワックスが掛けてあり、二階まで吹き抜けの高く丸みを帯びた天井には質素ではあるが大きなシャンデリアが並んでいる。
レンガが積み上げられた高い壁には、長細く背の高い出窓が並んでいて色取り取りのステンドグラスが外の光を柔らかくしている。
舞台両袖にも出窓があり、舞台中央の奥には立派な祭壇に大きな銀色の十字架が建ててあった。
その、教会の様なホールの中に三年生達の美しいコーラスが流れる。
ケイトを優しいハーモニーが包み込むと、自分の体重が消えた様な気がした。
「あ……」
上も下も無い無重力の空間で、体が静かに漂う様な感覚に驚いて少し戸惑ったが、ケイトは静かに目を閉じて天使の歌声に身を任せる。
レイチェルもメイも他の一年生達も、静かに目を閉じて聞き入っている。
歌が終わり、二年生達の拍手でケイト達は我に帰って感動を拍手で表した。
拍手をしながらケイトは「す、すげぇ……これが芸術ってやつか……」と、茫然と舞台に並ぶ三年生達を見ていた。
「素敵ねぇ……」
「綺麗……」
他の一年生達も感動している。
「はあぁい、皆さぁん!紹介しまぁす。新しく合唱部のぉ部員となりましたぁ一年生達よぉ」
オコナー先生が上級生達に声を掛けると、一年生達は緊張しながら舞台へと向かった。
舞台下で立っている二年生の所に、マクドウエル先生と一緒に三年生達が降りて来た。
「みなさぁん、この方が、顧問のセシル・マクドウエル先生ですぅ」
「よろしくお願いします!」
一年生達が元気良く一斉に挨拶すると、
「よろしく」と、マクドウエル先生は小さく頷きながら素っ気無く答えた。
「オコナー先生。私は私用が有りますので、これで失礼します」
「あ、はい……お疲れ様ですぅ」
無表情のままオコナー先生に小さく会釈してマクドウエル先生がホールから出て行くのを、オコナー先生は少し戸惑いながら見送った。
と、その時、
「きゃあぁぁ!」と、黄色い声がホールに響いた。
オコナー先生が驚いて振向くと、
「この子、可愛いぃぃ!」
「ねぇ、お名前は?」
「見かけない子ね、受験組み?」
「えっ、えっ、えっ……」と、三年生に囲まれて戸惑っているケイトが居た。
背が低く童顔のケイトは見た目は小学生である。
「あ、あの、ケイト・アダムスです……」
滅多な事では怯まないケイトだったが、今まで経験した事の無い黄色い声の歓迎に驚きながら戸惑って「な、なんだ、こいつら……」と、対処の方法が解らずに困っていた。
「ケイト、よろしくね!私は部長のシンディー・アグスタよ!」
抱き締めて押し付けられた、お姉様の胸の膨らみに照れながら、
「は、はい、此方こそ、よ、よろしくお願いします……」と、メイにさえ怯まなかったケイトが恥かしそうに答えた。
「もう、シンディーったら、ずるい!速く代わって!」
「いいじゃないぃ、マチルダ。もぉう少しぃ……」
お姉様方が取り合う中「おいおい……私はぬいぐるみか……」と、ケイトはやっと冷静さを取り戻していた。
「もう、なんでえすか!皆さぁん、はしたないぃ!」
押っ取りとした声で迫力は無いが、オコナー先生のお叱りの言葉で、
「すみませえん……」と、三年生はケイトを解放した。
「大丈夫……」
もみくちゃにされたケイトに、心配そうにレイチェルがが尋ねると、
「ええ、な、なんとか……」と、ケイトは疲れた声で答えた。
お姉様方のマスコットに前振りも無く抜擢されたケイトは「どうなってんだ……」と、警戒心の欠片も無いフレンドリーなお姉様方に戸惑っていた。
取り合えず、一通りの自己紹介が済んで解散と成った。
「それでは、一年生はホールのお掃除をしてね」
部長のシンディーが一年生に向って言うと、
「練習が終わった後のお掃除は、一年生の役目よ」と、マチルダが付け加えた。
「よろしくね」
「はい」
シンディーの言葉に一年生達が返事をすると、
「それじゃ、一通り説明するわね」と、二年生のアンナが言った。
「よろしくお願いします」
二年生のアンナが一年生達の役割分担を説明し始めると、一年生達は聞き漏らさない様にと真剣な目で聞いていた。
「あと、分からない事があったら、何時でも聞いてね」
「ありがとうございます」
元気良く返事をする一年生を、ニコニコ微笑みながら見ていたオコナー先生が、
「では、明日からぁ練習をぉ始めますぅ」と、言いながら一年生の前に出る。
「それとぉ、今後の予定ですがぁ、十一月の末にぃ地区大会がありまぁす。それにぃ、皆さんもぉ参加しまぁす」
「ええっ!」
正に青天の霹靂の如く、いきなり言われて驚いている一年生達の当然の反応を見て先生は、
「大丈夫よおぉ、結果なんてぇ気にしないで良いのよおぉ。大勢の前でぇ歌う事にぃ慣れる為に出るのだからぁ」と、微笑みながら言った。
一年生達は不安げにざわついているが、メイだけは堂々としていた。
「まだぁ二ヶ月以上もぉあるわぁ、大丈夫よぉ、毎年の事ですものぉ。それじゃぁ皆さん、また明日ねぇ」
先生の言葉を聞いて、生徒達は一斉に、
「ありがとうございました」と、礼をした。
先生と上級生が去った後のホールでは、一年生達の緊急会議が始まった。
「本当なのかしら?」
「当然でしょ。先生が嘘を付くはず無くてよ」
「どうしましょう、自信ないわ」
皆が不安げに話し合っていると、
「問題ないわ!」と、例の如くメイが生徒達の前に立ち一括した。
生徒達が一斉に振向いてメイを注目する中、堂々とした態度で、
「初めたばかりの私達に、誰も良い結果を求めたりしていないわ」と、メイが言い放つ。
「でも、ねぇ……」
「ねぇ……」
三年生のコーラスを聴いたばかりの一年生達が、自信無げに不安な顔を銘々に見合わせて居る空気も読まず、
「先生も仰った様に、目的は舞台度胸を付ける為なのよ。上手に出来なくても、堂々と歌う事が出来れば良いのよ」と、メイが自信たっぷりに自論を披露する。
そこに、苦虫を噛み砕いた様な顔をしながら聞いていたケイトが、
「あのね、メイ……」と、少し苛付いた様に頭をポリポリとかきながら声を掛ける。
「ですからね、堂々とね、歌う事が、出来ないから、困っているのでしょ」
「なぜ?」
メイを睨みながら意見するケイトに、あっさり問い返すメイを見て、
「メイに言っても無理よ……」と、皆は諦める様に溜息を付く。
「あのね、メイ……」
まあぁ聞けよと、ケイトがメイの肩に手を掛けて、
「皆はね、恥ずかしいの、大ぉ勢の前で歌うのが。解る?始めたばかりでね、なんの自信も無いのに、大ぉ勢の前に出るのがね、恥ずかしいの。解る?」と、一言一言ゆっくりと説明する。
「だから、これから練習をするのよ!」
ケイトの説明を聞いても、あくまでもマイペースな自論を崩さないメイの言葉を聞いて、
「無理よ!この子は解ってくれないわ!」と、皆が頭を抱える。
ケイトは拳を握りながら「どう説明すれば、理解するんだ、この野郎は!」と、メイに掴み掛ろうとする自分を必死で抑えていると、
「やる前から逃げ出す気なの!」と、ビシッと、何時ものポーズでメイに指を指された。
「うっ!」
突然の事にケイトがビクッと身を引くと、
「いい事!私達は合唱部に入ったのよ!これからは何度も大勢の前で歌わなくては成らないのよ!それが嫌なら、お家で一人で歌っていればいいわ!」と、メイが皆に向って怒鳴った。
メイの迫力ある正論に、言葉無く俯いてしまった皆に向かって、
「ねぇ、こう考えて御覧なさい。下手な時に恥を承知で舞台に立つの。すると次に上達して舞台に立った時、楽だと思わなくて?」と、メイは打って変わって静かに諭す様に続けた。
その言葉に、皆が「あっ……」と、うんうんと頷き反応したのを見て、
「今、恥をかく事を恐れてはだめよ!鉄は熱いうちに打て!百里の道も一歩から!皆の心を合わせて、懸命に練習して、聖ディオニシウスの栄光ある合唱部にふさわしい実力を身に付けるのよぉ!」と、力強く拳を前に突き出すオーバーアクションで言うと、舞台の十字架に振向いて手を組んで、
「おお、神よ!艱難辛苦を与え給え、そして、栄光の道へと立ち向かう我等を見護り給え……おお、勝者の苦悩、我に有りぃ……」と、祈っているかと思うと再び皆に振り返り、
「そう、みんな覚悟を決めるのよ!そして、苦難に打ち勝ち、私達は二年後の全国大会で優勝する事を目指すのよおぉ!」と、拳を振り上げメイが大演説をぶち立てると、皆は感動したのか、「そうね、そうね」「そのとおりだわ」と、口々に同意した。
メイの臭い演説に丸め込まれた皆を見て「あう……どんなけ、お人好しのお嬢様なんだ、こいつらは……」と、ケイトは見っとも無く大口を開けて呆れた。
「Yes We Can! We are the winners! We win the victory!どんな困難が待ち受けようとも、皆で力を合わせて前を向いて歩くのよぉ!」
「そうよ!そうよ!」
「メイの言う通りだわ!」
「みんな、頑張りましょう!」
催眠術の様な演説に拍手を送りながら感動している少女達の前で、高く握り拳を上げているメイを見て、「なんなのよ、あんたは?……教会の坊主みたいな臭い説教を、こうも堂々と出来るなんて……ほんと、あんたね、歳幾つなのよ?」と、呆れる一方で「でも……あんた凄いよ」と、苦笑い交じりにメイを認めているケイトだった。
---心の痛み---
練習を始めて一ヶ月程が経つと一年生達も随分と上達した……気になっていた。
まったくのど素人が正規の訓練を受けているのだから当然ではあるが、上級生達の素晴らしいコーラスから比べると、まだまだである。
「綺麗……」
自分達の練習が終わって、ケイト達一年生が上級生の練習をうっとりとした表情で聞いている。
メイは黙って目を瞑り腕を組みながら聞き入っている。
「……」
その中で、レイチェルだけが美しいハーモニーを何故か顔を曇らせて聞いていた。
そして上級生達の練習が終わり、一年生達がホールの片付けと清掃を始めた。
「お姉様方、とても素敵だったわね」
「……そうね……」
掃除をしながらケイトが声を掛けると、レイチェルは暗い表情のまま素っ気無く返事した。
「どうかしたの?」
レイチェルの様子を心配してケイトが尋ねると、レイチェルは無理に笑顔を浮かべながら首を横に振って、
「なんでもないわ……」と、答えた。
ケイトは練習する中で解った事が二つあった。
レイチェル同様の破壊的な音痴の生徒が他に三人居た事を。
そして、メイ同様とても上手な生徒が他に五人居た事も。
その他の生徒は、ケイトも含め団栗の背比べである。
音程の中々会わない生徒は、何人か組みに成り皆の声を聞きながら音程を合わせる練習をしていたが、そう簡単に上達する物では無く、破壊的な音痴の四人は思う様に矯正出来ないでいた。
しかし、人間進歩するものである。
この一ヶ月の間で、レイチェルを除く三人は、それなりに聞ける程度に成長した。
それなりに上達した美しい声の少女達が歌うと、それなりに聞こえる。
下手なアイドルグループが大勢で歌う様な物である……これを質より量と呼ぶ。
しかし、レイチェル一人が激しく音程を外す事で〝それなり〟をぶち壊してしまい、その場の雰囲気を肌で感じ取ってレイチェルは心苦しい思いで泣き出しそうになる事もあった。
そんな時、皆はレイチェルに「がんばって」と、応援はしているが迷惑にも思い始めていた。
部活が終わって皆と教室に戻る途中トイレに寄っていたケイトが教室に戻ると、レイチェルが一人、机の前で鞄を持って立っていた。
「どうかしたの?」
何気なく尋ねるケイトの言葉にレイチェルは反応せず只じっと立っている。
「レイチェル……」
黙っているレイチェルが心配になってケイトが近付きレイチェルの顔を見る。
「私……迷惑……」
「えっ?」
消え入る様な小さな声で呟いたレイチェルの言葉が聞き取れずにケイトが聞き直すと、
「迷惑よね……私……」と、また小さな声でレイチェルが呟いた。
「あ……」
目に薄っすらと涙を浮かべるレイチェルの言葉を聞いて、ケイトはレイチェルが何を言いたいのか理解した。
「迷惑だなんて……そんな事……」
レイチェルと居るだけで楽しいと思っているケイト自身は思いもしなかったが、冷静に考えて見ると「皆は、やっぱりそう思っているかも……」と、不安になった。
「甘えないで」
ケイトの後ろから急に声がして「誰!」と、驚いてケイトが振向くと、
「そんな弱音を吐く暇があれば、練習する事ね」と、メイがレイチェルを見ながら立っていた。
ケイトは「いっ、何時の間に!」と、驚きながら、合唱部の活動日誌を先生に届けて帰って来たメイを見た。
「私達は十五人で一つ。その事を良く理解しなさい」
合唱部は文科系ではあるが、団体戦で競い合う為、体育会系の乗りも持っている。
メイの言葉に俯くレイチェルを見て、
「ちょっと!メイ!」と、ケイトは居た堪れずに怒鳴る。
「迷惑だと自覚しているのなら、早く上達して」
「メイ!そんな言い方しなくても!」
抗議するケイトを無視して続けるメイの態度に腹を立て、ケイトはメイの肩を強く掴んだ。
「なによ?言葉を変えれば理解出来るの?」
「そうじゃ無いわよ!」
「何が違うと言うの?」
「そんな言い方、レイチェルが傷付くでしょ!」
二人の言い争いをレイチェルはおろおろしながら見ている。
「ケイト、勘違いしないで」
「何の事よ……」
「レイチェルが努力している事は、私も十分理解している積りよ」
「だったら!」
「でもね、皆も努力しているの」
「あっ……」
メイの言葉で、ケイトが掴んでいた肩から手を放す。
「それが解っているなら、甘えないでって言っているの」
「そ、それはそうだけど……」
「どんなに練習したって、そんな逃げ腰な思いでやっていたら、何時までも上達しないわ」
「……」
「ケイトも合唱部の一員なら、レイチェルだけを見ないで皆の事も見て」
「……」
メイの正論にケイトは黙ってしまった。
ケイトは「だからって、レイチェルに根性据えろ!とか、気合入れろ!なんて言えないじゃない……言ったって解んないよレイチェルには……あんたはレイチェルの為を思って気合入れている積りだろうけど……」と、考えていた。
「あ、あの……ケイト……」
後ろからレイチェルに袖を引かれ、
「えっ?」と、ケイトが振向く。
「わ、私……私、頑張る……頑張るから……頑張るから……」
「……レイチェル」
其処には、目にいっぱい涙を貯めながらケイトに訴えるレイチェルが居た。
気まずい空気の中、三人は黙ってしまった。
努力はして居る。
部活以外でも、レイチェルは昼休みに一人で練習したり自宅に帰ってからも一人練習した。
だけど、思うような結果が得られなかった。
なかなか上達しない自分が情けなく、また、皆に迷惑を掛けている事を申し訳なく思い、夜、部屋で一人で泣いた日もあった。
今日も一人、昼休みに校舎の裏にある人通りの無い林の中で一人練習していた。
林には十月桜と呼ばれる桜が一本、年に二回咲かせる花に包まれていた。
歌の練習をしているレイチェルの声が次第に小さくなって黙り込む。
そして、膝を抱えてしゃがみ込むと、顔を膝に埋めて泣き出し、
「もう……だめよ……」と、悔しそうに呟いた。
練習をしているレイチェルの姿を、少し前から木陰に隠れて見ていたケイトが、泣き出したレイチェルが心配になって静かに近づく。
「あっ……」
ケイトに気付いたレイチェルは、涙を見られ無い様に背を向け涙を拭いて立ち上がる。
ケイトがレイチェルの背中を見て立っている。
そよ風に桜の花びらがゆっくりと舞い散る中、無言の時間が流れる。
「がんばれなんて言わないよ……」
ケイトの言葉に、少しびくっとするレイチェル。
「私、がんばれなんて言わないからね」
そう言いながらレイチェルの前にケイトが回りこみ、レイチェルの手を取る。
「だって、レイチェルは、もう十分がんばっているもの」
真剣な顔で話しかけるケイトの目には、薄っすらと涙が浮かんでいた。
その姿を見てレイチェルは少し微笑みを浮かべる。
「だからね、諦め無いでね」
「ありがとう……でもね、もう……私……」
首を横に振りながら涙を浮かべるレイチェルは、ケイトの励ましに答られ無い事を告げる。
ケイトはレイチェルの両手を握りながら俯き黙っている。
暫く続いた沈黙を破ってケイトが、
「あのね、私ね、ほら、ちびでしょ」と、言いながらレイチェルから少し離れて手を広げて見せる。
「だから、小学校では、色々と嫌な思いをして来たわ」
ケイトの言葉をレイチェルは黙って聞いている。
「出来ない事が沢山有ってね、でもね、私、がんばってね、出来る様に成ろうとしたのよ。だけど、どうしても、皆の様に出来なかったの」
黙って俯いているレイチェルの顔を、覗き込む様に見ながらケイトは続けた。
「そんな時ね、お母さんが教えてくれたのよ。何時までも歩けない子供はいないって、皆より早くに歩ける子も居るけど、遅い子も居るって。でも、何時かはきっと、みんな、歩けるように成るから諦めるなって」
ケイトは再びレイチェルの手を握って、
「だから、お願い……諦めないで」と、レイチェルの顔を覗き込んで言うと、突然レイチェルはケイトの手を一気に振り払い、
「でも、出来ないのよっ!私!」と、叫んだ。
初めて聞くレイチェルの大きな声に、ケイトは叱られた子供の様に身を縮めた。
「諦めたくなんか無い!諦められないわ!」
怒鳴る様に訴えるレイチェルの声は、
「でも、でも、もう、どうしたら良いのか解らないの……」と、徐々に小さくなって最後は聞き取れない。
「レイチェル……」
暫く黙って小刻みに震えていたレイチェルが、急にしゃがみ込み両手で顔を覆って、
「うっ、う、う、わあぁん……」と、声を上げて泣きだした。
溜まって居た物を一気に吐き出す様に泣いているレイチェル。
激しく感情を爆発させるレイチェルの姿を始めて見たケイトは驚いていた。
小さな子供の様に泣いているレイチェルを見ていると、ケイトの中に悔しさが込み上げて来た。
自分がレイチェルの力に成れ無い事に、ケイトは言い様の無い悔しさを感じていた。
「レイチェル、なんでよ……なんでよ……」
悔しい思いに歯を食い縛りながら「レイチェル、私の気持を解って。お願い、レイチェル、諦めないで。レイチェル、お願いだから、諦めないで。レイチェル、私の気持ち……レイチェル……レイチェル……レイチェル……」と、心の中でレイチェルへの想いが膨らんで来て、
「レイチェルのばかあぁ!」と、ケイトは高ぶって来る感情のままに思わず叫んだ。
ケイトはレイチェルの前にしゃがみ両肩を掴んで揺りながら、
「何よ!何故、諦めるの!もう良いの、本当にもう良いの、まだ、始まったばかりじゃない!」
泣き止んだレイチェルは俯き、黙ってケイトのされるがままになっている。
「せっかく、会えたのに、せっかく一緒に合唱部に入れたのに、もう、諦めるの!」
ケイトは涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら「出会った日から好きだった。綺麗で優しくて……スラムに居たら絶対に出会えなかったレイチェル。小学校の時も、スラムでの生活がなかなか抜けなくて友達なんて出来なかったのに、会ったその日に仲良くしましょうと言ってくれたレイチェル。何時も柔らかい仕草で笑ってくれていたレイチェル。私を家に誘ってくれたレイチェル……」と、想いが込みあがってくる。
「お願い!お願いだから一緒に居てよ!お願いだから、諦めないで!」
「ごめんなさい……」
「ごめんなさいなんて、聞きたくない!諦めないで続けようよ!」
何とかレイチェルを思い止め様と必死になるケイトの目の前で、黙ったまま俯いているレイチェルの顔を覗き込み、
「ねえ……ねえ、一緒に合唱部を続けましょうよ。私、レイチェルと一緒にやって行きたいのよ。ねえ、ねえ……」と、僅かな希望に期待して懇願するケイトだったが、レイチェルが俯いたまま首を左右に振ったのを見て、ケイトに絶望が重く伸し掛かって来た。
「いやよ!諦めないで!そんなの、いやよ!」
大きな声で訴えるケイトの目から激しく涙が流れる。
「ごめん……なさい……」
俯いたまま謝るレイチェルを見て、ケイトは愕然として頭の中が真っ白になった。
「あぁ……」
絶望の淵に落とされて、もう何も考えられ無くなったケイトの感情だけが爆発して、
「そんな、レイチェルなんて大嫌いだあぁ!」と、立ち上がってレイチェルに向って叫んだ。
ケイトの叫びに、反射的にレイチェルも立ち上がりケイトを見て、
「あっ……」と、困惑して声を漏らす。
ケイトの大きな目が、綺麗な黒い瞳がレイチェルを真っ直ぐに見詰めている。
涙と鼻水で可愛い顔をぐしゃぐしゃにしながら、訴える様に見詰めているケイトの視線が心に深く突き刺さり、息苦しいまでの心の痛みに言葉を無くしたレイチェルは黙ってケイトを見ていた。
ケイトは叫んでから、自分が何を言ったのか理解した。
「わ、私、何てことを……」
後悔の念に押し潰されそうになりながら「そんな……なんて事言ったのよ……心にも無い事を……どうしてよ……」と、思うと、更に涙でレイチェルの姿が見えなくなる。
「あ、あ……」
後悔に苛まれながら後ず去るケイト。
「なんで……なんで、わたし……」
心にも無い事を言ってしまい悔やむケイトは、レイチェルの前に居る事の痛みに耐え切れず、その場から走り去って行った。
一人残されたレイチェルは、ただじっと心の痛みに打ち震えていた。
---貧血---
「ケイト……」
桜の花を見る為にやって来たオコナー先生が、二人のやり取りを少し離れた木陰から全部見ていた。
走り去るケイトの後姿を心配そうに見送って、
「あの子ぉ……」と、呟いた。
ケイトが校舎に駆け込んだ頃、ふらつきながらゆっくりとレイチェルが歩き出した。
「あっ……」
まるで幽霊の様に足が地に付かずふらふらと歩くレイチェルを見て、オコナー先生は心配になってレイチェルの後を追った。
案の定、校舎に入った所で倒れる様にしゃがみ込んだレイチェルに、
「レイチェル!」と、叫んで駆け寄り抱き抱える。
「大丈夫?レイチェル!」
「すみま・・・せん・・・だい、じょう、ぶ……で、す」
放心状態で途切れ途切れに話すレイチェルの顔色は真っ青だった。
「大丈夫じゃぁ無いじゃない!」
日頃、押っ取りとしているオコナー先生だったが、腕の中で真っ青になって震えているレイチェルを見ると驚いて叫んでしまった。
「あっ、スミス先生ぇ!」
通りがかった先生を見付け、手を振りながら大声で呼び止めたオコナー先生は、レイチェルを二人で抱き上げて保健室に連れて行った。
そして、レイチェルを保健室のベッドに寝かせると家族に連絡を取り、教室に行って授業を始め様としている教師に事情を告げた。
オコナー先生が事情を説明している時「レイチェルがぁ」と、聞こえた瞬間、机にうつ伏せになったままでいたケイトが勢い良く身を起こし、
「レイチェル……レイチェル……」と、唇を震わせながら小さな声で何度も呟くケイトの言葉は、回りの生徒達には聞こえなかった。
「ではぁ、レイチェルはぁ家族の方にぃ迎えに来てもらいますのでぇ」
「はい、お願いします」
オコナー先生がレイチェルの鞄を持って教室を出て行った頃、ケイトは小刻みに震えだし、
「ひっく……ひっく……」と、しゃくり出した。
「えっ?」
「あら?」
「……ケイト?」
周りの皆がケイトの様子が変だと気付きだした時「な、なんであんな事、言っちゃったのよ……なんでよ、なんでよ……」と、思いが込上げて、
「うああぁん、なんでよおぉぅ!」と、ケイトは大声で泣き出した。
突然の大きな泣き声に、クラスの生徒全員が驚いてケイトの方を見た。
大声で泣いているケイトに、真っ先にメイが駆け寄り、
「大丈夫?ケイト」と、言うとケイトを立たせる。
「先生、ケイトの気分が優れない様なので保健室へ連れて行きます」
メイはケイトを抱えながら先生に告げた。
何事が起きたのか理解出来ない先生は、取り合えずメイの言う事が正論であると判断して、
「あ、お願い……一人で大丈夫?」と、尋ねた。
「はい」
メイは、はっきりとした声で返事をすると、ケイトを教室から連れ出した。
まだ泣いているが少し落ち着いて来たケイトを見ながら「昼休みに二人の姿は無かったわね。レイチェルは教室に戻らず、早退する事を聞いてケイトが泣き出した……何かあったのね……」と、何が在ったかは解らないが、二人の間に何か在った事をメイは確信して「恐らく、直ぐにケイトを連れ出した事は正解ね」と、考えていた。
保健室に着くと、
「先生、お願いします」と言ってドアを開ける。
「あらあら、どうしたの?」
メイに抱えられ、ぐったりとしているケイトを見て保健室の先生が訊ねた。
初めは大声で泣いていたケイトだったが、泣いているうちに気分が悪くなって来て、保健室に着く頃には完全に貧血状態になって顔色が真っ青になっていた。
「気分が優れない様です。お願いします」
メイはケイトを保健室の先生に預けると、
「私は、担任の先生に報告してきますので、後はよろしくお願いします」と、先生に一礼した。
「ええ、お願いね」
そしてメイは、保健室を出て職員室に向いケイトの事を担任の先生に報告し、教室へ戻り教室の先生に報告し、家族に迎えに来てもらう事になったケイトの鞄を保健室に届ける、と言う一連の作業を手際良く終えて教室に帰って来た。
教室に戻ると案の定、授業中にも関わらずクラスの皆は、
「どうだったの」
「どうしたの」と、口々に聞いて来た。
群がる皆の質問に、
「貧血よ」と、メイはあっさりと一言で答えた。
クラスの皆は、大泣きしていたケイトの事情を「貧血よ」の、一言で終わられるのが大いに不満ではあったが、
「皆さん!席に戻りなさい!授業を進めますわよ!」と、叱る先生の言葉で、それ以上聞く事を諦めた。
保健室では、カーテンを一枚はさんでケイトとレイチェルがベッドで寝ている。
隣に誰が居るかも解らずに。




