第一話
第一話です。
---前夜---
「どうしたの?レイチェル」
夜の十一時頃、小さな明かりを一つ点けただけの薄暗いキッチンで、ミルクを飲んでいる少女に初老の上品な婦人が声をかける。
「……」
黙って俯いている少女の長い髪の毛が、薄明かりの中でも金色に輝いている。
「眠れないの?」
白髪の婦人が優しく尋ねると少女は、こくりと小さく頷いた。
「それは困ったわね、明日から中学生でしょ。早く寝ないと、寝不足の酷い顔で初日を迎える事になってしまうわよ」
微笑を浮かべながら近付く婦人の忠告に、少女は黙ったまま飲みかけのミルクを飲み干そうとはせず、時間が止まっているかの様にじっと俯いている。
「どうしたのかしら……何か心配事でも有るのかしら?」
婦人は隣に座り、少女の美しい髪を優しく撫でながら、
「誰でも、始めは不安になるものよ」と、優しく微笑んだ。
「でも、大丈夫。心配することは無いのよ。小学舎からのお友達も、そのまま中学舎で一緒になるのだから」
婦人の励ましにも俯いたままでいる少女を見て、婦人は不安になり、
「……お友達……いるの?」と、少女の顔を覗き込んで尋ねた。
すると少女は再び小さく頷いた。
「仲良のお友達は、何人ぐらい居るの?」
少女は黙って俯いている。
しばらくの沈黙が二人を包む。
「そうだわ!合唱部に入りなさい」
「えっ?」
突然の婦人の提案に、驚いた表情で少女は初めて顔を上げて婦人を見た。
「私もね、合唱部に入っていたのよ。あそこは、昔から沢山の栄冠に輝いて、とても伝統の有る合唱部なのよ」
「でも……私……」
婦人は、不安な顔で見詰める少女の肩を優しく抱き寄せ、
「大丈夫よ。レイチェルは声が綺麗だから、沢山練習すればきっと上手になるわ」と、優しい口調で少女を励ました。
そして、天井を見詰めながら、
「私もね沢山練習したのよ。それでね、三回もコンクールで優勝したの」と、年寄りの自慢が始まった。
暫く自慢話が続いたが、一段落すると、婦人は少女に向き直る。
「中学生になるんだから、貴方も変わらないといけないわね」
「えっ?」
真剣な顔の婦人に少し戸惑っている少女に、
「何時までも、内気なレイチェルのままじゃ駄目。合唱部に入って、貴方を変えるの」と、婦人は少しきつい口調で言った。
「部活に積極的に参加して、それでね、どんな事でも分かち合う事が出来るお友達を作るの」
「分かち合う?」
「そうよ。苦しい事、悲しい事、そして楽しい事。色々な事を同じ気持ちでお互いに助け合えるお友達」
婦人は少女の頭を優しく撫でながら、
「そして、お友達と一緒に色々な事を乗り越えて何かをやり遂げた時、そのお友達は貴方の一生の宝物になるの」と、少女の瞳を微笑みながら見詰める。
「きっと、貴方にも出来るわ。親友が」
「親友……」
婦人は少女の頭に手をやり引き寄せ、自分の額を少女の額へと軽く押し付け、
「そうよ、がんばりなさいレイチェル」と、微笑みながら静かに言った。
---出会い---
広い並木道を黒塗りの大型高級乗用車が列を成している。
何処かの国の何処かの町にある、この女学園の毎朝の風景である。
門の近くに止まった重厚な高級車から初老の運転手が降り、無駄の無い上品な動作で後部座席のドアを開け、
「どうぞ……」と、深々と一礼する。
帽子の裾から白髪が見える小柄な東洋人の運転手は、後部座席から出て来た青い瞳の少女に、鞄を両手で丁寧に手渡すと、
「いってらっしゃいませ」と、再び深く一礼をした。
鞄を受け取り少女は、
「ありがとうございます……行ってきます」と、小さな声で礼を言って、校門へと向かう。
そこへ、明らかに乱暴な運転の高級車が後ろに急停車する。
車からは、身長が2m近く有るであろう角刈りの大男が、真っ黒なスーツにサングラスの容貌で、のっしりと降りて来た。
そして、がさつな動作で後部座席のドアを開けると、
「いい加減にしろよなぁ、ちっ……まったく……」と、舌打ちしながら小柄な黒髪の少女が、急停車した時にぶつけた額の辺りをさすりながら降りて来た。
「もう少し静かに運転出来ねぇのか!」
怖いぐらいの大男に、物怖じもせずに大きな声で悪態を付く少女に、大男は悪びれもせずに、
「すんません」と、そっけなく答えた。
「おぉまぁえぇはぁ……」
少女は、握り拳を強く握り締め、恨みを込めて大男を鬼の様な顔で睨み付けてから、
「ふんっ」と、言って振り向き、校門の方へと歩いて行った。
大男は胸のポケットから煙草を取り出しながら、
「いってらっしゃい、お嬢……様」と、少女の後姿に向って面倒臭そうに呟いた。
その様子を、何事かと目を丸くして見ていた初老の運転手は、後部座席のドアを静かに閉め運転席へと向かった。
通学途中の生徒達が、見慣れない大男を怯える様に避けて通るなか、大男は周りの様子を気にすることも無く、タバコを吹かしながら車のドアをドンッと閉めた。
車から降りた二人の少女は、ほぼ同時に校門を潜る。
古いレンガ造りの大きな校門には、聖ディオニシウス女学園と書かれた青銅製のレリーフが取り付けてあった。
この学園は、広大な敷地に小学校から大学まであり、富裕層の少女達が通う。
緩やかな小高い丘に立地し、東斜面に小学舎。南斜面に中学舎。西斜面に高等学舎がある。
斜面といっても緩やかなため、日当たり等は問題無い。
大学の校舎は、東方向に1kmほど離れてはいるが敷地は繋がっている。
この学園には表立った厳しい校則は無いが、「神の教えを守り、聖ディオニシウスの娘として相応しい生活を送り、勉学に励む事」と、抽象的な銘文を校則にしている。
当然、携帯電話等は持ち込み禁止ではあるが、殆どの少女は、こっそりと鞄の中に隠している。
制服は、小学校から高校まで、修道女の様な地味なグレーの襟無しのワンピースにセーラーカラーの白いブラウスと言うスタイルである。
学年の違いと言えば、小学舎の生徒は膝上5cmのスカート丈に白のハイソックスで、巾の広い可愛らしいリボンタイ。
中学舎の生徒は、膝下5cmのスカート丈に、白のニーソックスで、細いリボンタイ。
高等学舎の生徒は、膝下20㎝のスカート丈に黒のストッキングで、細めのナロータイ。
夏服は各学年とも、同じデザインの七分袖で、薄手の生地の制服となる。
年頃の少女達にとっては、この上なく地味ではあるが、生徒達はこの学園の生徒であることを誇りに思っているため、制服を改造して着るような不心得者はいない。
先ほど、黒塗りの高級車から降りて来た少女二人は、白のニーソックスに臙脂色の細いリボンタイをしている姿から、中学舎の一年生であることが解る。
先に下りた鮮やかな青い瞳の少女は、腰近くまで伸ばした透き通る様な繊細な金色のストレートヘヤーが朝の光を受けて輝いている。
身長は、中学一年生としては高い方だろうか、細身の体型が実際より余計に高く印象付けている。
もう一人の少女は、風になびいていなければ、濡れているのかと見間違える深い漆黒の艶やかな髪を、肩に掛からない程度に綺麗に切り揃えている。
同学年の少女達と比べると小柄で痩せていて、更に、大きな深淵の黒い瞳が実際よりも幼い印象を与えていた。
---教室で---
色違いの敷石が敷き詰められた欅の並木道を校舎へと向かう二人。
背の高い少女が少し先を歩いている。
其の後を付いて行くかの様に、小柄な少女が歩いている。
途中でシスターに出会うと、背の高い少女は笑顔でシスターに向き直り、
「おはようございます。シスター・エミリア」と丁寧に頭を下げると、
「おはようございます。レイチェル」と、シスターも笑顔で返す。
「今日から中学生ね。がんばってね」
「ありがとうございます。シスター・エミリア」
それを横目で、不思議な物を見るかの様に眺めていた小柄な少女と、シスターの目が合った時、少女は横目でシスターを見ながら、ペコリと少し頭を下げた。
そのしぐさにレイチェルは、
「えっ」と、信じられない物を見たかの様に驚き目を丸くする。
シスターも、
「あらあら」と、呆れた笑顔で小柄な少女を見ている。
レイチェルは向き直りシスターに別れを告げると、教室へと向って歩き出した。
そして再び小柄な少女も、その後に続き歩き出す。
途中、別のシスターに会ったが、レイチェルと他の少女達は、同じ様に挨拶を交わしている。
その様子を見ていた小柄な少女は「どうやらこれが此処の常識らしいな……」と、気付き「面倒臭せぇ……」と、心の中で呟いた。
レイチェルは、自分の方を見ながら後を付いて来る少女が気になっていたが、声を掛ける事が出来ないでいた。
「あの子も一年生みたいだけど……」
小学舎では見た事の無い少女を、
「外部進学の子かしら……」と、想像していた。
校舎に入ったレイチェルは、小学舎からの知った顔と挨拶をしながら教室へ向かう。
校舎は、歴史ある教会の様な風情を漂わせ、時代を重ね古びてはいるが、とても綺麗に清掃されていた。
レンガと木造で作られた校舎は三階建で、重厚な作りになっている。
時代の流れと共に、流石に窓はアルミサッシになってはいるが、創建当時の雰囲気は十二分に残していた。
レイチェルが教室に入り「おはよう」と、声を掛けると、あちこちから「おはよう」と帰って来た。
そして、空いている席に向かおうとした時、
ビシッ!と、そんな擬音が聞こえそうなぐらい、いきなり目の前に人差し指がレイチェルを指していて「ひっ!」と、レイチェルは心の中で短い悲鳴を上げて目を丸くする。
「レイチェル、また一年間一緒ね」
高圧的な態度でレイチェルに声を掛けた少女は、背の高いレイチェルよりも更に二、三cm大きく、更に横にも大きかった。
その大柄の少女は、軽くウェーブの掛かったブラウンの長い髪を、大柄な体格には少し不釣合いな大きな赤いリボンで、アップのポニーテールにしている。
顔立ちは、大きなグレーの瞳を中心に割りと可愛らしく整っていて、将来、上手く成長すればそれなりの美人に成る可能性は秘めていた。
「よ、よろしくね……メイ……」と、作り笑顔で挨拶を返しながらレイチェルは「この子、苦手だな……」と、心の中で呟いた。
メイは、レイチェルの後ろの少女を見付けると、
「あなた、受験組みね」と、ぶしつけに尋ねた。
少女はメイの質問に無言で面倒臭そうに頷くと、適当に席に座った。
何だこいつは、と言う様な顔をして、
「あなた、お名前は?」と、メイが尋ねると、少女は面倒臭そうに、
「ケイト・アダムス」と、ぼそりと告げると、鞄を開けて準備をし始めた。
その態度に、明らかに不愉快な気持ちを顔に表しながら、
「あなた……」と、メイが何か言おうとした時、先生が教室に入って来たのを見付け、急いで席の方に向かった。
---放課後---
初日のガイダンス的な授業が終わり、皆が席を立ちだした時、
「さぁ!行くわよ」と、メイはレイチェルに近づいて行った。
「えっ?」何事なのと、驚き目を丸くするレイチェルは、
「どちらに……」と、少し怯えながら問い返した。
「決まっているでしょ。合唱部よ」
何を言っているだと、言わんばかりに答えるメイの後ろには、既にメイに誘われた三人が、迷惑そうな笑顔を浮かべて立っていた。
彼女達は、
「何時もの事よ……」と、あきらめた雰囲気で呟いていた。
更にメイは、鞄を持って教室を出ようとしているケイトに向って、
「あなたもよ、ケイト。合唱部へ行くわよ」と、呼び止めた。
突然、名指しで指名されたケイトは、
「えっ?」と、立ち止まり、
「どうして私が?」と、メイを睨みながら問い返した。
「何を言っているの、あなた聞いていなかったの。此処では全員がクラブに入らないといけないのよ」
上から目線で自信たっぷりにメイが言うと、周りの少女達は、「ケイトの疑問は、そこじゃないよ」と、突っ込みたかったが、苦笑い程度に止めていた。
しかしケイトは、はっきりと、
「そうじゃないでしょう!何で私が合唱部なのよ!」と、周りの少女達が驚き怯えるぐらいの大きな声で怒鳴り返した。
「それよ!」
また、ビシッと擬音が聞こえる様な勢いで、メイはケイトを指差すと、
「うっ!」と、身長差が十cm以上あるメイに、目の前に指を指されたケイトは、その迫力に少し引いてしまう。
「それよ!貴方のその声よ」
「はあぁ?」
「私にはすぐに解ったわ、あなたの声、とても大きくて綺麗なソプラノですもの、合唱部に入らない訳には行かないわ」
「嘘仰い!朝一言名前を名乗っただけで、何が解ると言うのよ!」
自信たっぷりなメイに、ケイトは再び大きな声で怒鳴り返して「いい加減な事言いやがって。こいつは、私が小さいからって、子分にでもする気か?他の子達も大人しそうだし」と、考えていた。
メイは、ケイトの不信そうな顔を、まったく無視して、
「考えても御覧なさい。音程やテクニックなんて練習しだいで幾らでも上達するのよ。でも、声の質は生まれながらの物。それを生かさなくてどうするのよ」と、持論を堂々と披露する。
自信たっぷりのメイの演説を、迷惑そうな顔で聞いていたケイトは、
「どうもしないわよ」と、素っ気無く言い放ってそっぽ向く。
それを更に無視して、
「我が校の合唱部は、伝統あるクラブなのよ。長い歴史の中で数々の名誉と、栄冠を得て来たすばらしいクラブなのよ」と、メイは相変わらずのマイペースで演説を続ける。
その演説にケイトは以外にも反応して、
「伝統……名誉……」と、呟きメイの方を見る。
「そうよ、百年以上の歴史の中で数々のコンクールで優秀な成績を収めて来たの。そうでしょレイチェル」
振られたレイチェルは、一瞬ビクッとして、
「えっ、ええ、そうね、私のお婆様もそう仰っていたわ」と、答えた。
それを聞いてメイは、うんうんと頷いている。
レイチェルの言葉を聞いて「この大人しそうな子が言うんだったら信じられるかな……」と、思った。
ケイトには少し事情があり、伝統ある合唱部と聞いて、父親に言われた事を思い出していた。
それは一年以上前の、ケイトがまだ小学校5年生だった頃のある日の夜だった。
ケイト達親子が、自宅のリビングでくつろいでいた。
ケイトが雑誌を読んでいると、
「お前は、お嬢様になるんだ!」と、父親がいきなり言い出した。
ケイトは「また始まった……」と、何時もの与太話だと無視を決めている。
「いいか、よく聞け。お前は、都合の良い事に勉強は良く出来みたいだな。今付けている家庭教師の奴らも褒めてたからな」
豪華なソファーに、偉そうな態度で踏ん反り返っている派手なガウン姿の父親の隣で、和服柄で振袖の様なガウンを着た母親もうんうんと頷く。
「だから、よく聞け」と、話を続ける父親にケイトは「さっきから聞いてるだろうが……」と、突っ込みたがったが無視する。
「お前は、有名な学校に行くんだ。そう……金持ちのお嬢様が集まっている様な学校にな」
「はぁ!なですかぁ!」
無視していたケイトが、父親の突飛な提案に驚き目を丸くする。
「そこで、金持ちの常識って奴を学ぶんだ。そして、金持ちの友達を作る」
「何でだよ……」
父親の意図が理解出来ずに、黙っていたケイトが面倒臭そうに口を開く。
「お前にはな、何処に行っても、恥ずかしくない子に成ってもらいたいんだよ」
「あのな!親子そろってスラム育ちの私が、お嬢様学校?むりっ!絶対無理!」
「黙れ!無理じゃねぇ!」
叫ぶケイトの言葉を怒鳴り声で制して、父親は大きく溜息を付いて座りなおす。
「いいか、よく聞け……」
「聞いてるよ……」
「俺もこいつもスラム生まれのスラム育ちだ、お前も今まで同じ様なもんだった……」
父親と母親が顔を見合わせて、諦めた笑顔で微笑み会う。
「だけど今は違う!事業も成功して軌道に乗って来た。俺はスラムに居た頃のチンピラじゃねぇ!今じゃ社長様だ!俺は金持ちの仲間入りをしたんだ!」
派手なアクションを交えての父親の演説を聞きながら、ケイトは「何が事業だ。闇金と地上げ屋だろうが……」と、思ったが口には出さなかった。
「スラムじゃ野良犬みたいな生活だった……だからお前には、俺みたいな惨めな思いはして欲しくないんだよ……」
しおらしい態度の父親の言葉を聞いて、
「何勝手な事言ってやがるんだ、誰が「惨め」だと!馬鹿親父が!昔から底なしの貧乏なのに、酒や博打で借金作りまくって、母さんを泣かして来たお前が「惨め」だと?お前のせいで惨めな思いをしたのは、私と母さんだろうが!」と、ケイトが大声で言い返す。
「うっ……」
ケイトに怒鳴られ、身に覚えが有り過ぎて絶句している父親の隣で、
「確かにねぇ、今はでっかいプール付きの豪邸に住んでるけど……ほんの2年前までは、其の日の飯代も無い様な暮らしだったからねぇ……当然家賃も払えず、何度アパート追い出された事か……」と、母親は懐かしそうに思い出しながら父親に恨み言を言った。
そんな生活をしていた頃は、小学校にもろくに通えず、母親が生活費を稼ぐためにレストランやバーガーショップで働いている間、ケイトはよく図書館に行った。
そこは静かで、暑くも無く寒くも無く、ケイトの持ち前の好奇心を満たしてくれる物が沢山有り、ケイトにとっては楽園だった。
そしてなによりも、そこは安全だった。
無法地帯のスラムでは、たとえ小学生であろうと、気が抜けない。
その犯罪の巣窟で、流血沙汰の修羅場もケイトは潜り抜けて来た。
へこんでいる父親の隣で、ニコニコと微笑みながら母親が、
「父ちゃんはね、お前の事が可愛くてしょうがないんだよ……」と、父親を見ながら言った。
「昔から、どんなに貧乏でも、とりあえず家族一緒だったじゃないか。父ちゃんは私やお前の事を大事に思ってくれているんだよ」
その、母親の言葉に少し照れてる父親を見ながらケイトは「そうか……確かにこいつは私達を捨てて逃げる事はしなかったな……それに、金が有る今は博打もしなくなったみたいだし。たとえ闇金に地上げ屋とは言え、こいつは今仕事を一生懸命やっている。稼いだ金も、家を買ったり母さんに好きな物を買ってやったり、私には家庭教師を付けてくれている……」と、考えていた。
「父ちゃんバカだから、金が無いと『博打で増やすんだ!』なんて言って余計に借金作ったりしてたけど、今は博打もする必要なくなったしね」
母親が半分恨めしげに言うと、父親は申し訳無さそうに更に下を向く。
「だから、よく聞け……」
「……聞いてるよ」
「俺たちゃいいんだ……成り上がり者、成金者と呼ばれても今更しゃあねぇからな……元々、俺達にゃ学もねえし品もねぇしな。だから、お前の手本にゃならねぇ……」
いつも、強引で自身過剰なぐらい大風呂敷を広げる父親にしては、目の前のしおらしい態度にケイトは少し驚いた。
「お前には、いい学校に行って、いい友達を作って、将来、何処へ行っても恥かしく無い様に成って欲しいんだ……その為の金はある。金なんざ幾ら掛かっても良い。今まで、してやれなかった事が多かったからな」
「何を……言ってんだ?……」
今までの父親の言動からは、想像も付かない言葉が出てきて、ケイトは理解するのに暫く掛かった。
「すまなかった……と思っている。だから、お前には俺が出来る事を全てしてやりたいんだよ。頼むから迷惑だなんて思わないでくれ……」
何時もとは打って変わってしおらしい態度の父親に違和感を感じながら、
「迷惑だなんて、そんな事思わないけど……」と言いかけ、ケイトは涙ぐんでいる父親の顔にはっとした。
「俺達が、教えてやれねぇ事を、良い学校に行って学んで欲しいんだよぉ!お前には、いい子に成って欲しいんだよぉ!まっとうな生活を送って欲しいんだよぉ!」
半泣きに成りながら、オバーなアクションで訴える父親の横から、
「ばかだねぇ……」と、言いながら、ハンカチで父親の涙を拭いてやる母親も、少し涙ぐんでいた。
ケイトは、目の前で展開される、今まで無かった安物の家族劇に、
「くっさぁ……」と、呆れる。
「いいか、よく聞け……」気を取り直して話す父親の言葉を、ケイトは静かに待った。
「お前は、これから受験するために、一生懸命勉強しろ。そして良い学校に入って、礼儀とか、人との付き合い方とか……えぇぇと何だっけ……」
「伝統とか芸術とかだよ」
「おお、それそれっ、そう言った物をだな、身に付けて欲しいんだよ。学校の勉強だけなんざ、家庭教師だけで十分だ。だけど、そう言った物は、その中に入らないと学べないもんだ」
「色に染まるって奴だね」
「おっ、難しい事知ってんな、お前」
更に、ああだこうだと、楽しそうに話す両親を身ながら「なんか……ちょっと恥かしいから止めて……」と、思ったが、自分の為を思って、仲良く楽しそうに話す両親の姿を見て、
「でも……これが、普通の家族なのかな……」と、嬉しく思うケイトだった。
そんな事情もあり「伝統ある合唱部」と言う所に、ケイトは強く引かれた。
押し付けられるのは嫌だけど、持ち前の好奇心と両親の想いを考えると「これは、結構良い話かも……」と、ケイトは思い直し、
「伝統ある合唱部ねぇ……解ったわ。それなら、ご一緒させていただくわ」と、メイの話に乗る事にした。
ケイトの返事を聞いて頷くメイの姿を見ながら「こいつは、どうやら一年生の中でも強引なリーダー格の一人だな。集めた子達も育ちが良さそうなお嬢様みたいだし、こいつらの仲間になれば此処にも早く馴染めるかも」と、ケイトは目論んだ。
ケイトとしては、正直不安だった。
お嬢様修行なんて、どうすれば良いのか想像も付かなかったからだ。
その解決の糸口が向こうから、ネギ背負ってのこのこやって来てくれて、馴染めるかどうかさえ不安だったケイトは「ラッキィー!」と、思っていた。
「では、行きましょう」
そう言うとメイは、ずんずんと言う擬音が、いかにも似合う様に歩き出した。
その後を五人が連なり向かう。
ケイトは、この中でも一番大人しそうな、今朝会った少女が気になっていた。
美しい儚げな顔立ちと、美しい繊細な髪の毛。
そして、しぐさの一つ一つが柔らかく優しい。
隣を歩くレイチェルを、ちらりちらりと見ながら「お嬢様って、こんな感じなんだぁ……」と思い「一番前をずんずん歩いているあいつも、きっとお嬢様なんだろうけど……手本にはならんな……」とも、思っていた。
「ねぇ、あなたは……」
ケイトが隣のレイチェルに向かって話しかけると、
「レイチェル・ジェファーソンよ。よろしくね」と、にこっと微笑んで返すレイチェルが、とても可愛らしく見えて、ケイトは思わずドキッとした。
「あ、あの……あの、ケイト・アダムスよ。よろしくね」
少し焦りながら、教室で一通りの自己紹介は済んでいたが、ケイトは改めて名前を名乗った。
微笑を浮かべながらケイトを見ているレイチェルに向って、
「レイチェルは、合唱部でいいの?本当にいいの?」と、内緒話をする様に尋ねた。
「えっ?」
「無理に誘われて……その、嫌じゃないの?あの子に断れないなら、私が変わりに言ってもいいのよ」
メイに聞こえない様に話すケイトに、レイチェルは少し困った様な顔をしながら、
「ありがとう……でも……」と、小さな声で言ってから黙ってしまった。
「……でも?」
黙ったまま廊下を歩いているレイチェルの顔を覗き込む様にしてケイトが尋ねると、
「私……自信無いけど……」と、言って再び黙り込んだ。
「どうかしたの?」
ケイトは、なかなか会話が進まない事に少し苛々しながらも「メイとか言う奴がそんなに怖いのか?」と、思った。
「ありがとう、大丈夫よ……」
レイチェルは、不安そうに答えてからケイトの方に向き直り、
「私のお婆様もこの学園の合唱部にいて……それで、勧めて下さって……」と、微笑みながら小さな声で言った。
レイチェルの言葉を聞いて、ケイトは「へぇ、ばあさんの代からのお嬢様なんだ」と、少々検討はずれな解釈をしながら、
「まぁ、そうなの……」と、微笑んだ。
出合ったばかりの自分に、気後れせず話しかけてくるケイトに、
「なっ、な、仲良く……しましょうね……」と、少し恥ずかしそうに、もごもごとレイチェルが言うと、ケイトは少し驚き、
「ええ、仲良くしましょうね」と答えた。
ケイトは、少し疑心暗鬼に駆られて「私は、あんたがお嬢様だから、自分の目的に必要だから,仲良くする事にはメリットはある。だが、あんたは、何の目的があるんだ?今日あったばかりの私に何を望んでいるんだ?こいつは……」と、考えていた。
まんざら、ケイトの疑心暗鬼が的外れな考えではなかった。
大人しいレイチェルはメイの強引な態度に逆らえず、小学生の時から少なからず迷惑に思っていて「悪い子じゃ無いのだけれども……」と、分かってはいるが、やはり苦手だ。
だが、そのメイにケイトは逆らった。
あの大柄なメイに、小柄で見た目はとても可愛く見えるケイトが大声で反論した。
それは、レイチェルにとって、頼もしくも見え、又、怖くも見えた。
だから「私には怒鳴らないで」と言う、少し的外れな気持ちから出た、「仲良くしましょう」だった。
そして、ケイトの快い承諾に、内心「よかったぁ」と、ほっと、していたのであった。
廊下を曲がると、既に音楽室の前は新入生の少女達でいっぱいだった。
「ほら、御覧なさい。早く来ないから、あんな状態よ」
メイがケイトの方をチラッと見て言うと、
「私の、せいなの!」と、ケイトは強く反論したが、メイは相手にする気が無い様に、ずんずん進んで行く。
教室の前では、二年生の部員が、
「入部希望者は、此処に名前を書いてくださぁい」と、一年生達に紙を渡している。
五十人ぐらい集まっている生徒達を見て、
「でも……凄い人数ね……」と、ケイトが感心する。
「毎年、こんな感じみたいよ」
「まあ、そうなの?」
「ええ、合唱部は人気が有るから」
一緒に来たクラスメイトの話を聞いて、ケイトは伝統あるクラブの重みを少し感じて「こりゃ大変だ……」と、溜息を付く。
「先生も仰っていたでしょ。学園では、全員がクラブに入る事を義務付けているの。だから人気のあるクラブは集まる人数も多いわ」
「どうして全員参加なの?」
「クラブに入って、その中で上級生が下級生の面倒を見る、また、下級生が上級生の手伝いをする。それによって、社会の縮図の様な物を学ぶのよ」
ケイトの疑問にメイが解説すると、他のクラスメイト達も、
「そうね、だから私達一年生がお行儀の悪い事をしていると、クラブの上級生の方々が先生にお小言を貰ったりするのよ」
「私達一年生は、発表会や試合が近づくと、上級生の方々のお手伝いをしたりして応援するの」
「だから、上級生の方々が良い成績を残すと、同時に私達一年生も褒められたりするのよ」と、ケイトに補足説明をした。
この学園は創立以来百年以上の間、そういった関係を通じて、生徒達の人間性を育んで来た。
「でもね、全員参加と言うのも、少し問題があるの」
「どの様な問題なの?」
「人気、不人気の差よ」
ケイトの質問に、メイが答え、
「文科系は合唱部ね。体育会系は乗馬部。毎年希望者が殺到するわ」と、続けた。
「どちらも長い伝統の中で、様々な栄冠を得て来たクラブだから」
「そうね、だから各クラブには人数制限が設けてあるの」
「合唱部も定員は各学年十五名と決められているのよ」
「そうなの……えっ、だったら……」
定員が十五人と聞いて「……だったら、どうすんだよ、これ……」と、明らかにそれ以上集まっている生徒達を見て、ケイトは茫然とした。
「だから、合唱部に入部するにはテストに合格しないといけないのよ」
「入部するのにテストがあるの?」
クラスメイト達の説明を聞いて「そんな、テストなんて……こんなに希望者が居たら、入れるかどうか分かんねぇじゃねぇか……」と、前途に不安を感じた。
「ええ、人気の無いクラブだと、テストなんてないのだけど……」
「そうね、聞いた話だと、聖書研究部は毎年三人も集まれば良い方らしいわよ」
聖書研究部と聞いて「それは……絶対遠慮したいね」と、ケイトは強く思った。
ケイト達は上級生から入部希望用紙を貰って、クラスと名前を書いて出すと、
「まぁ、今日はこんな所ね。それでは皆さん、失礼するわ」と、そう言い残しメイはずんずんと教室の方に帰って行った。
何処までもマイペースな子である。
そんなメイを見送って、残された五人は互に顔を見合わせて、クスリっと笑いあった。
そして、クラスメイト達がケイトに対して再度自己紹介した。
ケイトを除く四人は、小学校からの進級組みだったため、二、三度同じクラスになった事のある子達であった。
今日始めて会ったばかりの皆に、大きな声ではっきりと喋るケイト。
レイチェルは、そんなケイトを興味深そうに見ていた。
ケイト達は他愛も無い話をしながら教室へと向かっている。
本来なら、廊下は静かに歩くものなのだが、放課後で先生達も居ない中、少女達の会話は楽しく弾んでいた。
ケイトにとっては、とても新鮮だった。
綺麗な校舎、静かな雰囲気、柔らかい言葉、優しい仕草。
スラムに居た頃の、ろくに行っていなかった小学校では、廊下を走り回る生徒や喧嘩をしている生徒を先生が怒鳴り散らし追いかける、なんて風景は日常茶飯事で、最悪な事に、流血事件さえも何度もあった。
ケイトは、この学園に入った事を改めて実感し、
「ばれない様に……ボロを出さない様に……気を付けなければ……」と再認識した。
教室に戻り、鞄を持って少女達は校門へと向かう。
レイチェルは、予定の時刻より四十分も遅れている事が少し心配だった。
「タムラさん、心配してるかしら……」
タムラさんは、ジェファーソン家の運転手さんである。
「今日は、クラブの申し込みの事は言ってなかったから……」
初日の今日は、通常の2時間目で終わると告げていたため、恐らく早めに着てい待っているタムラに対してレイチェルは申し訳無く思った。
校門で皆と別れ、レイチェルはタムラを探す様に見回すと同時にタムラが現れ、
「お帰りなさいませ」と、レイチェルから鞄を受け取る。
「あ、あの、ごめんなさい、遅くなって」
「いいえ、どうかなさいましたか」
「クラブの申し込みに時間が掛かりまして」
「左様でございましたか」
レイチェルの説明を聞いて、タムラは安心した様に微笑んだ。
二人が車に向かう前方で、何やら一悶着が起きている。
ケイトだ。
ケイトが、あの大男の運転手に何やら怒鳴り付けている様に見える。
ケイトは、レイチェルの姿を見つけると「あっ」と、言う表情をしてすぐに、にこやかに笑顔を作った。
きょとんとして見ていたレイチェルに向って、
「ごきげんよう……」と、ケイトは挨拶をして、そそくさと車に乗り込んだ。
ケイトを見ながらレイチェルも、
「ごきげんよう……」と、にこやかに返した。
その姿を見てタムラは、
「お友達でございますか?」と、怪訝そうに尋ねた。
「ええ、同じクラスで受験組みの子です」
タムラは、レイチェルの答えを聞いて、
「道理で初めて見るお顔ですね……」と、ケイト達の方を見ながら納得した様に頷いていた。
そのタムラの目線に大男の運転手が気づき、一瞬びくっとしたのは、レイチェルの勘違いだったのだろうか。
無言で睨んでいるタムラを見ない様にしながら、大男はそそくさと運転席に乗り込み、朝同様、乱暴な発進で車は去って行った。
「どうぞ、お嬢様」
車の後部座席のドアを優雅に開けてタムラが待つと、
「ありがとうございます」と、言ってレイチェルは乗り込み、タムラが静かにドアを閉めて運転席に乗り込み、車は静かに発進して行った。
レイチェル達が来る一時間ほど前、ちょっとした事件が起きていた。
下校時間が近づくと校門付近に、高級車並び始める。
何時もの風景であるが、学園の生徒全員が車で送り向かいと言う訳では無い。
八割ほどの生徒は、巡回している学校専属のスクールバスか、駅からの路線バスで登校している。
生徒達が帰る中、広い歩道脇に一台の高級車が静かに止まる。
続いて、そのすぐ後ろに一台の高級車が乱暴な運転でやって来て急停車する。
二台の車の運転手が、ほぼ同時に車から降りる。
前に止まった車の小柄な東洋人の運転手は、後部座席に何か不手際は無いかと点検を始める。
後ろに止まった運転手は、体中の筋肉が黒いスーツでは隠しきれないほど盛り上がっている2m近くある大男で、車から降りるとボンネットに腰を掛けてタバコをふかしだした。
小柄な運転手が、後部座席をチェックし終わり、満足そうに静かにドアを閉めて、ふと振り向くと、少女達が通る脇でタバコをふかしている運転手が目に入る。
その姿を見つけ、前の車の運転手は眉をしかめ、
「まったく、最近の若いもんは、なんと言う態度だ……不謹慎な」と、年寄りの愚痴にも似た呟きが漏れる。
そんな事をお構い無しに、後ろの運転手は吸っていたタバコを、火も消さずにポイッと歩道に捨てた。
「なっ!」
小柄な運転手は、とうとう黙って見ていられなくなり、大男を睨みながら近付いて行くと、
「君は、いったい何をしているのかね」と、穏やかに問いただす。
大男は「何だとこの野郎」と、言わんばかりに、真っ黒なサングラスの奥から睨み付ける。
睨み付ける大男に、堪忍袋の緒が切れたのか、
「拾いたまえ!今捨てた物を!」と、捨てた吸殻を指差して、小柄な運転手の語尾が荒くなる。
それでも大男が無言で見下ろす様に睨んでいると、
「いいかね!君は、家のお嬢様もお通りになる道に、火の付いたままのタバコを捨てたんだぞ!」と、小柄な運転手は下から競り上がる様にしながら怒鳴り付けた。
通学バスが出て、生徒の流れが一旦途切れた中、道路脇に並んでいる各家の運転手達が眺めている。
各家の運転手たちは「あぁあ、えらい事やっちゃったなぁ」とか「いい度胸してるよなぁ」みたいな事を口々につぶやいているが、誰も止めに入ろうとはせずに、それどころか、にやにやと笑って見ている。
そんな様子を他所に、小柄な運転手は続けた。
「いいかね!そう言う行為がいかに、無様で無礼であることが君には解らんのかね!君の家のお嬢様も、お通りになるだろうが!」と、大声で吠え立てる。
その様子は、小型犬が牛にキャンキャン吠えている様にも見えた。
牛は……いや、大男は「うっとうしいなぁ」と、あからさまな態度で車の中に入ろうとした時、
「待ちなさい」と、言って、小柄な運転手は大男の腕をつかんだ。
それに、とうとう切れた大男が体を翻し、拳を振り上げる。
しかし、放たれた拳は、ぶうぅんと唸りを立てて宙を切った。
大男が「あれっ?」と、左右を見た直後、左手に激痛が走る。
小柄な運転手が、大男の後ろに回り込み、左手をねじ上げている。
「いててててて……」最後は言葉にならなかった。
「そうやって、すぐに暴力を振るうとは、まったく持ってけしからん」
そう言って小柄な運転手が更に締め上げると、
「わっ、わっ、かった、解った、解ったから放してくれ……」と大男が懇願する。
「さっさと拾いなさい」
そう言って、小柄な運転手が大男の手を開放した瞬間、大男は振り向きざまに拳を小柄な運転手の顔めがけ放った。
大男がヒットした事を確信した次の瞬間、自分が宙に浮いている事を知った。
そして、地面へと叩き付けられ腰を強打して、
「ぐうぅ……」と、唸ると大男は、何が起こったのか、まだ理解出来ないでいたが、自分が地面に仰向けになり、腰が痛い事実だけは把握出来た。
「まったく……いいかね、ちゃんと片付けておきなさい」
小柄な運転手が拾った吸殻を倒れている大男に差し出すと、大男は逆らう事無く大人しく吸殻を受け取った。
それを見ていた周りの運転手達は、にやにや笑いから、くすくす笑いに変わり「タムラのおやっさんに手を出すなて……」「あいつ新入りか?」「ジェファーソン家のタムラを知らないのか……」と、皆は口々に言いながら笑って見ている。
大男は立ち上がると、なんとなくバツが悪くなり、受け取った吸殻を自分のポケットにしまうと、服に付いたほこりを、ぱっぱっと払い除けて車の中にそそくさと隠れて行った。
暫くたつと、小柄な運転手は待ち人が予定より遅い事が気になり、校門へと向かった。
校門の側で暫く待って居ると、レイチェルがやって来て、
「お帰りなさいませ」と小柄な運転手は、声を掛けて鞄を受け取った。
その横をケイトが通り過ぎて行く。
ケイトが車に近づいても、運転手の姿が見えないので、
「あれぇ?」と、思って車を覗き込むと、運転手は車の中で腰をさすっている。
「やろぉ……」
ケイトが車の窓をドンドンと乱暴に叩き付けると、運転手は驚き慌てて車から降りて来た。
「おまえは何やってんだよ!」
「すんません……お嬢……」
ケイトの剣幕に、バツの悪そうに誤る大男に向って、
「大体、おまえはだなぁ……」と言いかけて、ケイトはレイチェルの姿を見つけ、
「やばっ」と、思い、すぐさま笑顔を作り、
「ごきげんよう……」と、レイチェルに笑顔で声を掛けると車の中に逃げ込んだ。
---初日が終わって---
レイチェルが車から降りると、壮年のメイドが一人出迎える。
「お帰りなさいませ。お嬢様」
「ただいま、マリアさん」
にこやかに挨拶をしているレイチェルの横から、運転手のタムラがメイドのマリアに鞄を手渡すと、
「ご苦労様です」と、言ってマリアが鞄を受け取った。
レイチェルは家に入り、家族用のリビングに向かう。
そこには、若いメイドと一緒に花を活けている祖母の姿があった。
「ただ今帰りました。お婆様」
「あら、遅かったのね。クレアこれをお願い」
祖母は、持っている花束をメイドのクレアに任せ、
「お帰り、レイチェル。どうだった?中学校は?」と、言いながらレイチェルの方に近付いて来た。
「はい、とても楽しかったです」
微笑みながら答えるレイチェルを満足そうに見ながら、
「着替えてらっしゃい。お昼御飯にしましょう」と、祖母は微笑みながら言った。
「はい、お婆様」
レイチェルは軽く頭を下げて挨拶をして三階の自分の部屋へと向って行った。
着替えが終わって、レイチェルがダイニングに着くと、花を活け終わった祖母がやって来た。
昼食を祖母と食べながら、レイチェルは今日あった事を、祖母に報告している。
「その子は受験組みの、とても可愛い子で、私と同じクラスでしたのよ」
楽しそうに話すレイチェルを見て、祖母は少し驚きながら「今まで学校での出来事なんて、こちらから聞かないと答えなかったのに、今日は自分から話出すなんて……それも、こんなに楽しそうに」と、考えていた。
「その後でね、ケイトがとても大きな声を出したので、私、びっくりしてしまって」
笑顔を浮かべて話すレイチェルは、特にケイトの事になると熱心に話した。
一通り聞き終わると祖母は、
「その、ケイトさんとは、仲良く成れそうなの?」と、レイチェルに尋ねた。
「……まだ、解りませんわ……でも、私は……」
「仲良くなりたいのね」
「……はい」
不安そうに考えながら答えるレイチェルに、
「仲良く慣成れると良いわね……いえ、きっと仲良く成れるわよ」と、祖母は、励ます様に言った。
レイチェルが、あんなに楽しそうに友達の事を話すのは、珍しい事だった。
しかも、今日あったばかり子を。
そんな、まだ見ぬケイトの事を「きっと、とても相性の会う子なんだわ」と、祖母は思った。
今、レイチェルにとってケイトは、怖い印象より、とても新鮮な存在となっていた。
---ケイトの自宅で---
「ただいまぁ」と、ケイトが家に入る。
「おおっ、どうだった!」
「えっ!父さん?何で、居るのよ?」
「このバカ、あんたの事が心配で、朝からずっと居たんだよ」
驚いているケイトの疑問に母親が呆れる様に答えると、
「ええぃ、うるせぇ!」と、恥かしそうに母親を怒鳴り付け、
「……で、どうだった、初日は?」興味津々という目つきで父親が尋ねて来た。
「そんな、初日だよ……まだ何も解らないわよ」
「そんな事無いだろう、何か……何かあるだろうが。ええっと、そうだ、これからも上手くやって行けそうか?」
素っ気無い態度のケイトに、執拗に尋ねてくる父親を鬱陶しく思いながら「ああぁ、なるほど、こいつは心配してんだ……私がボロを出さないかと……何時もは、従業員(子分?)達に偉そうに大ボラ吹いているくせに、意外と小心者だな」と考えると、そんな父親が結構可愛く思えてきた。
「ほら、何だ、ああ言う金持ちの連中とかは、ほれ、意地悪な奴等が沢山居たりしてだな」
「何言ってるの、バカ。安物のドラマの見すぎだよ」
ケイトは父親の心配をあっさりとあしらい、
「あの学園は、筋金入りのお嬢様の集まりだよ。みんな優しくて良い子ばかりだよ」と、ケイトはそう言っている自分の頭の中にレイチェルの顔が浮かんで、少しドキリとした。
その様子に父親が気付き少し怪訝そうな顔をしたが、
「まあ、お前がそう言うんなら大丈夫か」と、納得した。
「クラスには、お前と同じで受験した子もいたかい?」
母親の質問に少し考えて、
「あ、居たね。私も入れて6人だったかな……」と、薄い記憶を探っていた。
「少ないんだね」
「そんなもんだよ。一クラス三十人ぐらいで、四クラスだろ。受験の合格者は二十五人だから……五分の一ぐらいかな」
「まぁ、それだけ難しかったって事だな」
ケイトの話を聞いて、父親が満足そうに頷く。
「だけど、未だに信じられないよ、私が合格したってこと……」
他人事の様に言いながら、ケイトがソファーに座ると、
「勉強はがんばったじゃないか」と、母親がミルクとサンドイッチを持って来てくれた。
「あ、ありがとう……でもあそこは、中学、高校とも入学希望者が多いだろ、各学校からの推薦状の段階で、ほとんど落とされるって聞いてたからさぁ」
「成績や家柄、それに家庭環境なんかも審査されるらしいからね」
ケイトはサンドイッチを飲み込んで、
「……でしょう。あの学園の入学試験を受験した、なんてだけで自慢出来るぐらいなんだもね……私の成績はともかく、その辺がばれないかと心配で心配で……」と言うと、またサンドイッチにかぶりついた。
「へへへ、その辺は抜かりはねぇよ」
父親がにやけながら言うと、
「なにが抜かりは無いだよ……陳腐な細工しやがって……」と、ケイトが食べながら呟いた。
「いいじゃねぇか、上手くいったんだから。俺は代々続く田舎の大地主の三男で、家業のきこりや百姓が嫌いで、金貸しになったってストーリー……悪くねぇだろうが」
ケイトの呟きを聞いて、不服そうに文句を言う父親に、
「家業の林業に農業だろぉが。それに、金貸しじゃなくて、企業専門の融資会社と、不動産業だろぉが……言葉にゃ気を付けな」と、母親がきつい口調で注意する。
「わあってるよ……」
母親にきつく言われ益々不機嫌な顔になる父親に向かって、
「それだよ、それ、それで、よく面接で通ったなぁって……奇跡としか言えないだろ」
「奇跡って、お前……」
馬鹿にする様なケイトの言葉に、父親が情けない顔でケイトに振り向く。
「大金貸してる大地主を脅して、そんな話でっち上げても、あんたがそれじゃだめなんだよ」
「だって……」
さらに母親にも追い討ちをかけられ、父親は益々落ち込む。
「まぁ、そのへんは、父ちゃんのたどたどしい応対が、面接官には田舎者らしい大らかな純朴さとでも見えたんだろ……なんにしても、神様には感謝するね」
日頃、信仰心なんて髪の毛ほども無いケイトが、改めて手を合わせて上を向いた。
「とは言うものの、神様が奇跡的に見逃してくれても、この事がばれると……どうなるか、わかってんだろうね……」
サンドイッチを食べ終わったケイトを睨みながら母親が言うと、
「うっ……わ、分かってるよ、そんな事……」と、ケイトは自信無げに母親から目を逸らした。
「なら良いけどね……」
溜息混じりに微笑んで、母親はケイトの食べ終わった食器を片付けだした。
ケイトは、自分の部屋に入ると同時に、どさっと、ベットに倒れこむ。
強がり言っても、相当神経を使い気疲れして、
「ああ……疲れた」と、正直な感想が洩れた。
ぼうぉっとする、頭の中にレイチェルの顔が浮かぶと「最初は変な奴だと思ったけど……可愛かったなぁ……優しそうな子だったなぁ……あんな子と、友達になれるのかぁ……」と思うと、嬉しくて思わず「うふっ」と、笑ってしまった。
「明日また、あの子に会えるんだ……」
レイチェルの事を思い出していると、不意にメイの顔が浮かび、
「あいつはぁ要らん!」と、つい叫んでしまった。
---入部試験---
二日目の放課後、合唱部の入部試験の日である。
試験の内容は、先生のピアノに合わせての発声と、小学舎の時に習ったポピュラーな童謡を歌い、その後、短い面接がある。
「では、先生の説明の後、名前の呼ばれた人は順番に前に出てください」
進行係りの二年生が、緊張に固まっている一年生に説明している。
音楽室の最前列の机に、ケイト達が座っている。
ピアノの前には、二十代半ばの優しそうな先生が座っていた。
軽くウェーブの掛かった黒髪を、後ろで一つに束ねている少し膨よかな先生は、柔らかく微笑んでレイチェル達一年生を見ながら、押っ取りとした口調でテストの内容を説明して、
「それでわぁ始めますぅ。メアリー・バルバディー、こちらにぃ」と、メイを呼んだ。
一番最初に呼ばれたメイが立ち上がり、
「はい」と、堂々とした態度で返事をして、先生の前に進む。
ケイトは、ある意味、興味津々でいた。
傲慢なぐらい自信たっぷりなメイの実力とは、どれだけの物かと、そして「もし、下手だったら素直に笑ってあげよう」と、少し意地悪な考えを持っていた。
しかしそれは、まったく無駄な考えだった事がすぐに解った。
先生が、単音でピアノの鍵盤を叩くと、ピッタリの音程でメイは発声した。
しかも、大きく綺麗な声で。
「えっ!」
メイの発声を聞いて、ケイトが目を丸くする。
生まれ持って綺麗な声の人はいるが、いきなり、大きな声で正確に発声出来る人は少ない。
ろくに発声も出来ない下手糞なアイドル歌手が、マイクに口を近付けてぼそぼそ歌う姿は良く見る。
その後の課題曲を、綺麗な大きな声で歌って居るのを聞いて、ケイトはメイの歌声に正直聞き惚れてしまった。
ケイトの周りで「流石ねぇ」とか、「メイはやっぱり、上手よねぇ」とか、言っているのを聞いて「おいおい・・・聞いて無いよそんな事……」と、ケイトは唖然としていた。
小学舎から、知っている他の五人は、メイがずば抜けて歌が上手な事を知っていた。
「あなたの事はぁ、小学舎の先生からもぉ聞いているわよぉ。とてもぉ上手だったわぁ」
「ありがとうございます」
先生に褒められて、体型に似合わない可愛い仕草でメイはにこやかに礼を言った。
そしてメイは、ずんずんと言う擬音が聞こえてくる様に席に戻って来た。
ケイトは、まだ呆然とメイの方を見て「はぁ?何者なんだ、こいつは……」と、考えていた。
「でわぁ、次の人ぉ」
先生に呼ばれて、順番にクラスメイトがテストを受ける。
皆、すごく上手だった。
そんな皆の歌を聴きながら「えっ?えっ?これってもしかして、メイは本当に作為的にメンバーを選んだの?」と、ケイトは思えて来た。
手下として選んだのでは無く、本当に上手な子を選んだとしたら、それはそれで凄い事なのだが、裏を返せば「と言う事は……私に恥を書かせる気か?私は、自慢じゃないが、歌の練習なんかろくにした事は無いぞ」等と、とやかく考えているうちに自分の番が来てしまった。
名前を呼ばれケイトは「よし、同じ恥をかくのなら、正々堂々とかいてやろうじゃないか」と、訳の解らない覚悟を決めた。
覚悟を決めたが……やはりがちがちに緊張して「だっ、だめだ……」と、ケイトは自分でも解るくらい、発声で音程がずれていた。
「大丈ぉ夫よぉ、がんばってぇ」
「は、はいっ」
先生が、リラックスする様に掛けてくれた言葉にも緊張するケイトは、そんな自分が情けなく思え、怒りさえ感じ「こうなったら、華々しく散ってやる!」と、玉砕覚悟で次の課題曲をヤケクソ気味に大声で歌った。
歌い終わってケイトは「とりあえず思いっきり歌ってやったぞ!どうだ、ざまぁみろっ。おぉーっ」と、訳の解らない勝どきを心の中であげた。
そして、先生に一礼すると、
「なかなかぁ、綺麗な声だったわぁ。声量もあるしぃ、リズム感もぉ良かったわぁ」と、先生はケイトに取って予想もしなかった、褒め言葉をプレゼントした。
「あっ、ありがとうございます」
予想しなかった褒め言葉に、ケイトは慌てて礼を言った。
帰って来たケイトに向って、メイがうんうんと頷いている。
他のクラスメイト達も、口々にケイトを褒め称えてくれて「あっ、意外といけてました?」と、自分はどうやら恥をかかなかったのだと安心した。
そして、いよいよレイチェルの番だ。
ケイトは「きっと天使のような歌声なんだろうな」と、期待しながら「悔しいけど、どうやらメイは人を見る目があるみたいね……だから、メイの選んだレイチェルは、とても上手なんだわ」と、ケイトは思っていた。
名前を呼ばれて立ち上がったレイチェルに、クラスメイトの三人が口々に「がんばってね」とか「自信を持ってね」とか「気にしちゃだめよ」とか、言って励ましていた。
その、励ましの言葉にケイトは若干の違和感を覚えて「いや、今の励ましの言葉、少し変じゃない?」と、心の中で呟いた。
メイも、レイチェルを睨み付け、
「いい事、何があっても大きな声で最後まで歌い切るのよ。逃げる事は許されないわよ」と、脅迫する様な言葉を送った。
メイの目に少し怯えながら、レイチェルは凄く不安げに頷いた。
ケイトには、みんなが何を言っているのか解らないうちに、レイチェルのテストが始まった。
先生がピアノの鍵盤を叩くと、レイチェルが発声する。
それは、とても綺麗な声だった。
ケイトもうっとりと……しかけたのだが、次の瞬間「何事?」見たいな感じで両目を大きく見開いた。
先生が、少し苦笑しながら次の音を出す。
レイチェルが発声する……ずれている。
物凄くずれている。
ケイトは、まさかの出来事に暫く状況が理解出来ないでいが、ケイト達が座っている席の後方から、くすくすと笑い声が聞こえると、それに、ケイトは敏感に反応して、すべてを理解した。
先輩や他の一年生達が笑っている。
「この……」
思わず、かっと成り、ケイトが振り向いて立ち上がりかけた時、
ばんっ!ばんっ!と、大きな音と共に、
「静かに!」と、叫ぶ声がした。
びくっとして、声の方をケイトが見た。
音楽室の隅に、足を組んで椅子に座っている先生が、手に持っていたタクトで、黒板を叩いたのだ。
ピアノを弾いている先生とは別に、もう一人先生がいた。
ケイトは、自分が歌う事で頭がいっぱいだった為、今まで其の先生に気付かなかった。
三十過ぎ位に見える神経質そうな先生は、細い黒渕眼鏡を掛け、髪の毛を頭上で団子状に束ねて、いかにも、怒らせると怖そうな雰囲気を持っていた。
その、雰囲気通りきっと怖いのだろう。
上級生達は、ぴたりっと笑う事を止め慌てて下を向いた。
「続けて……」
怖そうな先生が、そう静かに言うとピアノの先生は、少し怯える様に、
「はい……」と言って続けた。
レイチェルは、恥ずかしい思いで、顔を真っ赤にして歌っている。
きっと、すぐにでも逃げ出したいのだが、
「途中でやめるんじゃないわよ」って感じで、メイがすごい顔で睨んでいた。
テストは終わった。
最後まで、なんとか歌い切ったレイチェルは、手で顔を覆い、しくしく泣いていた。
「がんばったね……」
ケイトはレイチェルの肩に手を置いて慰めながら、一つの事実を確認した。
レイチェルはすごい音痴だ、と言う事を。
その後の面接では、少し過去の経験等を聞かれた程度だった。
そして、あの怖い先生は、一つも質問してこなかった事は幸いだった。
ピアノを弾いていた先生が、
「ではぁ、後日結果をぉ発表しますぅ。今日はぁご苦労様ぁでしたぁ」と、皆に告げた。
それを、聞いてみんなが席を立ち、教室へと向かった。
教室へと帰る途中、
「どう言う事よ!」と、少し語尾を荒く、小声でケイトはメイに問いただした。
レイチェルは、皆の後ろを肩を落として、とぼとぼと付いて来ている。
「なんの事かしら?」
とぼけた顔で答えるメイを見て、
「とぼけないでよ!あれじゃ、わざとレイチェルに恥をかかせた様に思えるわよ!」と、小声だが、怒りは十分伝わる様にケイトは言った。
それを聞いてメイは立ち止まり、無言で、私が?と自分を指差し、レイチェルを?とレイチェルを指差した。
そして「やれやれ……」と言う感じで、手を肩の高さに上げて首を振る。
「殴るわよ……」
メイのとぼけた仕草にケイトは凄んで見せると、
「馬鹿馬鹿しい、私がそんな事して、何の得があると言うの?」と、メイは少し怒った様にケイトに言うと再び歩き出した。
「まったく、何を聞いていたのよ。レイチェルの歌をよく思い出して御覧なさい」
ケイトにそう言い残すと、メイは一人ずんずんと、教室に向かって行った。
ケイトは「よく思い出せと言われてもなぁ、その、すごい音痴としか……それ以外、印象が無いよなぁ」と、考えていたら、チリィンと小さな鈴の音が聞こえ、ケイトはその音にはっとした。
一緒にテストを受けたクラスメイトの子が、髪を束ねる為に使っているゴムに付いている飾りだった。
学園では、アクセサリーの類は一切禁止である。
十字架等に関わる物は許されるが、外見上見えない様にする事に成っている。
別に校則として書かれている訳では無いが、外見を飾る物は、聖ディオニシウスの娘には無用であるとの判断である。
ただし、唯一、華美に成らなければ、髪の毛を束ねたりするリボンやゴムは暗黙の内に容認されている。
二十年ほど前までは、黒か茶色しか認めらていなかったが、此処に少しだけ時代の流れと言うものが、認められて来た。
小学舎の時、メイの大きなリボンは、一時先生方の間で問題になったが、本人の生活態度や小学舎入学当初からのトレードマーク的なリボンでもあったため黙認されて来た。
ケイトは、その鈴の音を聞いて「なんだったあかなぁ……もう少しで思い出すんだけどなぁ」と、考えていたら「あっ、そうだ、レイチェルの声……鈴……じゃ無い……だけど何、もっと繊細な高い音、ガラス細工を指ではじいた時の様な……それも少し違うな……だけど、イメージはそんな感じよね」と、思った。
人の声を物の音に例えるのは、確かに無理があったが、ケイトは必死でイメージした。
レイチェルの声は、透き通った繊細な高い声と表現すればいいのだろうか、薄い繊細なガラス細工の風鈴が、そよ風にゆられて静かに響くような声。
ケイトはテストの時、レイチェルの第一声には、確かに聞き惚れた事を思い出した。
「あっ、そうか、それで……」
ケイトは、何となくメイの言葉を理解したが「でも、幾ら声が綺麗だからと言ってもなぁ……」と、テストの結果に不安を感じた。
「私、やっぱりだめかしら……」
教室に戻ってから、まだ少し涙ぐんでいるレイチェルが言うと、周りの少女達は少し困った顔をしながら、口々にレイチェルを励ました。
「私、歌が苦手なのはよく知っている積りよ……でも、お婆様が進めてくれたし……」
レイチェルも、自分が音痴である事をよく知っているが、大好きなお婆様が進めてくれた合唱部に入りたい思いは大きかった。
「大丈夫よ、何の心配も無いわ!」
メイが、ビシッと、指を指して断言するのを聞いて「おいおい……その、自信はなんなのよ?」と、ケイトが呆れて、
「よろしかったら、其の根拠をお聞きしたいわね」と、嫌味っぽく尋ねた。
「簡単よ、合唱部の入部希望者の顔ぶれから考えると、落とされる子は想像付くわ」
メイの自信たっぷりの答えを聞いて「はぁ?そっちか!そっちなのか?だったら何、私達が優秀だから合格するのでは無く、不合格の子を引き算して出した答えかよ」と、ケイトは呆れた。
「では、もう一つ聞くけど、その引き算の中には、私やレイチェルは入っていないのね」
ケイトが更に嫌味っぽく尋ねると、
「当然よ!」と、またまた自信たっぷりに答えるメイは、ビシッと指差す例のポーズを決めて、
「いい事、みんな所詮は小学舎の授業で少し歌った程度で大差ないわ。それに、希望者の顔ぶれは大体知っているからハーモニーに向いていない声質の子は想像付くわ。中には、習い事でやっている子も何人か居るみたいだけど数は少ないわね。それに、あなたも理解出来たはずよ、私達六人が優秀である事を」
過去の情報から分析した根拠を自身たっぷりに話すメイを見て「もしもし……何ですかぁ……」と呆れながら、
「確かに、貴方四人は確かに上手だったわよ。それは認めます。でも、私やレイチェルも仲間入りさせて頂いても宜しいのかしら?」と、ケイトは不信感たっぷりに尋ねた。
「私の言う事に間違いは無いわ」
ケイトの不信感などお構い無しに、メイの自信たっぷりの言葉に対して「何処からその自信は来るのよぉ?」と、ケイトは思いっ切り不安になった。
合唱部の練習が終わり、職員室で例の怖い先生が帰る支度をしている所に、中学舎の校長先生がやって来て、
「あら、マクドウエル先生、何か良い事がありまして?」と、尋ねた。
「ええ、校長先生。今年の入部希望の生徒達は、有望な子が多くて」
「まぁ、それは、楽しみですわねぇ」
微笑みながら答えるマクドウエル先生に、校長先生も微笑みながら言った。
---合格発表の日---
「さぁ、行くわよ」
メイが何時もの様に、ケイト達に声を掛ける。
何時もなら「あぁ、やれやれ、又か……」と、思うところだが、今日は事情が少し違っていた。
今日は、合唱部の合格発表がある日だ。
「レイチェル、行きましょうか」
ケイトが声を掛けると、レイチェルは不安そうな顔で頷いた。
新学年が始まって、一週間が経っていた。
この頃に成ると、クラスの雰囲気が出来始めて来る。
メイは、その強引な性格から、何時もクラスの先頭に立っていた。
それは、大体迷惑な事が多いのだが、先生にも物怖じせずに意見するメイは、クラスの皆からすれば頼もしくも見えた。
体操の授業や教室を移動する授業の時も、メイを先頭にケイト達五人が付いて行く。
その、五人のそれぞれの友達も一緒に付いて行くから、クラスの約半数を引き連れての行列となる。
そんな中、ケイトは強引なメイに対して、はっきりと反論や意見をする所から、反目し合っているように見え「メイと敵対関係になるのでは?」と、思ったクラスの子達も多かったが、どう言う訳かケイト自身がメイ達のグループから離れようとはしない。
確かに、何度も「いてもうたろか!」と、殴りたい衝動に駆られる事もあったが、この学園での暴力事件は自殺行為に等しい。
ケイトは、メイの自信過剰なまでの強引な態度に対して湧き上がる殺意を、必死で理性で押さえた。
そんなケイトが、このグループから離れない理由は、お嬢様修行をするのに都合が良かったからだ。
それは、意外にもメイは世話好で、と言うか、口喧しいぐらいお節介で、
「ここでは、こうする事が常識よ」と、一見、強引に聞こえるが、受験組みのケイトに対して、事細かく学園での仕来りを説明立てて教えてくれた。
日頃は、何かと腹立たしいメイの態度だが、そんなメイのアドバイス(?)を、
「あ、なるほど……」と、ケイトは素直に聞いてありがたく思った。
それに、メイ以外の4人は、見ているだけで立ち居振る舞いや言葉使いの手本となるお嬢様で、ケイトにも優しく接してくれていた。
そして、何よりも、とても気になるレイチェルが居るのも理由の一つだった。
日常の学園生活において、ほとんどケイトの意見はメイに無視されるのだが、たまに、メイがケイトの意見を「それもそうね」と、素直に受け入れる時も有った。
その為、ケイトはクラスのナンバー2的な存在に思われ出した。
確かに、このクラスの生徒達は、メイの意見に反論出来ないでいた。
それを堂々とやって退けるケイトは、クラスにとって特別な存在であった。
その上、受験組みで中学舎に入ったケイトは、当然、頭が良いと皆は認識していた。
つまり、決断する大将にメイが、意見する参謀にケイトが、クラスの皆のイメージにすっぽりはまっていた。
メイを先頭に、音楽室にやって来た六人は、教室に張ってある紙に注目して、ケイトは「どうか、レイチェルの名前があります様に……」と、自分の事よりレイチェルの事を心配していた。
ケイトは張り出してある紙を見ながら「自分は、落ちたって、どうって事は無いわよ。合唱部に入りたい訳でも無かったし。落ちたら落ちたで、また他を探せば良いんだし。どうせこの学園では、目標とするお嬢様はごろごろ居るのだから。でも、レイチェルは合唱部に入りたがっている……この子の性格だと、不合格だとすごく落ち込むわきっと。そんなレイチェルは見たく無い。見たく無いもの」と、思いながら教室の掲示板に張ってある紙を上から下へと眺めていく。
そして、そこにレイチェルの名前を見つけて、
「やったぁっ!」と、ケイトが叫んだ。
そして、レイチェルの方を見る。
怖くて見れずに、硬く目を瞑っているレイチェルの手を取って、
「合格よ!合格!」と、ケイトが言うと、レイチェルはやっと、恐々目を開けて張り出してある紙を見た。
他の三人も、口々におめでとうと言った。
「あっ……」
やっと、自分の名前を見つけて、少し涙ぐんでいるレイチェルが、
「あ、ありがとう……」と、祝福してくれている皆に向かって礼を言った。
「ケイト、貴方は?」
手を握っているレイチェルに聞かれて、
「え?私?ええっと、私は……」と、再び発表を見た。
其処にはケイトの名前も有った。
「あ、あった!私も合格よ!」
「ケイトったら……」
改めて喜んでいるケイトを、皆は少し呆れた微笑で見ていた。
ケイトとレイチェルは手を取り合ったまま、飛び上がって喜んだ。
「当然よ。最初から言ってるでしょ」
自信たっぷりにメイが言い放つと「はいはい、今回ばかりは、降参です。すべてあなたの言う通りでした」と、ケイトは素直に降参した。
周りには、それぞれに、喜び合っている生徒達が居る中、残念そうにしている生徒達もいた。
「はあぁい、合格した人はぁ集まってくださぁい」と、先輩が呼びかけ、
「入部届けをぉ記入してぇ今日提出して下さぁい。一年生のぉ活動はぁ来週のぉ月曜日のぉ放課後からにぃなりますのでぇ、月曜日のぉ放課後、音楽室にぃ集合して下さぁい」と、皆に聞こえるように大きな声で言いながら、一人一人に用紙を配っている。
メイ達六人は、用紙にクラスと名前を記入して提出した。
教室に戻った六人は、改めて今日の喜びを噛み締めていた。
「これからもよろしくね」
「此方こそよろしくね」
皆が銘々に挨拶をしている中、
「なんか、不思議だわ……」と、ケイトが呟いた。
「えっ?」
ケイトの呟きにレイチェルが気付き、ケイトの方を見ると、ケイトは静かに天井を見詰めていた。
「どうかしたの?」
心配そうに尋ねるレイチェルに気付き、
「え?あ、いえ、何でもないわ……」と、ケイトは微笑んで誤魔化した。
そして、皆はこれからも一緒にがんばる事を誓い合った。
---家に帰って---
レイチェルは、祖母と二人の夕食の時、合唱部に入った事を報告すると、祖母はとても喜んでくれた。
「私の名前が書いてあるなんて思えなかったから、怖くて見れなかったんですよ。そうしたらケイトがね、私が合格した事を教えてくれましたの」
楽しそうに今日の出来事を話すレイチェルを見て「あらあら、また、ケイトさんね。今日はもう何度目かしら」と、祖母はとても嬉しい気分になっていた。
「レイチェル、私、最近とても楽しいのよ」
「何か良い事がありまして?」
「ええ、そうよ。あなたが毎日楽しそうに学校の事を話してくれるから」
祖母の言葉を聞いて少し恥ずかしかったのか、頬を染めてレイチェルが下を向いてしまう。
そんなレイチェルを見ながら「小学校の時には喋らなかったこの子が、毎日学校の事をあんなに楽しそうに話してくれるなんて」と、祖母が微笑んでいる。
「レイチェル……ごめんなさいね……」
「えっ?」
急な祖母の言葉に、レイチェルは訳が分からず戸惑っている。
「幼かった貴方にとってこの家は、ずいぶんと寂しい所だったと思うの」
「お婆様……」
「あの人も(祖父)、毎日帰りが遅いし、貴方の両親は、方々に出張して何日も帰らない……何時だったかしらね、貴方が両親と会ったのは……随分と前に思えるわ」
「……」
祖母の話をレイチェルは黙って聞いている。
「でも、よかったわ。良いお友達が出来たみたいで。とても嬉しいわ」
「はい」
微笑みながら話す祖母に、レイチェルは笑顔で答えた。
農場経営の事業を広げ、海外にも農場を持つレイチェルの両親は、三、四ヶ月に一度ぐらいしか会えない「そんな寂しい思いを、ケイトさんは埋めてくれているのね」と、祖母はケイトの存在をありがたく思った。
「ねぇレイチェル」
「はい」
「私、ケイトさんに会いたいわ」
「えっ?」
祖母の急な提案に、レイチェルは少し驚いた。
「でも、よろしいの?」
不安げに尋ねるレイチェルに、
「ええ、構わないわ。貴方の大切なお友達でしょ」祖母が笑顔で答えると、
「はい、お婆様」レイチェルは満面の笑みを浮かべて返事した。
食事の後、家族用のリビングで本を読んでいる祖母の所に、運転手のタムラがやって来た。
「大奥様。少しよろしいでしょうか?」
「いいわよ、何かしら」
読んでいた本にしおりを挟んで、祖母がタムラを部屋に呼び入れる。
「お耳に入れておきたい事がございます」
「どの様な事かしら」
タムラは祖母の傍らに立ち、ケイトの運転手の事を報告した。
「お嬢様のご学友について意見する事など、誠に僭越にございますが、わたくしめが今日まで見ておりまして、どうしても良い印象を持てません」
「解ったわ、あなたがそう言うのであれば、ケイトさんの事、考えた方がいいわね」
祖母は若い頃から居るタムラを信頼している。
忠義者のタムラの報告に、嘘や誇張が無い事は十分解っているが、
「でも、でも今は……」と、祖母は躊躇っている。
「しかし、もしケイトさんの事で、お嬢様のお心に傷を付ける事になりましたら……」
「そうね……それを考えると、早めに手を打った方が良いのは解っては居るけど……」
そう考えると、祖母はケイトに無性に会いたくなった。
「解ったわ、タムラ。でもね、暫くはこのままで居ましょう」
其の言葉を聞いて、タムラは頭を深く下げて一礼をして部屋を後にした。
---ケイトの家では---
「ひゃっはっはっは。お前が合唱部だってぇ本当かよぉ」
ケイトは、けたたましく笑う父親のお尻を蹴り上げようと追いかける。
笑いながら逃げ回る父親を見て母親が、
「あんた、お止しよ!ケイトが嫌がってるだろう」と、制した。
「解った!解ったって!止めるから、止めるから許してくれ!ケイト!」
必死に蹴り上げようとするケイトを止めようと、母親の背中に隠れて父親が謝る。
「ちっ……」と、舌打ちしてケイトはソファーにドスッと、乱暴に座る。
「だけど、あんた歌だなんて、大丈夫なの?」
むくれて、そっぽ向いているケイトに母親が尋ねた。
「そんなの、自信なんて有る訳無いでしょ!だから、皆と来週から練習するんだよ……」
不機嫌な顔で「ふん、どうせ私なんか、似合いませんよ」と、思いながらケイトは、ぼそっと言った。
「いやぁ、でも、大したもんだ。試験受けたんだろう?それで、合格したんだから、大したもんだ」
うんうんと、うなずいている父親を見て「いえ、違いますから。落ちた子達がひどかっただけですから」と、ケイトは思った。
「ほれっ、一曲歌ってみろよ、ほれっ」
からかう父親を、ギンッとケイトが睨み付けると、
「ひぇっ」と、父親は母親の影に頭を引っ込めた。
ケイトは再び、ふんっと、そっぽを向く。
「もう……およしよ、あんた」
ケイトが合唱部に入った事が嬉しくて、はしゃぎ回る父親を制止しながら、母親がニコニコしてケイトに向かい、
「でも、ケイト、あんた友達が出来たんだね」と、そっぽ向いているケイトに言った。
不意に言われて、
「えっ?」と、言って振り向いたケイトの顔は少し赤かった。
「友達なんて、ほれ、悪がき仲間の、レイやジェリーが居ただろう……」
父親の言葉が言い終わらない内に、ケイトが大声で
「あんな奴ら友達じゃない!」と、叫ぶ。
「え?でも……」
「あんな奴ら上辺だけの仲間で、自分の都合で裏切る事位、平気でする奴らだぞ……」
そう言って昔を思い出したケイトは「いや、あの頃は自分もそうだったか……」と、唇を噛み締める。
「スラムのゴミだめの奴らに友情なんて無いよ……在るのは、その日を生きる為の欲望だけだ。だから、共通の敵や、共通の獲物が有ると群れるのさ。自分たちが弱い存在である事を知っているからね……」
ケイトは、そんな昔の自分を思い出していた。
「解ってるよ、そんな事。でも、今は出来たんだろう」
母親に言われケイトは、少し恥ずかしそうに、こくっと頷いた。
其の時、合格発表の後、教室で皆と話している時に感じた奇妙な感覚を再び感じた。
「あれ?なんだろう……この感じ……」
「一度、連れておいでよ。その友達を」
考え込んでいたケイトが母親の提案を聞いて、
「えっいいの?でも、やばいんじゃ……」と、複雑な表情をした。
何やら色々な考えが頭を巡り、戸惑っているケイトを見て、
「まぁ、前のゴミだめだと何だけど、この家じゃ誰が来ても恥ずかしく無いだろう。ケーキでも焼いて待っててやるよ」と、母親は気楽な表情でウィンクした。
そんな母親を見てケイトは、嬉しそうに、
「うん、ありがとう」と、素直に答えた。