第三楽章-2:梔子研究所にて
午後8時51分。
暗がりの路地を綿貫菜穂は、時々走るほどの早足で連れを追っていた。
彼女の前には白地に黒字の“単細胞”Tシャツを着た黄緑髪の応力発散が歩いている。
「おい!ドッキリをバラすなら今のうちだぞ!」
「誰がドッキリっつったんだよ。テメェは来んな」
「ぃぃい行くって!!見張りなんだから!」
応力発散はふと足を止め、追いついた綿貫はやっと隣で息をついた。
「……梔子研究所」
「ホントにここから変な音出てんのか?」
「俺が最後に実験を受けた場所だ。潰したくてたまんなかったんだよなァ!」
と不気味に笑い、応力発散は少し前に出た。
「待て待て!!中には人がいるんだぞ!」
明らかに能力を使おうとしていた応力発散の前に立ち、綿貫はブンブンと首を振った。
「もう少し時間待った方が……!」
綿貫は応力発散の拳を避け、ビルの壁に背をついた。
応力発散は綿貫を囲うように手をつき、怒りに満ちた表情で言った。
「おい、テメェ………本気で人間恨んだことあるか?」
「………え」
「俺はある。そうだあの研究所だ。面も覚えてねぇ親なんざ恨まねぇ、俺はガラスの向こうで笑ってた研究員どもをたっっくさん殺せると思うとこの手が疼いてしょうがねぇ!楽しすぎんだろ!これから!あの建物跡形も無くなるんだぜ!」
綿貫は唾を飲み込み、素早く応力発散の頬に平手打ちした。
勢い良く、痕が残るくらい。
「人殺しってみんなそんな事言うんだな!人を恨んだこと!?あるよ!殺したいくらい!でもそんな事はしねぇ!父に母を目の前で殺されても、父を殺したりはしねぇ!………………小学生ん時、刺された母を見て何も出来なかった。あたしも殺されかけて、父は今も警察に捕まってる。もちろん許せないし、もう母の声は思い出せないし、でも他の人に、あたしみたいな思いをしてほしくない!だからお前が誰か殺そうとするなら、全力で止める!」
綿貫は言い終わる頃には涙目になっていた。
応力発散は目を丸くし、何も返さなかった。
袖で涙を拭き、綿貫は研究所に向かって歩き出した。
「あー、ヤなこと思い出した!さっさと変な音システム壊して帰ろ!」
「…………どけ」
応力発散が綿貫の肩をつかみ、自分の後ろに下がらせた。
同時に右手を研究所に向けて握りしめた。
「待っ……!!」
大きな爆発音、衝撃波により一瞬にして梔子研究所の入口が半壊した。
悲鳴はなく、瓦礫が崩れていく音が絶えず聞こえた。
部屋の断面がボロボロに見え、外に点いていたライトは全て消えた。
真っ暗の中、綿貫は膝を地面に落とし、口を塞いだ。
「お前………!」
「よく見ろ」
綿貫は遠見で研究所の断面から人を探したが、誰もいなかった。
機械や紙がバラバラと落ちていくだけ。
「誰も…いない?」
「あのケンカ女の能力が俺のベースだからな、音で中に人がいるかくらいわかる」
「じゃあ何であんな事!」
「テメェの能力を知るためだ。言った内容は本心だけどな………どうやら、視界に入ってねー奴の行動は読めねーんだ……!?」
綿貫はそんなことは全く聞いていなかった。
ボロボロと泣き崩れていた。
よかった、と何度も言いながら袖で顔を擦る。
「……テメェのことじゃねーんだ。泣くことじゃ」
言葉を止めた。
呆れたようにため息をつき、応力発散は半壊した研究所に目を細めた。
壁に背をつき、だらりと座り込んだ。
「………中には一人だけいた。聞いたことある音だ。恐らく昼のアシンメトリー女だ。テメェは家に帰れ、一人の方が楽だ」
すると綿貫は涙を残らず袖に吸収させ、首を振った。
「行くって!ここまで来といて帰るなんて美咲組として名折れだからな!」
「…そんなにあの家大事かよ」
「大事!新しい家族なんだから!誰にも殴られないし、蹴られない、居心地良くてしょうがないんだ!……って、お前に言ってもなぁ」
綿貫は頭を掻きながら、やっと立ち上がった。
「そいえばさぁ、お前、名前ないの?」
「忘れた」
「思い出せないのか?」
「あっても無くても変わんねーだろ」
「あったほうがいい」
「そもそも呼ばれるような事ねーよ」
「今」
応力発散は舌打ちし、立ち上がった。
背の高い綿貫を少し見下ろし、ジーンズのポケットに手をつっこんだ。
「お前が昼に壊した工場にも名前があったんだぜ?お前に無くていいわけがねぇ!と思ってたわけよ。だから考えながらついて来た」
「本ッッ当にめんどくせぇ女だな!見張ってねェじゃねーか!」
「てぇわけで、あの工場壊した責任も兼ねて、名前はお前が引き継げば良いじゃん!と思って」
「話聞けよ!!」
綿貫は笑顔で腕を組み、勝手に自信満々に命名した。
「工場の“黎明”から取って、今からお前は“黎”な!細かい事は知らないんだけど、夜明けって意味らしい!いいじゃん、いいじゃん!早速、変な音システムぶっ壊してさっぱりと夜明けを見るぞ!」
先ほどまで泣いていたのが嘘のように綿貫は拳を突き上げ、応力発散こと黎の手を引いた。
「行くぞ!黎!」
黎は舌打ちしながらも、綿貫に歩幅を合わせながら走った。
音速は使わなかった。
足早に、梔子研究所に堂々と入っていった。
「スピーカーは壊した。あとは地下だ」
「あ、ちなみにあたしの能力は…」
太い配線が垂れ下がる瓦礫の中、黎は微かに聞こえる音波を頼りに走った。
綿貫が言葉を切り、足下を見た。
「何か来る!」
二人の足下に大きな丸い亀裂が走り、床が抜け落ちた。
暗闇の地下から見えた視線に、黎は素早く綿貫を布団のように抱えて穴の前に着地した。
「あのあのー、いきなりやってくれちゃったよねー………………ホントに」
周りの壁にもきれいな亀裂がいくつもでき、簡単に切り崩されていく。
「イライラ」
ガラガラと大きな音を立てて、二人が進もうとしていた道が瓦礫に変わった。
瓦礫を足場に地下から上がってきたのは、昼に見たアシンメトリー女、リリアだった。
「リリアはね、ここの地下室守ってほしいって頼まれてるからー、侵入者はスパスパ斬っちゃうよー!」
リリアが黎の足下を切り崩し、高らかに笑った。
「降ろせ!」
「今降ろしたら確実に死ぬけどな!」
黎はリリアに向かって跳び、右手を握った。
リリアを衝撃波が襲い、その間に瓦礫を一気に滑り落ちた。
「ぎゃあぁぁっ!」
綿貫の悲鳴とともに、暗闇の地下に降りた黎は途中でさらに跳んだ。
切り崩されていない平坦な道を走り、彼は目を閉じた。
壁を勢い良く叩き、ゆっくりと目を開けた。
すぐに追いついたリリアが宙から空振りチョップを構える。
「リリアから逃げるとか、イライラなんだけど!」
しかし、黎は壁に衝撃波をぶつけ、反動で亀裂を避けた。
大きな爆発音は壁に大穴を開け、二人はさらに暗闇に潜り込んだ。
「降ろせって!」
「フザケてんのかテメェ!俺より速く走れんのか!!」
「ヤバい!もう追ってきた!」
追っ手の方を向いている綿貫はリリアの姿を遠見に捉えた。
目を凝らし、言った。
「これから言うとおりに進め」
「あぁ?!前見てねぇくせに何」
「右!」
反射的に黎は右に曲がってしまい、自分でしまった、と思ってしまった。
「待て待てー!」
とリリアの声が響き、暗闇を走りながら黎が速度を上げる。
「真っ直ぐ!」
「どこ向かってんだ!」
黎には微弱な音波が聞こえているので、それと全く反対方向に走っていることにイライラしていた。
「おい金髪!」
「ちょい待ち!一気に読む!」
綿貫は黎の背を肘で打ち、また目を凝らした。
深く呼吸しながら、また指示を続けた。
リリアの攻撃を避けながら、綿貫の指示通りに走る。
「この先の壁、撃ち抜けるか?!」
「壁!?行き止まりか?!」
「できんのか!できねぇのか!」
黎は舌打ちし、右手を前にかざした。
「誰に言ってんだよ」
まだ壁は見えていなかったが、黎は衝撃波を飛ばし、前で何かに当たった音がした。
もちろん破壊音。
見えてきた大穴に迷わず入ると、数え切れないほどのコードが張り巡らされた通路に出た。
「左!」
一方、リリアは焦っていた。
「こいつら、地図なんて入手してないはずなのに!」
大穴の左側に横一線、亀裂を走らせた。
「行かせないんだから!もーマジでイライラ!!」
綿貫は黎の背を叩き、叫んだ。
「下に!」
「開けんだな!?」
黎が跳びながら床に向けて衝撃波を撃ち、二人は一つ下の階に落ちた。
上には亀裂が走り、壁が崩れていった。
二人は暗い通路で真下を見た。
「……この下」
「そのようだ」
黎は綿貫を降ろし、また下に大穴を開けた。
下には真っ白な壁にコンピューターが設置された部屋があった。
「……!降りるな!」
綿貫が黎の腕をつかんだ瞬間、後ろから亀裂が走った。
「ここまできたんだからぁ、落ちちゃいなよ!」
リリアが二人を床ごと落とし、目当ての部屋に着いた。
大きな液晶画面、コンピューター、上部の角にはスピーカーが取り付けられていた。
液晶を見ている白衣の研究員が一人、二人を見ずに言った。
「絶対アルミンが来ると思ったのになぁー、綿貫が来ちゃうとは……想定外だった」
「……あ、アルミン!?」
綿貫は独特な聞き覚えに悪寒がした。
振り向いた研究員に青ざめる。
肩に少し流れるほどの黒髪、赤い花のカチューシャ、白衣の下は黒いタートルネックのピッタリとした際どいワンピース丈で、黒いロングブーツを履いていた。
笑顔で手を振ったのは、同じクラスの箕輪なぎさだった。
「箕輪!?何でこんな所に!?」
「アルミンと、特にその問題児待ってたの。ほら、アルミンに負ける程度の“欠陥品”だから」
「ちょ……欠陥品…って、どうして歩海とこいつが戦った事知ってん…」
箕輪は黒光りする拳銃を片手で構えた。
「そこ、退いてくれる?綿貫ちゃん」
「ちょっと!なに銃なんか持っちゃって!組の人じゃあるまいし、モデルガンとか………てかドッキリなら早く言った方が」
銃声が響き渡り、銃弾が綿貫の左頬を掠め、僅かに血が流れた。
その傷を目で追うように見た。
指でなぞり、血を見て胸の辺りがざわついた。
箕輪がいつもの雰囲気には見えなかった。
陽気で、ほんわかした、美咲の友達ではなかった。
「次は当たっちゃうかも。あぁ、でも避けられるか。そうよねぇ?思考読取」
「…………ッ!」
「あんなにダミー音出してたのに来れたんだもの!リリアの思考を読んだんでしょ?でも予知とか総読取とかしたからもう限界でしょ?思考読取の欠点はぁ、使いすぎると全部痛みになって返ってくる事ぉ!もしかして………正にナウだったりして?」
綿貫は何も返さなかった。
正にナウなのだ。
最後に箕輪の撃った銃弾を頬に逸らせるのが精一杯だった。
朝から今まで何度使ったことか。
ビルからガラスが落ちてきたり。
黎がいる廃工場を探したり。
その黎の衝撃波を避けたり。
リリアの攻撃を避けながら逃げたり。
逃げたり。
この研究室を探したり。
多すぎる。
体中の激痛にひたすら堪えているのが正にナウ、今なのだ。
本当なら『イッッテェェェェ!!!』とか叫んで倒れたい。
しかし今倒れたら終わりだ。
確実に死ぬ。
汗をだらだらと流しながら、綿貫は歯を食いしばった。
痛い。
痛い。
もうわからないくらい痛い。
「…………こんな」
「なぁに?」
箕輪が聞き返した。
と同時に綿貫は叫んだ。
「…こんなの痛いにも入らねェよ馬ァァァァ鹿!!!」
「あぁそう!!じゃあもっと痛くしてあげる!!感謝するのね!元ヤンのクズが!!」
ブチッ
箕輪は綿貫の頭を狙い、銃声が響いた。
と同時に大きな爆発音が研究室を破壊した。
バチバチと切れたコードが放電し、吹き飛ばされた箕輪とリリアが壁に打ち付けられた。
綿貫は耳と目を塞ぎ、これだけの爆発音で一切飛ばされていないことに疑問を抱き、そっと目を開けた。
「………!?」
綿貫の前には、一人の背があった。
周りは白い壁が崩れ落ち、コンピューターも大破していた。
「これで耳障りな音も、無駄な口喧嘩もお終いだな」
綿貫の前で拳を突き出していたのは黎だった。
「来いよクズ野郎、そのアホ面ぶっ飛ばしてやんよ!!」