第二楽章-2:秋元珠理のいた風景
時間、わからない。
白い研究室で秋元珠理が白衣の袖に腕を通す。
「おはようございます、庄司さん」
灰色に近い青髪の女性が秋元に振り向いた。
アルニカはその顔をよく知っていた。
「黄緑君に初めて会った時に捕まえに来てた人だわ!」
そして次にリュウを見ると、驚愕したように口を覆っていた。
「……」
「リュウ、まさかこの人」
「……俺の母親だ」
二人は誰からも見えていないことをいいことに、研究室に入った。
大きな窓が壁の一面を陣取り、それに向かうようにコンピューターがいくつも設置されていた。
庄司美耶子は資料を秋元に手渡した。
「プログラムは完成してる?」
「はい、準備ができたんですね?」
「そうよ、能力のテストは完了してるから問題無いわ。そのプログラムで完成よ」
秋元は一台のパソコンの前に掛け、資料を隣に置いた。
USBメモリを差し込み、ファイルを開く。
目まぐるしい速度で英数字が並び、カタカタとキーボードをタッチする音とともにそれも進んでいく。
「どうやら脳波の操作プログラムだな」
「わかるの?」
「これでも研究所にいるんだ、わからねぇようじゃクビだろ」
庄司が窓に向かうと、アルニカは一人窓に向かった。
アルニカは無言だった。
窓の向こう側には液体の入ったカプセルがいくつも並んでいる研究室だった。
カプセルは人が一人入れる程度で、一人だけ見覚えがあった。
「………黄緑」
額の二つの丸傷はやはりこの実験のものだった。
パッチからチューブがのびている。
何人かの研究員が資料を持ちながらカプセルの前で議論しあい、秋元がプログラミングを終えると、庄司が研究員らを集めた。
「プログラミング後は6回の模擬実験をステップ式に行い、三カ月後に指令を与える形になる。ま、このプログラムが活用されるのは応力発散の強制終了時のみだから、使わずに仕事を終えられるといいわね。それじゃ各自内容を確認してから解散」
研究員らが返事をし、秋元が席を立つ。
リュウが後ろからついていき、アルニカの隣に着いた。
秋元が窓に手をつき、目蓋を少し伏せた。
「庄司さん」
「何かしら」
「……本当に、こんなことが許されるんでしょうか」
秋元はカプセルの中に身を屈めて眠る応力発散を眺めながら言った。
「いくら孤児だからといって、音箱と相性が良いからといって、こんな風に有無を言わさず実験台にするなんて。間違ってるとは思わないんでしょうか」
庄司は考えなかった。
「間違ってないわ」
秋元は唇を噛み締め、窓についていた手を下ろした。
「私は、これが仕事だから、プログラムを命令されたから、彼に信号受信のプログラミングを施しました………でも」
秋元は庄司を睨むように、食いかかろうとするように見た。
「こんなこと間違ってます!研究者として、人として!………もしこの状況に、庄司さんの心が少しも傷まないのなら……もう人ではありません……私は、そう思います」
秋元はカツカツと踵を鳴らしながら、研究室を出て行った。
すると庄司が携帯を取り出し、すぐに電話し始めた。
「プログラミングが終わりました。秋元はド反対ですね………露木にやらせましょう。殺さずに、殺させる」
アルニカは青冷めた。
もしかして、これは……
「……五年前の、ジュリさんが殺される前?」
これから、恐らく翌日に露木陽向がマインドコントロールを利用した殺人を成功させ、秋元を電脳世界の亡霊に変える事件が起こる。
アルニカは歯を食いしばり、研究室を出て行く庄司を追いかけた。
リュウも追って駆け出し、庄司が入っていく別のエレベーターにスライディングした。
さらに下へ、下へ。
開かれたエレベーターから出て行く庄司を追った二人は思わず足を止めた。
だだっ広い工場のようなフロアで、戦闘機や戦車が左右に並べられていた。
作業員の一人が庄司に敬礼した。
「第七基地、報告を」
「大方完成しています。あとは音箱さえいれば比較検証できるのですが」
アルニカは目を見開いた。
音箱とは、自分のことだ。
「代わりならこれからできるわ。そっちにやらせればいいわ。あぁ、でも先に実験参加があるからその後ね」
「わかりました。それまでは重機で検証を」
大きな機械の前に戦車が一台置かれており、一人が手を挙げると全員が耳栓をした。
それも特別大きな。
そしてスイッチを押すと、戦車が壊れる………かと思いきや、壊れずにそのままだ。
咄嗟にアルニカがリュウの耳を強く塞ぎ、目を瞑った。
「アルニカ?!」
「っ……!!」
何が起こっているのかわからないリュウを押さえつけ、作業員がスイッチを押すとアルニカが彼女の耳から手を放した。
と同時にその場に倒れてしまった。
「ちょっ!!おい!」
庄司が耳栓を外し、作業員に告げた。
「確かに成功してるわね。でもまだ少し風が来るから、改善を」
リュウはアルニカの上体を抱き上げ、呼吸を荒げる彼女を呼んだ。
「おい、しっかりしろ!」
すると庄司たちがピタリと止まり、一枚の扉が二人の真下に現れた。
時間が止まったかのように。
メルヘンな扉が開き、二人は青い電脳世界に落ちた。
ミュージックプレイヤーがカランと落ち、アルニカがそれに手を伸ばす。
「何やってんだ!アルニカ、さっきのは…?」
「……前に……きい…た………音波の………」
「マジかよ………まさか守る側になるハメになるたぁな。これがバレたら別の意味でクビだな」
アルニカとリュウの周囲には、いつの間にか獣のウイルスが集まってきていた。
リュウはアルニカの傍で二丁銃を構えた。
彼の能力は“跳躍”というもので、助走をしなくとも五階建てマンションの屋上くらいなら難なく跳べるものだ。
最初にアルニカを助けた時にビルの屋上にいたのも、消え去る時に数歩の助走で飛んだのも、更に言えば美咲の文化祭で襟澤を蹴り飛ばした時もこの能力を使った。
その瞬発力にも自信があるのだが、アルニカを守りながらとなると、この場を動くのは大変危険である。
白いマフラーで口元を隠し、飛び出してきたウイルスに発砲した。
しかし数が多いため、限度がある。
「ったく!煩わせやがって」
リュウは二丁銃をしまい、右手をかざした。
すると身体中から真っ赤な炎が揺らめき、右手からウイルスへと噴き出した。
炎はウイルスにまとわりつき、跡形も無く焼き払った。
まっさらになった事を確認すると、リュウは炎を退かせ、アルニカを呼んだ。
「おい、さっさとログアウトしろ。察するに耳がヤバいんだろ」
アルニカは懸命に首を横に振った。
先ほどの兵器が音波によるものということは確かで、耳も曖昧に声が聞こえるくらいにしか機能していなかった。
感覚も麻痺している。
「……ログアウト、できない」
「は?」
「今、したら………どこに…出るか」
「寮の部屋だろ?」
当然である。
電脳世界は五感のみのネットワークなのだから。
体自体はログインした場所にある。
しかしアルニカは違う。
「……クロちゃ」
リュウはわけのわからないまま、その場で電話をかけた。
相手はすぐに出た。
『何?忙しいんだけ…』
「さっさと来いクソ猫!!アルニカが緊急事態だ!!」
すると電話は相手が即座に切ってしまった。
そしてアルニカの視界の手前にメッセージが現れた。
「?」
メッセージを覗くと、『すぐ行くからログアウトしな』と素っ気なく表示されていた。
しかし、アルニカは少し微笑んで目を閉じた。
その瞬間、アルニカはその場からログアウト表示もなく消えてしまった。
残されたリュウは、荒々しくため息をつきながらログアウトした。