第三楽章-3:本番
『彼女は音箱だ』
聴きながら、襟澤は思った。
あまりクラシックは聞かないし、音楽すらあまり聞かないが、とても大きなオルゴールを目の前にしているようだった。
音に圧倒されながらも、彼は周囲に目を光らせていた。
唯一同じ血を持つ兄弟だから、と要の情報を鵜呑みにしているわけではない。
ただ、彼は冗談では済まない事で嘘はつかない。
兄弟だからこそわかった。
ふと考えた。
要は来ているのだろうか。
と考えている内にアラベスク第一番が静かに終わった。
短く拍手が贈られ、美咲はまた長い瞬きをした。
二曲目が始まる。
軽やかなステップのような一音から始まる華やかな曲。
有名なメロディ。
本当なら目を閉じて聴きたいものだ。
ショパンの華やかな大円舞曲。
個人的には春を思わせる曲だったが、きっと何を弾かれても聴き惚れてしまうだろう。
この緊迫感さえ無ければ…………と思った瞬間、舞台袖で金髪の女生徒が青ざめているのが見えた。
走り出そうとしていた。
美咲はゆっくりと曲を弾き、一音だけを響かせて頭上を見た。
刹那、バチバチとスポットライトが音を立て、体育館は暗闇に包まれた。
襟澤の叫びが響いた。
『空白!』
空白領域内には落ち掛けたいくつものスポットライト。
夜目に慣れない観客には起こっている事は見えていない。
「お嬢!!」
スポットライトのコードから放電があり、美咲は綿貫に腕を引かれ、グランドピアノの隣に二人で倒れ込んだ。
襟澤は走り出した。
予備のスポットライトに自動で切り替わるまで約40秒。
まさか全ての電気が消えるとは思っていなかった。
美咲はフラッシュ恐怖症である。
予備電源のことを知らない彼女は、目を閉じるという予防ができない。
このままでは点灯とともに美咲の悲鳴が確定だ。
と舞台袖に向かおうと走ったが、一瞬で目の前に人影が現れ、襟澤の左手首をつかまれた。
そして腹に強い膝蹴りを受け、舞台袖とは反対方向に飛ばされた。
せき込みながら立ち上がると、遠くにいた影が天井いっぱいに飛び上がり、目の前に着地した。
「貴様が犯人か?」
「はぁ?!……ゴホッ!…………やるかバカ!あんたこそ犯に」
「俺は違う」
襟澤は腹を押さえ、影を見た。
灰色に似た青髪のポニーテール、紺のブレザーに赤いネクタイ、青や緑に白黒のタータンチェックのスラックス。
白いマフラーが見えた。
冷めた眼差しの男は自分より背の低い襟澤の制服の肩を掴み、壁に叩きつけた。
「犯人とピアニストを助けに行こうとする奴以外に立つ奴いると思う?!あんた馬鹿なの?!窒息死させてその頭治してあげようか!」
「あぁ?!ふざけんなムカつく野郎だな!その前に貴様を撃ち殺してやる!」
二人は互いの言葉に凍りついた。
まさか。
「………黒猫?」
「………二丁銃?」
影はふとステージに目を向けた。
「じゃ………あの女は……」
「…空」
すると襟澤は影から強烈な回し蹴りを受け、一気に舞台袖の扉に無様に着地した。
つまり顔面直撃による着地。
[ふざけやがって超痛ぇ!!]
と思いつつ中に入り、襟澤が座り込む美咲の目を覆った瞬間、補助電源による明かりが点いた。
文化祭の楽器や演劇用の道具が並ぶ薄暗い舞台袖の階段の先に、美咲と綿貫は座っていた。
奥ではグランドピアノの前に直撃するはずだったスポットライトの列が落ちていた。
放電も止まった。
「……はぁ、間に合った」
「…………」
綿貫があっと彼を指差した。
「あ、彼氏!何やってんですか!」
舞台袖の階段を這い、美咲の目を覆う襟澤は実に変人極まりない光景だった。
「あ………これは……」
「菜穂、大丈夫よ」
襟澤が手を離すと、美咲は彼に微笑んだ。
「ありがとう」
先生達や片付けをしていた軽音部の面々がわらわらと集まり、舞台では騒がしい観客席に呼び掛ける先生がいた。
「これじゃ続けられそうにないわね」
スポットライトはそのままに、グランドピアノの傷の確認がされた。
美咲は唇を噛み締めた。
曲の演奏が最後までできないことの悔しさ、そして文化祭の最後を飾りきれない悲しさに舞台を振り返った。
「ちょっと!軽音はまだできるかい?」
その場にいた全員が扉に振り向いた。
そこにいた人物に美咲は目を丸くした。
ギターケースを背負って仁王立ちする宮園葵が、真剣な面持ちで言った。
「CYANの曲、カバーしてるバンド、さっさとチューニングしな!」
ギターケースから現れたのは、水色のポップな絵柄のエレキギターだった。
大きく“CYAN”と書かれたギターだった。
堂々と階段を上り、美咲を見下ろした。
「悲しそうって言ってたね。それは本当さ……もっと自由に歌いたかったのさ。でも、キミのお陰で決心ついたよ。キミのステージを失敗なんかで終わらせない!任せてくれる?」
美咲は唇を引き結び、深く頷いた。
こんな形で文化祭を終わらせるわけにはいかない。
「お願いします!」
「行ってくるよ!」
そしてセッティング真っ最中のステージに宮園は上がり、黒光りするマイクスタンドに手をかけた。
ギターを軽くチューニングし、観客席に向かって言い放った。
「えー、お久しぶりです!椿乃峰学園!卒業生かつ生徒会長だった宮園葵でーす!現在、私はシンガーソングライターとして歌ってます!でも、本当はみんなの顔を見ながら、心を込めて歌いたい!みんなに届けたい!椿祭のラスト、みんな聞いて!私の全身全霊を!」
宮園が近くに設置されたアンプにギターを繋ぎ、低く一音。
その眩しさに、セッティングしていた軽音部の面々は口を引き締め、彼女が誰なのかを察した。
一音にギターとベースが重なり、ドラムがリズムを取り始めた。
宮園が歌い出し、館内はステージに夢中だった。
「お嬢!保健室に行かねえと!」
綿貫が美咲に声をかけたが、彼女はステージを眺めていた。
美咲は右足首を捻っていた。
しかし、ステージから目を離すことができなかった。
「…………」
「おい、あんた足捻ってるんだぞ!さっさと……」
美咲の表情を見た襟澤は目を丸くした。
薄暗い舞台袖、眩く光るステージ。
もっと、もっと、あの場所にいたかった。
最後まで曲を弾きたかった。
自分の緊張感、高揚感、流れる音の躍動感、全ての熱はまだここに残っているのに、暗がりで光を眺めている。
わかっている。
この足ではもうピアノのペダルを踏むこともできない。
美咲の頬に一筋、涙が伝った。
「…」
「美咲」
美咲は大きく目を見開き、熱の残る両手に冷たい手を乗せた襟澤を見た。
「保健室。後で俺も行くから」
「………わかった」
美咲は先生と綿貫に保健室へと連れて行かれた。
襟澤が客席を見渡した頃には、電脳世界の彼女であろう男は見当たらなかった。
こうして、椿祭は終わりを告げた。