第二楽章−4:椿祭
ごめん。
朝早く、それだけが聞こえた。
午前6時10分。
美咲は開いたままのカーテンを睨んだ。
そして下を覗いた。
布団が畳んである。
何も書き置きはなかったが、きれいに畳まれた布団がありがとうと言っているように見えた。
特に普段の襟澤を知っているわけではないが、普段のクロの性格なら………、あのような意地悪も、するかもしれない。
美咲は布団を片付け、昨晩に触られた腰を撫でた。
背筋をうんと伸ばし、制服に着替えた。
「うん、考えるのやめよう」
カバンを持ち、寮を一番に出る。
エントランスに出ると、よく聞く声が彼女を呼び止めた。
「美咲さん!朝くらい食べなさい!」
食堂から出てきたのは芦屋だった。
制服の上に質素なエプロンをしている。
緑色の風呂敷を手渡され、美咲が中をちらと覗いた。
おにぎりが3つ入っていた。
「鮭よ!」
「ありがとうございます」
「朝練でしょ?いってらっしゃい!」
芦屋に見送られ、寮を出ると、木刀の入った袋を肩に掛けた綿貫が待ち構えていた。
芝生は避け、美咲に手を振った。
日差しに目を細め、軽く足を弾ませた。
「おはようございます!お嬢!」
「いつも遅刻と戦ってるのに」
「お嬢もそうじゃないすか………と、何か朝から堅苦しいんで、朝練行こーぜ!」
お前の朝練じゃないけどね、と美咲が突っ込んだが、綿貫にはとくに効かなかった。
箕輪は昨日が遅かったようで、まだ爆睡している。
学園に向かって歩きながら、本番で弾く曲の楽譜をパラパラと捲った。
「ねぇ、綿貫」
「あ?」
「……名前とかニックネームで呼ばれると、嬉しかったりする?」
綿貫が意外そうな表情を美咲に向け、何度も頷いた。
「そりゃ友達だからな!呼んでいいのか?」
美咲は照れくさそうに小さく頷いた。
「なんか、この名前も悪くないかなって」
「うんうん!せっかくかわいい名前なんだからさ!じゃー改めてよろしくな、歩海!」
「ょよろしく!な………」
「菜穂だよ!」
更に照れくさくなり、楽譜をカバンにしまった。
「じゃ、じゃあ、菜穂……よろしく」
綿貫が満面の笑みで返し、二人は学園に到着した。
* *
8時30分。
学園の正門が大きく開かれ、数の限られた招待券を持った一般人が中へと進んだ。
椿乃峰学園祭、“椿祭”が開催された。
委員会役員の生徒が整列し、深々とお辞儀する。
パンフレットを配布し、ご案内係の腕章をつけた生徒が背筋を伸ばして立つ。
放送がかかり、生徒会長の花岡紗夜が挨拶した。
【おはようございます。本日は、椿乃峰学園高等学校文化祭“椿祭”にお越し頂きまして、誠にありがとうございます。皆様、どうぞごゆっくり、お楽しみ下さいませ。】
* *
9時03分。
一年B組は大賑わいだった。
美咲は厨房に立ち、料理班とともに異常な数の甘味を盛り付けていった。
ある程度作っておいたものの、すぐになくなった。
箕輪と綿貫は数人の接客班とともにテーブルを急遽増やした。
大いに繁盛していた。
「むぅー、アルミン!予想以上だよお客様!」
「そうね………まさかこれほどとは」
これから昼ご飯の時間帯までと、三時のおやつの時間帯にピークが訪れると予想し、人員も増やしてはいたが、足りない。
8時30分から16時までの7時間半の勝負。
長いと思うかもしれないが、各クラスと部活、委員会に生徒会、パフォーマンスのできる能力者によるステージと沢山の催しがあり、全てを回るには十分な時間なのだ。
美咲は薄紅色に桜柄の小袖を着ており、明らかに厨房からは出る気がない服装だった。
接客班には秋色の着物で統一し、上履きの代わりにゴム底のついた下駄を履かせ、和風に徹した。
バタバタと働く甘味喫茶は開店から一時間経っても、未だに満席だ。
「菜穂、あと一時間で休み時間ね」
「歩海どうすんだよ?」
「ちょくちょく休むから」
美咲は髪を結びなおした。
その時、厨房と客席を仕切る出入り口から声がした。
「お、やってるやってる!歩海ー!」
その声には美咲と綿貫が同時に振り向いた。
菊柄の着物を着た母、美咲歩遊が顔を出していた。
「お母様!」
小声ではあるものの、その表情は輝いていた。
「繁盛してるじゃないか!」
「まぁね、着物チョイスも大成功。ありがとう」
箕輪が歩遊に気づき、メニューを持ってきた。
「いらっしゃいませ!美咲さんのお母様!何か頼まれますか?」
「いや、私はお茶貰えればいいさ」
すると綿貫が大きく首を振った。
「いいえ!とりあえず座って下さい!スペシャルがありますから!」
綿貫と箕輪に歩遊が座らされ、美咲が厨房からパタパタと何かを持ってきた。
テーブルに置かれたのは抹茶のシフォンケーキと紅茶だった。
ケーキは緑色のシフォンの上に生クリームを塗り、小豆を少し乗せたおしゃれなものだった。
「朝から一生懸命作ってましたよ?」
「言うな!」
「ちなみに知人向けスペシャルだそうで」
「言うなって!」
美咲は大慌てで綿貫を厨房へ、箕輪を他のテーブルへと押し出した。
背後で歩遊がクスクスと笑っているのが聞こえた。
「歩遊!……あ、お母様!」
「別に歩遊で構わんのに」
「でもお母様だから。ほら、ケーキ食べて」
歩遊は笑顔で合掌し、ケーキを食べた。
「そういえばよく一人で来れたね。ちょっと遠かったでしょ?」
「あぁ、それなら心配なし!廊下に二人待たせてるから」
「え?!入れたの?!」
入れました。
二人のお付きと正門を潜ったところ、先生が美咲組の組長だと気付いたようで、お付きもいないと不安でしょう、と中に入れてくれた。
「え、えぇー……………?」
歩遊はケーキを食べ終え、席を立った。
「さて、綿貫!娘を少し借りていくぞ」
「はい、どうぞ!」
「どうぞ?!」
歩遊が美咲の両手をつかみ、ニコニコと笑顔で教室を出た。
動揺する美咲に綿貫が手を振った。
「ぉぉおお母様?!」
「なぁに、小一時間借りるだけさ」
「せっかく休み時間空けといたのに!」
「それが今になっただけじゃないか!全く、歩莉によく似たもんだ」
歩遊が連れてきたのは、二年生のクラスの縁日だった。
まだまだ夏は終わってない!的な?とのこと。
「あれ取ってほしくって!」
歩遊が指差したのは、射的の景品のウサギのぬいぐるみとブタの貯金箱だった。
美咲は大層嫌な顔をした。
「あれ、普通に買えるよね?」
「美咲ちゃーん、うちの縁日なめないでよね!」
陽気な声で射的用の銃を渡してきたのは、芦屋のルームメイトである神宮亜里沙だった。
金髪をお団子に結い上げ、制服をビシッと着ていた。
「私たちでアレンジした景品なんだ!あの貯金箱はグリッターシールとストーンデコでキラッキラだよ!」
美咲は歩遊をもう一度見た後、神宮の銃を受け取った。
ちなみに椿祭は現金制で、売り上げはそのままクラスの物になる。
収支の赤字か黒字かは本日1日の売り上げで決まる。
黒字なら材料などの費用以外を山分け、赤字なら生徒たちの自費で支払うという現実的な社会勉強になる、というわけだ。
美咲は射的に200円を渡して、二発だけ銃弾を貰った。
「ちょい、200円で五発だよ?」
美咲は片手で銃を構え、狙いを定めた。
「二個取るなら二発で十分です」
パン!と二発の清々しい銃声に、教室内の全員が振り向いた。
ウサギのぬいぐるみとブタの貯金箱がコロリと台から落ちた。
数秒間、神宮すら言葉を失った。
静かな教室で、一人が拍手した。
「さすがね、美咲さん?」
「あ、芦屋先輩だ」
教室内に拍手が溢れ、神宮が景品を持ってきた。
「いっや、すごいもの見ちゃったわ!大事にしてよ~!」
「あ、ありがとうございます」
そして景品の入った袋を歩遊に渡すと、中からウサギのぬいぐるみを取り出し、美咲に返した。
「これはあんたにだよ」
「……ありがとう」
美咲はウサギのぬいぐるみを抱っこし、懸命に照れ隠ししていた。
「さて、そろそろ私は生徒会かな」
芦屋が言ったので、美咲は生徒会の催しを思い出した。
「たしか、お菓子売ってましたね。紅茶入りの洋菓子とか。あれ美味しかったです」
「ありがと。それじゃ、演奏見に行くからね!」
教室を出て行く芦屋にお辞儀し、美咲は歩遊と教室を後にした。
* *
午前10時34分。
美咲は歩遊と人混みの廊下を歩いていた。
美咲家の賑わいとはまた違った音の新鮮さ。
母と歩くことがあまりなかった彼女にとっては、本日は貴重だ。
しかし、店に戻らなければならない。
「そろそろ戻るだろ?」
「うん、時間あまり作れなくてごめん」
「ステージもあんだから、ちゃんと休んでベストで弾いてもらわなきゃ!」
歩遊は後をつけていたお付きの二人を呼び、美咲に手を振った。
目立つな、着物姿。と思う自分も着物姿なのでなんとも言えないまま、美咲は喫茶に戻ることにした。
「アルミィィィィィン!!!」
今日は忙しい。と思いつつ振り向くと、箕輪が着物のまま走ってきた。
美咲の前に到着するなり、両肩をつかむ。
「アルミンに、お客様だよ!」
続いて綿貫が走ってきた。
「ほら、事件かなんかで家に来た!」
美咲は直感で一番会うのが気まずい奴を想像した。
まずい。
しかし二人に連行された美咲は甘味喫茶をそっと覗いた。
午前10時52分。
奴が座っていた。
緑茶を飲んでいた。
黒髪、黒い瞳、学ランの、昨晩会ったばかりの、襟澤称が座っていた。