第二楽章-3:難関
午後8時49分。
美咲は襟澤の問いかけに返す言葉が見つからなかった。
「どうやったらあんたの学校忍び込めるかな?」
いや、知らないよ。
自分の通う学校に忍び込む方法なんて。
正門以外ないから。
と返したかったが、彼女はひらめいた。
「……音楽室になら」
「え?あ、今じゃないからね?明日ね?」
「明日?無理ね、検問所があるし……」
とここで美咲が言葉を詰まらせた。
招待券があるではないか!
今こそ渡すチャンスではないか。
「………い、……よ……よ」
美咲のゴモゴモが始まり、襟澤が窓のすぐ下にベタリと座った。
しかしゴモゴモはすぐに言葉になった。
「よ、よかったら、その」
「………」
美咲は襟澤の沈黙に止まった。
その表情は部屋の暗さで見えなかったが、美咲には聞こえた。
この部屋はとても静かだ。
一人分の鼓動が増えるだけで美咲にとっては大きな音であったりもする。
「何かあったなら、聞くわよ?」
「……んー、まぁ、色々あったかな」
美咲はベッドの端に座り、ワンピースの裾を整えた。
「……………でも、聞かなくていいよ」
そう、と呟いた美咲はカバンに手を伸ばした。
「アルニカ」
「それをこっちで呼んじゃダメでしょ?」
しかし襟澤は沈黙していた。
呼んでおいてなんなんだ、と顔を覗くと、何とも情けない顔をしていた。
「……今日ここで寝ていい?」
「はぁ?」
「ここで体育座りするからさ。早起きしてちゃんと帰るしさ。ね?」
「座敷わらしみたいで気味が悪いわ」
しかし、襟澤は周りに花が飛ぶような男らしからぬ眼差しで美咲を見てきた。
「くっ!出たな子猫オーラ!本当に何があったの?!」
「……あ、そうだ」
まだこの部屋で寝るの了承してないですよ?
そして私の質問は無視ですか、と美咲が内心でツッコミを入れた。
「この前さ、霧島さんの事とか報告するためだけに会いに来たの?」
美咲は停止した。
「…………え、あの」
襟澤はそれ以上聞かなかった。
情けない顔をしている理由はこれなのか?と疑いつつ、美咲はカバンから最後の招待券を出した。
「あの、実はね」
美咲は彼の前で膝を着くと、両手で招待券を差し出した。
顔を真っ赤にし、ゴニョゴニョと口の中で何か言った。
「そ、その、ずっと渡そうと思ってて」
「もしかして学校に来たのも?」
美咲は頭を縦に振った。
「空いてたらと………忍び込むくらいなら使えばいいわ!翌日が“オール”なのに生徒会に逮捕されても困るし」
「…やっぱり話す」
「ど、どうぞ」
美咲はその場にぺたりと座り、襟澤はゆっくりと話し始めた。
「今日、要に会ってさ…………あんたが狙われてると思うんだよね」
「それで忍び込もうとしたのね。でも狙いが私なら、最後にやるピアノの演奏かも」
「警戒しないとね。監視はできるけど………ねぇ、やっぱりここでうたた寝していく」
襟澤は招待券を受け取り、それをじっと見つめた。
「まだ言ってるの?そんなに家に帰り………」
美咲は言葉を切った。
襟澤の手が彼女の右手首をつかみ、引き寄せた。
体勢を崩し、倒れかかったところを襟澤が強く抱きしめた。
「…ちょっ……え、襟さ…!」
「……」
美咲の体は襟澤の両足に挟まれ、しばらく身動きはとれなかった。
彼女の緊張は頂点に達していた。
一体何が起こっているのか、わけがわからなかった。
頭をぐるぐると回転させ、廊下へのドアに鍵がかかっていることに少しホッとした。
のも束の間、強く抱きしめる手が腰に触れ、その熱に美咲は襟澤のジャージをつかんだ。
「ひっ……!な、何してんのよ!放し…!」
美咲が上を向こうとしたが、彼の手が頭を押さえた。
当たり前ではあるが、大きい手だと思った。
実際、電脳世界での彼は猫なので気にはならないが、現実世界では同い年(現在は猫が年下ではあるが)の男性なのだ。
特に“空白”を使われているわけでもないにも関わらず、呼吸がし辛かった。
襟澤はふと手を緩め、目を丸くしながら美咲を見下ろした。
お互いに、少し涙目だった。
頭をくしゃくしゃと撫で、彼はうまく誤魔化すように笑った。
「ホント、退屈しないよね」
「お前の退屈凌ぎじゃないんだけど!」
「ごめんごめん」
美咲は素早く襟澤から離れ、ワンピースをしっかりと着直した。
顔は真っ赤なままで、さらに襟澤が笑う。
「……あれ、殴らないね?」
美咲は焦りに焦った。
普段ならこんなことをされれば直ぐ様殴っているはずなのだが、炸裂しない。
いや、できなかった。
まさか、と襟澤が身を乗り出した。
「…………動けない、とか」
「うるさいっ!!馬鹿死ね!」
「簡単に人に死ねって言っちゃいけないんだー」
「そのルールはお前には適用されない!」
襟澤が何の苦もなく立ち上がり、美咲の背と膝裏に手をやった。
ふわりと彼女は持ち上がり、いわゆるお姫様抱っこだった。
「ちょっと!」
「鋼鉄の音姫にも可愛らしい一面が~………」
美咲をベッドに下ろし、また髪を撫でて顔を近付けた。
「ね、一緒に寝るっていうのは?」
「ばっ!馬鹿がぁっ!!」
美咲はやっと力を振り絞り、襟澤を殴った。
壁に頭をぶつけ、無言で痛がる襟澤に顔を背けた。
「いたたた。まぁ、そろそろ帰りまふかね」
「……………か、帰りたくないなら、ソファーあるわよ」
襟澤が殴られた頬を押さえた。
「た、但し!寝てる間に何かしないでよ?!オルゴール触るとか!」
「え、じゃあんたはいいの?」
「ダメ!」
襟澤が口を尖らせながら、美咲のベッドを背もたれに座った。
「風邪ひくわよ」
「だからひかないって。ウイルス入ってこないんだから」
「布団も無しで寝られたらこっちが寝らんないわ!」
「いいから寝なって。明日文化祭でしょ?……って何やってんの!」
美咲は何とかベッドから立ち、予備の布団を運んだ。
よろけながらも襟澤に無理矢理かけ、ベッドに戻った。
「おやすみ!私の隣以外ならどこで寝ても構わないから!」
全く!一体何をやっているんだ、あのエロ猫は!と心の中で叫び、枕に頭を叩きつけた。
午後9時25分。
美咲は襟澤に背を向け、布団に潜り込んだ。
「………」
襟澤は掛布団を被り、中で口を塞いだ。
その顔は真っ赤だった。
感触を思い出し、遂に顔を覆った。
「…………何してんの死ねよ俺」
あんな顔で、あんな声出されて、服を縋るようにつかまれて、あんな目で見られたら。
嫌だ、と一言言えば良いのに。
首を懸命に振った。
これ以上、触れてはならない。
彼女はアルニカだ。
触れれば、きっと。
もう二度と、触れることはできない。