第二楽章‐4:馬鹿が風邪を移す。
お母様。
どうして側にいてくれないの?
どうして冷たいの?
どうしてみんな泣いてるの?
…………お母様は、死んでしまったの?
…………殺されてしまったの?
お父様が殺したの?
ねぇ、答えてよ。
教えて!
誰が…………
誰がお母様を殺したの!!
* *
美咲はベッドから勢い良く起き上がった。
午前5時02分。
閉まったカーテンからうっすらと太陽の光が差し込む。
まだ風邪は治っていないようで、咳を二回ほどした。
「……」
早く出ていこう。
美咲はそう思った。
風邪をひいているし、迷惑だろう。
ベッドから出て、小さなこの部屋を見回した。
そこらじゅうに本やコードが散乱しており、「今退けました」感がひしひしと伝わってくる。
美咲は無性にイライラした。
片付けたくなった。
でも風邪をひいている、が治りかけだ。
美咲は本の山に手を伸ばした。
そんなこんなで午前6時19分。
美咲は軽く息を切らしてリビングに出た。
「……?」
美咲がふと見ると、白いソファーいっぱいに襟澤が寝そべっていた。
布団はかけられているものの、うつ伏せで片手をだらりと床にたらし、足も床に軽く投げ出されていた。
美咲が思うに、干からびて死んだ蜥蜴にせめてもの布をかけてやったような光景だった。
口には茶色い食べかす、ソファーの下にはチョコレート味のシリアルバーが転がっていた。
〔これはこいつの主食か〕
美咲は深いため息をついた。
「……ちょっと、いつまで寝てんのよ」
「………………あと25時間32秒…………」
「長ッ!!しかもその32秒は何?!」
彼女のツッコミに襟澤は寝返りをうち、ゆっくりと起き上がった。
「……………気分はどう?」
「き、昨日よりはマシに……その…ありがとう」
「あんまり無理しないでよね?如月に借りまで作っちゃったよ」
美咲は自分の服が青い小花柄のパジャマになっているたことにやっと気付いた。
恐らく襟澤のクラスメイト、如月まりあのものなのだろう。
そして静かなリビングを見回した。
「…………」
美咲が言いたいことがわかり、襟澤はソファーから立った。
「一人暮らし」
襟澤がキッチンの冷蔵庫から麦茶のペットボトルと、食器棚からグラスを二つ持ってきた。
「両親共々、仕事が忙しくて帰ってこないから。母親なんて小学生から会ってないし」
「小学生?!」
襟澤は頷き、グラスに麦茶を注いだ。
すると何か言った。
「………う………ヤバ…………ぶぇっくしっ!!!!」
大きくくしゃみをした。そして鼻水が少し。
テーブルの真ん中にある箱ティッシュから二、三枚取り出し、鼻をかもうとしているのはわかった。
しかしかめていない。
「むぅ…………」
「普通に拭いたら?………ちょっと待てよ?………たしか風邪は」
咄嗟に美咲が襟澤の服の襟をつかんだ。
「風邪なんて引かないんじゃなかったの」
「いや、それは。ほら、時々………」
「何かあったんでしょ!」
襟澤は美咲の手を払いのけ、短いため息をついた。
「あんたこそ何かあったろ。色々と」
美咲は思い出した。
あの少女は………霧島佳乃だった。
風貌はとても違ったが、何故かわかった。
間違いなかった。
「時空領域事件では生徒会に犯人を任せた。でも今回は誰もにわかにしか知らない事件だから、誰の力も借りれない。あんた戦えるのか?」
「それは………」
美咲は声を震わせ、口ごもった。
襟澤がため息。
「俺より自分の心配しろよ」
「何その言い方」
「昨日死んでたかもしれないんだぞ!」
「わかってる!」
「わかってない!」
しかし二人で同時にくしゃみをし、口論が終わった。
「……とりあえず聞かせてもらいましょうか、昨日何があったのか」
「……良いですよ?収穫はあったからな」
二人はテーブルを挟んでお互いにソファーに座り、麦茶を飲んだ。
* *
午後11時23分。
襟澤は大雨の夜道を傘付き自転車で走り抜けていた。
ハンドルに専用のクリップがあり、傘を固定していた。
警報まででていたので、通行人はそこまでいなかった。
「ここら辺だな……」
人の全くいない通りに入り、キョロキョロと美咲を探す。
「探し物?」
「まぁな、………?!」
襟澤は咄嗟に自転車を降りた。
じわじわと髪や服が濡れる。
自転車のハンドルに白くか細い手がかかる。
黒いゴスロリ調の服を着た少女がうすら笑みで会釈した。
「ハロー、ハロー、あの子を奪わせて?」
クスクスと不気味に笑う彼女は黒い傘をさしており、全く濡れていなかった。
「あんた、誰を敵に回してるかわかってないだろ」
「アルニカ」
襟澤はゾッとした。
「とても美しい能力。あの子が欲しい、欲しい、欲しい。」
「………どんなに欲しくてもあんたには渡せない。ってかその自転車返せ!」
そんな要求を一切無視した彼女は自転車をそのままに、襟澤に近づいてきた。
一歩、一歩。
靴音が雨音にかき消され、呼吸する音すら聞こえなかった。
襟澤の前で彼女は止まった。
その先に酸素が無く、雨粒が宙に浮いていたからだ。
「………面白い能力をお持ちね。でも、私はたくさん能力を持ってる」
少女の白い手が襟澤の首をそっとつかんだ。
しかし、そのつかむ握力はまるで女ではなかった。
懸命に歯を食い縛る彼に少女は笑った。
「ねぇ、取り引きしませんこと?」
「…………ふざ………けんな!………」
少女の手が緩んだ。
襟澤が首を押さえて咳をする。
コンクリートの壁に背をもたれた。
「アルニカを護りたいなら貴方を奪わせて」
襟澤が息を飲んだ。
雨音がさらに大きく聞こえた。
そのなかで自分の鼓動が聞こえた。
アルニカなら、きっと今の気持ちも読み取るんだろうな。
襟澤は鼻を鳴らすように、嘲るように短く笑った。
「あっそう。そんなもんでいいならくれてやるよ。ただし、あんたも知ってる事を吐きな」
少女はそれを聞き、不気味に笑った。
「わかったわ。ではヒントを教えてあげる」
少女は襟澤の濡れた頬を撫でた。
襟澤が胸元の黒いレースリボンを強く引き寄せた。
「ちなみに口は無しな。勝手に先客予定してるから」
「あら、残念」
少女は彼の長い髪を軽く退け、耳元で囁いた。
『もし、暗黒領域が女子高生によるただの事件でないとしたら?全てを飲み込むあの領域が、計画され、操られた事件だとしたら?』
襟澤は目をいっぱいに開いた。
そしてそれを考える間もなく少女は囁いた耳の少し下にキスをした。
「ッ!!!」
少女はすぐに襟澤から離れ、また不気味に笑った。
冷えきった体に対し、唇に温度差があったのか、はたまた、ただ単にナイーブなのか、彼は耳元を押さえながら顔を赤らめた。
「いいこと?余計な事に首を突っ込まないことね。でないと先代のように死んでしまうわよ?と、アリシア・フリーデンが言ってたわ」
少女は人差し指を小さな顎に当て、思い出すように続けた。
「それから……私とも戦わない事をおすすめするわ。アルニカは、電脳世界で死んだら現実世界に帰って来られないんですもの。死んじゃうから」
「?!今なんて……!」
少女は上品に笑いながら雨の中に姿を消した。
襟澤はその場で膝を折り、深い、長いため息をついた。
そして肩が震えた。
歯を喰い縛った。
こんなに悔しいことはない。
隣で笑っていた彼女を
前を向いて闘う彼女を
強くて
本当は弱い
大切なパートナーを
こんな形でしか
護れないなんて
自分がこんなにも
無力だなんて
雨と一緒に温かい雨が、襟澤の瞼からいくつも落ちた。
午後11時24分。
襟澤はすぐに美咲を救出し、壊れた自転車をそのままに数分後、帰宅する。