〜間奏〜
午前7時。
綿貫菜穂は第一道場で、ある光景を前に首を傾げていた。
目の前には黄緑髪の青年が壁に背をつけてだらりと座って眠っている。
夕飯であろうものが御盆に乗っており、ご飯がほとんど残っている。
格子からは朝の日差しが差し込み、鳥の囀りが響く。
道場にはこの二人だけ。
美咲歩海を殺そうとした男。
美咲歩海の友達。
この異様な光景になるのには、10分前に遡る。
午前6時50分。
綿貫は第二道場で剣道の素振りをする組員たちに元気良く挨拶した。
もちろん自分も朝練に加わろうと袴姿で竹刀も持っていた。
「おはようございます!」
「おはよう!菜穂ちゃん!」
坊主頭の組員と髭を生やした強面のオヤジたちがにっこりと笑う。
「第一は今日は使わないんですか?いつもは第一ですよね?」
「あ………それが、ね」
オヤジたちは気まずそうに目を逸らした。
美咲組は人数も多いため、道場を分けて素振りをしているのだが、今日に限って全員が第二道場にいた。
「行かないほうが…」
気まずそうなオヤジたちに綿貫はピンと何かひらめいた。
「デカい蜂か何かですか?任せて下さい!ぶっ潰してきます!」
「ああ!!ちょっと!!」
という経緯だ。
蜂よりはるかに厄介なものがいた。
綿貫は美咲歩遊から応力発散とかいう能力者が美咲を殺そうとしている事を聞いていた。
それを知って美咲を助けに昨晩、竹刀を片手に歩遊と外出したのだ。
許せない人物ではあるが、こんな所で無防備に寝られては怒る気も起きない。
ご飯に手を伸ばし、一口つまんでみた。
瞬間。
「〜〜〜〜〜〜!!!?」
しょっぱい!
異常だ!
なんだこのご飯!
綿貫は涙目になり、口を両手で塞いで御盆を見た。
天ぷらに使うはずの塩が入っていたはずの小皿が空だ。
まさか。
「ご、ごいづ!塩がげだのが!?」
その通り。
「ぅぇ……てか起きろよ!ここ使うんだよ」
と急かしたいのも山々なのだが、知らない人を起こすのは誰でも緊張するもので、彼女もまたその一人。
綿貫はそっと応力発散の前に膝をつき、肩に手を伸ばした。
「おーい、起き」
と言いかけて、ふと手を引っ込めた。
しかし一足遅く、その手は強く引っ張られた。
気付けば深緑の瞳が目の前だった。
「…さっきから煩せぇんだよクズ」
突然の出来事に綿貫は目を丸くし、無言だった。
応力発散が起き、大層ご機嫌が悪いようだった。
何も喋らない綿貫に怪訝の表情を浮かべると、彼女は我に返ったように肩をびくつかせた。
「あ!………ちょ、すまん!あー、えっとぉー?」
「何だテメェ?」
綿貫は素早く応力発散から離れ、少し距離を置いた。
「いや!あの、ここ使うから!起こそうと………」
「勝手に使えよ」
「誰か寝てたら使えねぇよ。素振りは声出すし。それよりお前!ご飯に塩とか有り得ないぞ!」
指さされたご飯に目を向けた応力発散は眉間にシワを寄せた。
「天ぷらにつけんだよ」
「……」
「料亭とか行くと醤油じゃないことがあるんだよ。赤っ恥だから覚えとけよ」
「余計なお世話だクズ」
「クズ言うな!しっかし、服汚いな!ちょっと待ってろよ」
綿貫はパタパタと第一道場を出て行き、すぐに戻ってきた。
白いTシャツを持ってきた。
「今度の夏祭りの予備なんだけど、良かったら着ろよ!」
「テメェ、俺が恐くねぇのか」
綿貫は真顔で返した。
「恐い。それに怒ってる。美咲はあたしの友達だし、みんなも美咲が大事なんだ………………でも、美咲組はお前を保護するって聞いてる。なら今日からここの居候だろ?あたしと一緒じゃん」
と綿貫はTシャツを広げて見せた。
応力発散が「げ」とどん引きした。
大きく黒文字で“単細胞”とプリントされている。
「面白Tシャツ!とりあえずってことで!であたし素振りだけするから出てって」
Tシャツを押し付けられ、応力発散はまたそれを広げた。
「全く!朝っぱらから塩辛い飯とか泣けるわー…………っておい!!!」
綿貫が彼の方をちらと見た瞬間、すぐに顔を背けた。
ボロボロのTシャツを脱ぎ、新しいTシャツを着ようとしていたのだ。
つまり現在、上半身は裸だ。
顔を真っ赤にしながら、綿貫は慌てて竹刀を取って彼とは反対方向を向いた。
「ここで着替えるなよ!!」
「素振りでも何でもしてろよクズ」
着替え終わり、応力発散は大きく欠伸をした。
綿貫は口を尖らせつつ、竹刀を構えた。
深く呼吸し、竹刀を振り上げた。
「……オイ」
振り上げたまま、綿貫は応力発散の方に首を向けた。
「何!」
「もっと重心を後ろに。前のめりになりすぎだ」
綿貫がきょとんとしていると、応力発散は立ち上がり、竹刀を下げさせた。
竹刀に手を添え、綿貫の隣で前を見ながら言った。
「中心をよく見て、足の裏全体に力を均等にかけて立つ。竹刀は強く握りすぎると感覚が鈍る」
「………経験者?」
「殺す方のな。殺しに関してなら恐らく習ってねぇもんはねぇな」
「…飯に塩ぶっかけたくせに」
「何つったテメェ」
「別に?」
綿貫はとぼけながら竹刀を一振り。
その様を見て応力発散は頷いた。
「踏み込みが浅すぎ」
「偉そうに!ボロボロTシャツだったくせに!」
「うるせぇ!テメェ余所で素振りしろよ!」
「お前が出て行きゃいいだろ!ついでにそのカピカピの夕飯処理して皿洗ってこい!」
「何で俺が皿洗いしなきゃなんねーんだよ!?フザケんなクズ!」
綿貫は片手で竹刀を応力発散に向けた。
「働かざる者、食うべからず!ったく、じゃあそれ持て!洗いに行くぞ!」
台所には小太りのおばさんや艶やかなお姉さんが昨晩の宴の後片付けをしていた。
「おや、菜穂ちゃん!どうしたんだい?」
「おはようございます!洗い物したくて」
綿貫は応力発散が渋々ながら持ってきた御盆をヒョイと取り上げ、残飯を捨てた。
慣れた手つきで全ての皿を水に浸し、茶碗以外を素早く丁寧に洗った。
その隣で箸を片付けていたお姉さんが応力発散に気付いた。
「おや、お前さんかい?昨日の宴にいなかったのは!勿体無いねぇ、せっかく良い酒もあったのに…」
「早希姉さんは毎日良い酒って飲んだくれてます」
「言うねぇ、菜穂ちゃん。で?お前さん!ご飯どうだった?あたしとそこで皿拭いてる冬子さんが作ったんだよ」
後ろの方でおばさんが手を振った。
「よし!じゃ、茶碗だけ浸けときますね。庭掃除でもしてきます!」
「菜穂ちゃん…若いんだから、外で遊んでらっしゃいよ!」
「ほら、男でも作ってさ。せっかくモデル顔と体型なんだから!」
お姉さんの早希が綿貫の腹を両手で軽く押さえた。
しかし一瞬で綿貫が後退りした。
「誰がモデルですか!!庭掃除してきます!」
台所を足早に出て行った綿貫にクスクスと小さく笑い、作業を再開する二人。
おばさんの冬子が綿貫を追った応力発散をちらと見て微笑んだ。
「おやおや」
一方、綿貫は竹刀を竹箒に持ち替え、縁側に座った。
「そんな柄じゃねぇっての!あ、お前もやる?庭掃除」
下駄を履いて庭に出た彼女に面倒臭そうに言った。
「一人でやってろクズ」
「そっか、じゃあ始めますかね!」
綿貫は一人でさっさと広い庭の砂利道を掃き始め、平らな石垣の上に集めた。
応力発散は無言で去っていき、30分ほどが経過した。
広い庭のホコリや落ち葉をかき集め、綿貫が誇らしげに鼻を鳴らした。
午前8時11分。
「どうだ!超きれい!あとはちりとりを…………?」
と縁側に戻ろうと振り向くと、間近にちりとりが浮いていた。
鉄製の古いちりとりの柄を持っていたのは応力発散だった。
眉間にシワを寄せている。
「………一人でやってろって言ってたじゃん」
「おー、一人でやってろ」
「じゃ何でちりとり持ってんの」
「悪いかクズ」
「いや、悪くないよ」
綿貫はちりとりを受け取り、竹箒を持ち直した。
「ありがとな!」
「……」
綿貫はゴミ集めを開始し、応力発散は屋内に戻った。
一度だけ、彼は庭掃除を続ける彼女に振り返った。
ちりとりぐらいで礼を言われた。
ここは生温い。
居心地が悪い。
彼女は陽の差す庭でちょうど空を見上げていた。
「闇なんか知らずに生きてんだろうな」
言葉には出さなかったが、そう思った。
応力発散は足元の薄暗さを思う。
あの庭は、その中で空を見る彼女は、自分では壊すことしかできないのだと知っている。
この手は闇。
あの庭は光。
庭にいる彼女は………
その先は考えなかった。
結論がある。
闇は、光に手を伸ばしてはならない。
壊してしまうだけなのだから。