第四楽章‐4:美咲家の夜
午後10時頃。
襟澤は治療中の美咲と別れ、廊下をうろうろしていた。
実際、怪我人である美咲が心配なのだ。
違う!と言われそうだがこれは事実である。
そして気になることもあった。
美咲の母歩遊である。
美咲が口にした“彼女”、そして病院で聞いた“アルニカは既に死んでいる”、“アルニカは私の母親だ”。
全てを繋げるにはちんぷんかんぷんである。
そう考えながら広い美咲家をうろうろし、ついに迷った。
首都では珍しく灯りが一切点いておらず、どうやら飲んだくれた誰かが全て電気を消したと推測する。
しかし真っ暗だ。
何か出そうだ。
すると障子越しに蝋燭の灯りが見えた。
襟澤は障子の前で膝をつき、中に人がいるか呼び掛けようとした。
「さっさと入れ」
やけに低い女性の声に襟澤は後退りした。
唾を飲み込む。
障子をゆっくりと開けた。
すると中は蝋燭台に蝋燭、ちゃぶ台、少し褪せた畳の香り、外へと開いた縁側には着流しの女性が座っていた。
美咲歩遊だった。
何故か長い髪を下ろし、風呂上がりなのか、艶やかで色っぽかった。
「だれかは迷子になると思ってな、まぁ座んな!」
襟澤は何故かホッとし、歩遊の隣に座った。縁側の外は砂利で覆われ、池に月が揺らめいた。
大木と蔵が少し奥にあった。
夏なのに夜は涼しげで、風は冷ややかに家に入り込んだ。
「お前さんの話は歩海に聞いた。今日は巻き込んで悪かったな」
襟澤は心の中で首をかしげた。
もしかしたらこの美咲歩遊は、アルニカの正体を知らないのかもしれない。
知っていたなら、美咲は話しているはずだ。
既にクロと一緒にアルニカがいるのをテレビに流されていたりするのだから。
その時点でクロについて聞くはずだ。
自分の娘が見知らぬアイコンと空を駆けていたのだから。
しかし、今日事情を聞いた彼女が襟澤を巻き込んでしまった。と思うのはアルニカの正体を知らないか、美咲がクロが襟澤である事実を話していないかだ。
と思いつつ、襟澤は話を進めた。
「いえ、大したこともしてないし」
「そうか。友達なのかい?よく喧嘩してるから男の子の友達なんていないと思ってた」
襟澤は苦笑した。
そんなに喧嘩してるのか。歩遊も笑った。
「あの子は今まで友達ができなくてねぇ、能力が恐くて誰も近づけもしないって言ってた」
能力が、音波が、恐ろしい。
襟澤の心のどこかが痛んだ気がした。
「……………彼女は……………」
歩遊が笑いを止め、暗い庭を見つめる襟澤を見た。
彼は遠くを見つめて言った。
きっと。
「………彼女は、恐くないですよ」
何か考えて発した言葉ではない。
口から自然に出た言葉だった。
歩遊が目をいっぱいに開いて驚いた。
まっすぐ闇を見つめる青年はまた口を開いた。
「彼女を恐いと一番思ってるのは、彼女自身だと思います。本当は短気で無鉄砲で、少し無謀で………………普通の女の子です」
一切彼は表情を変えなかった。
まだ真っ暗闇を見つめていた。
そして一度瞬きをし、立ち上がった。
「でも彼女は、正義のヒロインですから」
失礼します、と深々お辞儀をした襟澤は部屋を静かに出ていった。
歩遊は彼が消えた隣を見つめた。
夜風が歩遊の髪を揺らし、顔にかかった髪を退かした。
「歩海、不思議なお友達を持ったな」
そう言って笑った。
「お前さんを普通の女の子って言ったのは初めてだ」
それからしばらく彼女は夜風にあたり、そのまま縁側で深い眠りに落ちた。
* *
同じ頃。
応力発散は一人暗い道場に座っていた。
誰にも見つからず、飯さえスルー。
壁に寄りかかり、足をだらりと前に投げ出していた。
上にある木製の格子からそっと入り込む月光が部屋に伸び、彼の足を照らした。
どうしてこんなことになってるんだ。
そう思うのも無理はない。
美咲歩海を殺すはずが、何故か本人の家に迎え入れられる羽目になっている。
あり得ない。
しかも事情をきいたであろう組員も笑顔だ。
拳を握りしめた。
「驚いた」
「?!」
思わず立とうとしたがまたゆっくりと座った。
暗闇から月に照らされたのは美咲歩海だった。
彼にとっては敵であり、仕事でもある。
美咲は髪を下ろし、両手で料理が乗った御盆を持っていた。
「そう思ったでしょ」
「…………」
応力発散はため息をついて目を閉じた。
美咲は何もためらいなく応力発散の隣に膝をつき、料理を前に置いた。
「…………恐くねーのか」
「何が?」
美咲が小さな声で首をかしげた。
彼は歯を食い縛り、美咲の制服の襟を掴んだ。
壁に勢い良く叩きつけ、言い放った。
「俺の仕事はお前を殺すことだ!ここで今俺が目の前で手を握れば死ぬだろ?こんなチャンスはねぇ、途中で仕事は投げ出しちゃいけねーよなぁ」
「………」
何故か美咲は全く動じていなかった。
一瞬目を丸くしたが、すぐに強気な目付きに戻った。
それは応力発散を内心戸惑わせた。
彼が自ら言葉を止め、美咲をまじまじと見た時、彼女は静かに小さな口を開いた。
「……やめたほうがいいよ」
「偉そうに!!何も知らねぇくせに」
美咲が応力発散の言葉を切った。
「知ってる」
応力発散の死んだような瞳をじっと見つめ、美咲は言った。
「今まで私を連れ帰ろうとした人達はみんなこの組の人達が追い返してくれたけど…あなたは一番人間らしいと思う」
「うるせぇ!!!実験台はもう人間て気がしねぇよ!!!何がわかるってんだ!!!!」
「わかるわよ!」
すると道場の引き戸が音を立てて開いた。
闇に溶けそうに、肌以外真っ暗な襟澤が立ち尽くしていた。
場の全てが静止する。
美咲が真っ青になる。
現在の状況。
美咲のそれなりに細い足、そして腹に軽く跨がるように応力発散が膝をつき、壁に手をついている。
その手の横に美咲の頭があり、彼女は身動きが皆無だ。
会話を聞いていなければ、確実に人は勘違いする。
100人アンケートでまさかの100パーセントが出る。
そして襟澤もその一人に仲間入りした。
口の端をギリギリと引き吊らせる。
「……………で?そこのあんたは俺の彼女に何やってんの?」
いや、彼女ではないけど。
ここで離れれば良いものを、応力発散はそのまま応答した。
「別に?殺す前に遺言でも聞いてやろうと思ってな」
「じゃ今あんた殺せばいいんだな?」
じっと睨みあう二人に弾き出された美咲はため息をついた。
襟澤の方を見て少し考えた。
「クロちゃん、ちょっと黙ってて」
「え?!何で?!」
すると応力発散が「ダセェ」と鼻で笑ったので美咲が彼の頬を殴った。
勢い良く、拳を硬くして、美咲から引き剥がされるように飛ぶくらいに殴られた。
美咲は立ち上がり、自分が運んできた食事を指差した。
「食べるのよ?部屋は二階、上がって一つ目だから」
そして襟澤の前に立ち、拳を握ったがすぐに緩めた。
襟澤がヨシヨシ、とでも言うように頷いたので、フェイントで美咲は全力で殴った。
応力発散の方に振り返り、指差した。
「我々美咲組は、貴方を保護します」
美咲はすぐに道場を出ていった。
襟澤が頬を撫でながら美咲を追って出る。
急にまた一人になった応力発散は隣に置かれた夕食をちらと見た。
何故か手を伸ばしてしまう自分に少し不機嫌になりながらも、食事の前で胡座をかいた。
箸を持ち、白飯を並々盛られた茶碗を持つ。
そしておかずの天ぷらを見て一言。
「……………醤油どこだよ」
天ぷらの隣には塩の入った小皿。
何も知らずに彼は塩をご飯へかけ、しょっぱい夕飯に悪戦苦闘しながら夜を過ごした。
一方美咲は二階へ上がろうとしていた。
後ろから襟澤がついてくるため、心なしか足早になる。
足音が聴こえる。
沈黙。
して三秒後。
「………あのさ」
襟澤が話しかけた。
美咲が足を止め、振り向いた。
「何で匿うの?あれ」
聞いて当然の問題を襟澤は述べた。
「そもそも保護って、あれ敵なんじゃないのか?」
「でも殺される」
「あんた殺されちゃ意味ないでしょ」
先ほどの言葉を聞けばこの意見が出るのもうなずける。
『殺す前に遺言でも聞いてやろうと』
「私は殺されたりしないわよ」
「その自信はどこから来るの!実際にあんた殺されかけたでしょ?!」
「でも今生きてるわ」
「ソニックブーム使ってなくても、今生きてられてる自信あんの?」
美咲は視線を落とした。
もし今日、大音響を使う作戦がなければ、美咲はまともに戦って大怪我では済まない大惨事になっていたかもしれない。
襟澤は真剣に言っていた。
美咲の頭をポンポンと優しく叩いた。
「……もっと自分の心配しなよ。無敵の喧嘩姫とか正義のヒロインとか言ったって、女の子に変わりないんだから」
美咲が何か言おうとしたが、襟澤はさっさと階段を上がってしまった。
木のきしむ音、襖の滑る音、そして大きな家の夜の沈黙。
美咲は耳をふさいだ。
目を閉じ、深く息を吐いた。
「………女の子って………」
美咲は一階にある自分の部屋へゆっくり歩き出した。