第四楽章‐1:暗号化された問題
午後7時19分。
美咲歩遊は煙管をくわえながら現状を見た。
綿貫が盾のように美咲と襟澤の前に立ち、露木を睨み付けていた。
リディアは気絶した応力発散と地べたに座っていた。
遠くでサイレンが聞こえ、包囲網がここに敷かれるのも時間の問題と考えた歩遊はため息をひとつ、そして言った。
「リディア、寮長が心配していた。綿貫を付けるから帰んな。でそこ!」
と露木を指差した。
「お前さんは雇い主に伝えな?“応力発散は我々美咲組が預かる”と」
露木は反論しようとしたが、歩遊の冷たい視線に口を閉じた。
綿貫はリディアを立たせ、応力発散をその場で寝かせた。
「行こう」
「……………うん、美咲ちゃん!明日ね!」
美咲がうなずくと、リディアは綿貫と寮へ向かった。
「一つだけ聞きたいことがある」
歩遊が短く聞き返す。
「秋元珠理のアルゴリズムを知る者は?」
美咲はクロのことを思い返した。
ジュリの暗号を解いたのはクロ、つまり襟澤である。
しかしこれをバラせば襟澤がこの先どうなるかわからない。
『チーン』かもしれない。
襟澤の心音が聴こえたが、何故か一切動揺していない。
「知らない」
彼は声色ひとつ変えなかった。
そして美咲に同意を促すかのように聞き、緊張する彼女を覗きこんだ。
美咲はうなずいた。
露木はうなずき、背を向けた。
「研究所のお偉いさんが知恵を絞りきってもわかんない問題でも?」
美咲はヒヤッとした。
襟澤の失笑したようなその言葉に露木は振り返った。
「………その問題が暗号化されているのだ。やはり何か知ってるようだな、今のうち吐いたほうがいいぞ」
「あーらら、あんた研究所の人間だろ。一人消してもなんともないってか?」
美咲があわてて襟澤を止めようとしたが、彼はその腕を軽く掴んだ。
「確かにな。だが俺は殺すのは専門外でな、心理学が向いている。秋元は例」
「……!!」
美咲がいっぱいに目を開いた。
全身に寒気がし、呼吸を震わせた。
襟澤が首をかしげる。
露木は大声で笑った。
美咲の手は震え、力尽きそうな声で呟いた。
「………………思い出した…………珠理さんも、露木光も、お前が殺した!」
襟澤が言葉を失い、美咲の恐怖に満ちた顔を見た。
「私の中には……………珠理さんの記憶がある!」
* *
秋元珠理は記憶に障害があった。
これは単なる推測上の結論である。
実際に説明するとこうである。
秋元は“ジュリ”として五感ネットワークにログインした。
もちろん記憶も。
そして露木光を待ち、自分の体の異変に気付き、自分のホームページに戻った。
そこで彼女は自分が死んでいるところを見た。
しかしそれは違った。
彼女は、自分が殺されているところを見た。
このショックによりジュリの記憶に障害が発生した。
自分にとって都合の悪いこと、辛いこと、衝撃的なことを記憶の奥底に封印したのだ。
それも無意識に、その一部だけを封印した。
“抑圧された記憶”は脳内で固く封じられ、ジュリ自身は誰に殺されたかを覚えていない。
本当は犯人を見ているのに。
しかし、その記憶はふとしたきっかけで甦ることがある。
フラッシュバックである。
無意識に閉じ込めた記憶は恐怖などによって呼び起こされることがあるのだ。
ジュリは何年もの間、絶対に開けてはならない恐ろしい記憶を守り続けた。
しかし電脳世界から消える前にアルニカの体を借りたことで、記憶までもを共有した。
アルニカの記憶はもちろん美咲にも共有され、フラッシュバックを起こした。
まるで自分が受けたことのようにそれは映り、全ての記憶が解放された時、彼女の場合はこの上ない恐怖に変わった。
美咲は恐怖を思い出したのだ。
秋元珠理が頭を撃ち抜かれる瞬間を。
自分が頭を撃ち抜かれる瞬間を。
* *
同じ時間。
アリシア・フリーデンは青白いパソコン画面を睨んでいた。
見ていたのは美咲達の現状の中継画像である。
画面の端にうっすらとキャロラインが電話を持ってくるのが見えた。
「朝霧様からです」
アリシアは長く美しい金髪を膝の上に巻き直し、受話器を取った。
「フリーデン、応力発散はどうなってる」
「今露木が向かっている。でも一つ結論は見えている」
朝霧が低い声で聞き返した。
「応力発散は帰ってはこないだろう」
アリシアは受話器を置いた。
キャロラインが静かに下がる。
また彼女の視線はパソコン画面に戻り、美咲を見た。
「あの着流しの女は………アルニカの……?」
アリシアはまた黙り込み、パソコン画面を睨み付けた。
* *
午後7時18分。
芦屋は現場捜査に入っていた。
辺りにはライトが眩しいくらいにつけられ、電子警察の鑑識が地を這うように調べていた。
芦屋がひび割れたコンクリートの間に何か挟まっているのを見つけ、その場に屈んだ。
「何してんだ?」
芦屋は振り返ろうと膝をひび割れた地にかすってしまった。
「いっ!」
「ちょっと!大丈夫か?」
芦屋が振り向いた先には茶髪の男子生徒が心配そうに彼女の傷を見ていた。
うわ、痛そう。とでも言うような表情でズボンのポケットから深緑のハンカチを取り出した。
「しゃがんで証拠品調べんのは鑑識の仕事だろ?」
「わかってる。ただ……………」
芦屋は先ほど手に取ったものを手のひらに乗せた。
ぼろぼろの赤い紐リボンだった。
男子生徒は首をかしげ、芦屋の横顔を覗いた。
芦屋の苦い表情にさらに首が曲がった。
「私の後輩が………ここにいたかもしれない」
美咲が二つに結んでいた髪のリボンだった。
謎の衝撃波でぼろぼろになり、二度と使えそうになかった。
「でもここには誰もいなかったんだろ?」
「………鑑識にまわ」
大きな爆発音と地響きが芦屋の言葉を止めた。
咄嗟に男子生徒が芦屋の頭を軽く押さえ、下げさせた。
先ほどまで眩しかったライトは音を立てて割れ、全て消えた。
パトカーの赤いライトがキラキラ光るだけになった。
衝撃波だった。
午後7時20分。
鑑識による現場検証は一時中断された。