第一楽章‐2:黒猫
闇に溶けるような黒くしなやかな姿、どこか鋭い金色の瞳、黒猫のアイコンは校舎の柱から降り、アルニカに近づいた。
10時24分。
アルニカはその容姿に呼吸さえ忘れた。
しかしすぐに我に帰り、黒猫アイコンをまじまじと見た。
絶対的な疑問があったからである。
「……黒猫は不正アイコンのはずよ?あんた逮捕されるんじゃ………」
その通り。
花柳の電脳世界においては、国際的にもネットワークを広げているため、世界で不吉とされるものをアイコンにすることは法律で禁止されているのだ。
黒猫は不吉の予兆と伝えられる国があるため禁止アイコンと認定されている。
黒猫は髭を揺らしてアルニカと少し距離を縮めてまた座った。
「……………」
「……………」
沈黙。
果てしない沈黙。
アルニカはこの音のない世界に3秒と耐えられなかった。
「…………何か喋んなさいよ」
「んー、じゃあ………何でこんな所いるの?」
「何そのテキトーな質問。何でって………」
「名前は?」
「答え聞いてから次の質問しなさいよ!私は散歩に………」
「ふーん」
「最後まで聞きなさいよ!!」
「長いんだもん」
「長くないわよ!」
黒猫は少し考えて、頭上にある豆電球がピカッと光ったような表情で喋り始めた。
「俺クロ。よろしく」
「今思いついたでしょ?!テキトーに言ったよね?!てゆーかさっきの質問はもういいわけ?」
黒猫のクロは足で毛繕いして首をかしげた。
「お前の名前は?」
「私は………」
アルニカは少しためらった。
何故なら、自分が“アルニカ”であることがバレてはならないからだ。
これはアルニカの法則であり、約束だ。
しかし、黒猫のクロは自己紹介に戸惑うアルニカを覗き込むように聞いた。
「別に名乗んなくてもいいよ。お前、アルニカだろ?」
アルニカは驚愕した。
バレた。
アルニカの脳内はぐるぐると高速回転した。
頭がぐらぐらし、アルニカは子どもがはっ倒したマネキンのように後ろにまっすぐ倒れた。
さすがに心配したクロは倒れたアルニカの顔に寄った。
「大丈夫か?」
「………駄目だわ、駄目だ……」
そう言った瞬間、空中で爆発音が響いた。
空中で真っ赤な火と煙が巻き起こった。
緊急事態
緊急事態
ファイアウォールにダメージ
ウィルス侵入の恐れあり、直ちに避難
アルニカは素早く起き上がり、大きめの銀の音叉を両手でしっかり持った。
クロが爆発による煙の粒子を見上げていた。
「ウィルス落ちてくるんじゃ」
「猫は下がってなさい?」
アルニカは立ち上がり、空中に飛び上がろうとした。
「?!」
その時、アルニカの身体は宙に浮いたまま止まり、何故か息ができなくなった。
海で溺れているわけでも無いのにアルニカはその場で呼吸に苦しんだ。
酸素をいっぱいに吸っていたわけも無かったため、アルニカの口はすぐに開いて咳き込んだ。
視界が霞んだ。
アルニカが目を瞑った時、その苦しい空間から解放されたように身体が自由になり、勢い良く地上にしりもちをついた。
アルニカは咳き込み、クロが彼女に寄った。
「猫!今のはあんたがやったの?!」
「あれはマズいって!!」
アルニカは煙の粒子が散らばる空中を見た。
その瞬間、爆発のあった方へ強い風が吹いた。
クロが少し浮きそうになったのをアルニカが抱き抱え、音叉を地面に突き刺した。
必死に目を瞑りながらアルニカは細目で爆発した方を見上げた。
視界は薄く、はっきりとは見えなかったが煙はもう消えていて、電脳の壁にぱっくりとはさみで切り掛けたような切り込みが風を吸い込んでいた。
10時32分。
風が止み、アルニカは目をしっかりと開けた。
「今のは……」
「ちょっと幸せかも」
「はい?…………………………あ!!」
アルニカは胸に抱きしめたクロを一瞬で突き離した。
「何いつまでもくっついてんの!!」
「抱っこしてたのお前じゃん」
アルニカは少し頬を赤らめて音叉を構えた。
「この変態が!直ぐ様その首刈ってやる!!」
「貧乳のくせに」
「な?!」
アルニカは音叉を握りしめた。
クロはケラケラと笑った。
音叉が震え出した。
「貧乳?…………ふざけんなよコラ!!その発言が自分は変態ですって暴………………?」
誰か来た!!
………………………
その校舎を前に、女は立ち尽くした。
藤色の長い髪をなびかせ、牡丹色の着物を胸のすぐ下の長いスカートの帯にいれた特殊な着物を着た女は辺りのファイルに少し触れ、耳に手を当てた。
「こちらウィステリア、柊乃森のファイルに損傷はありません。本当に爆発なんてあったんでしょうか?」
「通報は何件もあるわ。明日また調査しましょう」
ウィステリアは額に手を当てて疲れたようにため息をついた。
「了解」
ウィステリアの足音が遠退く。
………………………
「はぁ〜」
正門の柱の陰に身を隠していたアルニカとクロはホッと一息ついた。
「生徒会か、見つかったらオワリだったな」
「あんただけほっぽって生徒会に解剖でもさせればよかった」
「解剖はしないだろ」
アルニカは立ち上がり、スカートを直した。
クロは毛繕いをしてアルニカを見上げた。
「帰るの?」
「ええ、明日の授業に眠気が響くわ。あんたは帰らないの?」
クロは少し沈黙し、
「うん」
「あんたの職業は知らないけど、現実世界に支障の出るほどつないでるのは危ないんじゃないの?」
クロは首をかしげた。
まるでぬいぐるみのように。
アルニカはその仕草に複雑な感情を憶えた。
何故なら、クロは声からして男性であるのが明らかであるにも関わらず、今の仕草にアルニカはぎゅっと抱きしめたくなるような気持ちになってしまったからである。
アルニカが精神的に少し困ったところにクロはさらりと言った。
「きゅっと抱きしめたくなっちゃった?」
アルニカは顔を真っ赤にして必死に否定した。
図星なんだ、と誰でもわかるような表情で。
「そ、そんなわけないじゃない!私帰るから!あんたもさっさと帰んなさいよ!?」
アルニカは口を尖らせてクロを背にログアウトした。
アルニカの姿は粒子となって消えた。
クロはその粒子を眺めて呟いた。
「支障…………ねぇ」
強風が電脳の雲を吸い込んだにも関わらず月はクロを明るく照らした。
何もなかったかのように、月は群青の夜に頬笑みかけていた。
* *
翌朝、アルニカこと美咲歩海はベッドから出れずにいた。
目覚まし時計がうるさく鳴り響く。
「眠い………」
昨夜、ログアウトした後に美咲はあの爆発と黒猫について考えすぎて一、二時間しか睡眠できていないのだった。
テキトーにクロと名乗った不正アイコン。
会った直後に起きた爆発。
全てを吸い込みそうだったあの強風。
ぱっくりと切ったようなあの切れ目。
そしてクロが生徒会と認識した藤色のウィステリアの声。
あの聞き覚えのある声は…………。
でも美咲は爆発に疑問を抱いていた。
「あの爆発音、何か変だった」
その間近で聞いた爆発音による疑問が頭を離れずベッドの上で何十回と寝返りをうった。
結局寝たのは朝日が昇る頃だった。
目覚まし時計を手探りで見つけだし、美咲は勢い良く音速でそれを投げた。
目覚まし時計は壁に勢い良くぶつけられ、ネジや歯車などが飛び出るほどに壊れて地に落ちた。
静かになった202号室、美咲はむくりと起き上がった。
「今何時よ」
……………………
美咲は壊れて時を刻まない目覚まし時計に走り寄った。
現在時刻8時25分。
登校本令は8時30分00秒。
…………………
美咲は超高速で制服に着替え、昨日用意しておいた準備万端のカバンを持った。
8時27分。
美咲は女子寮を出た。