第一楽章‐1:アルニカの正体
後書きに本当の後書きを載せた馬鹿者を、どうかお許し下さいませ。
午後二時ちょうど。
椿乃峰学園女子の生徒らは下校時間になっていた。
一年生の教室はいつものように《音姫》の噂で持ちきりだった。
一年生の間では《オルゴール》の美咲歩海をそう呼んでいた。
理由は単純だった。
「美咲さん、全ての楽器を演奏できるんですって」 「同い年でも尊敬するわ。だって能力値が十段階の十なんだもの!」
「椿乃峰のエースも夢じゃありませんわ!」
美咲歩海はあらゆる楽器を奏でる事ができる。
楽譜がなくてもあらゆる楽曲を奏でる事ができる。
美咲はそんな噂を素通りして学園を出た。
本日は快晴。
雲なんてどこにも見当たらない。
少し出かけてもいいが、美咲には少し厄介な用事があった。
それは朝8時03分にさかのぼる。
一年B組の美咲歩海の机がバシン、とたたかれた。
「今日から寮生活スタートだよね?案内してあげる!!」
生徒会書記、芦屋千代が一年B組に乗り込んでいた。
もちろん一年B組の生徒はみんな不思議、かつ興味深い芦屋と美咲の会話をひっそりと聞いていた。
美咲は可愛らしい桜色のメモ帳で全面否定した。
〔全力で拒否します〕
「大丈夫!私も寮生徒よ、あなた寮は初めてらしいし一緒に行ってあげるって!」
美咲は話半分に聞いているので、めんどくさそうに返答。
〔いなくても部屋わかります〕
「とにかく放課後正門で待ってなさい!」
美咲は呆れてページを変えて書いた。
〔それ、何かかこつけて私に喧嘩売ってるみたいですよ?〕
………。
また書いた。
〔あ、もしかして誤認逮捕の謝罪に来たんですか?〕
「やかましい!」
芦屋はさらに机をたたいた。
「とにかく来なさいよ?」
芦屋は少しご機嫌ナナメで帰っていった。
隣の席からポニーテールの女子生徒が話しかけてきた。
「あの方、生徒会の芦屋様でしょう?お知り合いなの?美咲ちゃん」
美咲はメモ帳にまた書いた。
〔一度喧嘩売られた〕
女子生徒はメモを見て苦笑いした。
〔浜風は寮?〕
女子生徒浜風莉子は手をひらひらと小さく振った。
「私は帰宅生徒よ」
〔そ〕
というわけだ。
そんなわけで美咲歩海は正門に来ているのだ。
美咲の前には制服を一点の乱れもなく着こなした芦屋が立っていた。
帰る生徒らの人混みの中で芦屋が喋った。
「来ないと思ったわ」
美咲はメモにボールペンで書いた。
〔耳栓〕
芦屋は額に手を当ててため息をついた。
「……しないと会話できないわけ?」
美咲はカバンから木工ボンドを取り出した。
「……瞬間接着剤で付けてあげようか?」
「何で持ってんの?!しかもそれ瞬間でくっつかないし!!」
「じゃ」
美咲は勝手に正門を出て女子寮に向かった。
「あ、ちょっと!」
芦屋がその後を追い、結局二人で女子寮に向かった。
寮の前には草花がきちんと管理された芝生の広場があった。
ちょうどそよ風が満開の桜を揺らし、花びらを舞わせた。
わざわざレンガで道まで作られていたが美咲は平気で芝生をぐしゃぐしゃと踏んでいた。
「荷物は届いてるはずよ、さっさと終わらせましょう?」
「引っ越し屋?」
美咲は小声で強気を忘れずに返答した。
「給料は無いからね」
「手伝ってあげるって言ってるの!」
二人は女子寮に入っていった。
オートロックの扉を抜け、まるで城のような玄関ホールを前に美咲は目を輝かせた。
白いタイル床にアンティークな照明、美しい弧を描く二つの階段、その先の壁には日の光を彩るステンドグラス、芦屋は美咲のために止まってくれた。
「すてきでしょ?」
「……とても」
芦屋がニヤニヤしているのに気付いた美咲は少し恥ずかしそうに美しい部屋から目を反らした。
「へ、部屋は202。案内だけでいい」
「見られたくないものがあるの?」
美咲は呆れるように弧を描く階段を上った。
芦屋は階段を駆け上がり、美咲をすぐに追い越した。
二階に上がり、左側の廊下に案内した。
赤に金の縁どりのカーペット、所々に置かれた小机に置かれた花瓶にはよく映えたホワイトレースフラワーが生けてあった。
一輪でもきれいだが十数本生けてある。
「202よ」
「わざわざどうも」
「さぁて!ちゃっちゃとやっちゃいましょ!」
「え、ちょっと……」
芦屋は肩を回し、202の扉を開けた。
「失礼しまーす♪」
美咲が止める間もなく芦屋は部屋の中へ入っていった。
赤に金縁のじゅうたん、白い壁に大きな窓、白いベッド、ドレッサー、段ボールの山はあれど、文句無しの美しい一人部屋!
部屋を入居者より早く物色した芦屋は手を組み、くるりと回って目を輝かせた。
「新鮮!最高!」
「見たかっただけね」
「だって私は二人部屋なのよ?!」
美咲は石化した。
まるで魔法でもかけられたように。
「まさか」
芦屋は可愛らしくウインクした。
「私も寮生徒よ☆」
「却下」
「教室で言ったよね?!それに私は先輩よ?少し礼儀をわきまえたらどうかしら?」
芦屋が腕を組んで上から目線を美咲に送った。
その視線に美咲は強気な態度を返した。
「また喧嘩売ってるんですか?」
二人はじっとにらみ合い、20秒後、芦屋は深呼吸して気持ちを切り替えた。
「引っ越し済ませてからじっくり反省しましょうか」
「逃げるわけ」
美咲にはそうとしか見えなかった。
売られた喧嘩、買った喧嘩、それを売った本人が『引っ越しの方が先ね』と後回しにしたのだから。
口を尖らせる美咲に見向きもせずに芦屋は辺りを見回した。
「血の気が多いのは女性としてどうかしら」
美咲は低めの音をぐわんぐわんと響かせた。
焔地色のカーテンを静かに開け、芦屋はふと息をついた。
ふわふわの黄色のカラビナポーチから銀の音叉を取り出し、震わせた。
「やっぱり一人で来るんだった!」
音叉を芦屋に向かって振り上げた瞬間、芦屋が振り返った。
一瞬。
芦屋は美咲の右手の音叉を叩き落とし、手首をそのままつかみ上げて美咲の腹を支えた。
美咲の身体はふわりと浮き、床に叩きつけられた。
思うに、背負い投げに近かった。
美咲は、何が起こったのかにわかに理解しかねた。
ただ受け身を知らない美咲はまともに頭を床に叩きつけ、脳内で鐘のような低い音が響いた。
掴まれていない手で頭を撫でた。
「痛ァ………」
「少し頭冷えたかしら?」
美咲は芦屋を見上げて睨み付けた。
芦屋は美咲の腕を引き上げ、立たせた。
「やっぱり手伝いいらない。一人でやる」
「まぁ、そんなに一人がいいなら仕方ないか。私は反対側の棟の305にいるから、何かあったら来なさいね」
「うん、絶対行かない。」「社交辞令って言葉が脳内に無いのかしら」
「じゃあ…………」
美咲は満面の笑みで部屋を出る芦屋に言った。
「片付けが終わったら必ずお伺いしますわ」
「やかましい!社交辞令丸見えじゃない!!」
芦屋はまたご機嫌ナナメで扉を閉めていった。
* *
10時18分。
美咲歩海は片付けを終え、ベッドに一人座っていた。
部屋は真っ暗でよく見渡せず、芦屋が日のあるうちに開けた窓から部屋を覗く月の光のみが美咲を照らしていた。
「は………るの……うら……ら……の………すみだがわ………」
美咲は小さく、口元に耳を近付けなければ聞こえないくらいの声で、《花》を口ずさんだ。
作曲者、滝廉太郎が好きなわけでもない。
この曲も小学校の音楽の授業でみんなで歌うような思い出しかない。
しかし美咲には、そんな思い出さえない。
会話する人に耳栓を渡すくらい自分の《膨大な音波》を知る美咲が、音楽の授業で歌うわけがない。
みんながピアノを囲えば、美咲はドアの隅っこで口を堅く閉ざす。
リコーダーも、みんなが楽しそうに楽譜を見ながら吹けば、美咲は下唇を開けて空気を逃がし、吹き真似して楽譜を閉じる。
美咲歩海は絶対に精一杯の楽しい歌声を響かせない。
今口ずさんだ歌も微かな音波を部屋に響かせ、美咲の目蓋をゆっくり上げさせた。
「ログイン」
そう言った瞬間、美咲はベッドから姿を消して電脳空間へ接続した。
桃色のスカートの服、青いリボン、桜色の髪と瞳、群青の電脳の夜空を音速で軽やかに駆けた。
美咲歩海は《アルニカ》になって夜空を走り抜けた。
七不思議の一つ、主に夜しか現れず、ウィルスを圧倒的な速さで駆除する謎の少女アイコン《アルニカ》は、美咲歩海のことなのだ。
でも誰もそれを知らない。
美咲は自ら決して《アルニカ》の存在を語らない。
この秘密が自分から一語一句洩れないために、美咲は《アルニカ》の存在を、正体を決して明かさない。
「夜の電脳は静かだからね。のびのび散歩できるもん」
ウィルス駆除ツールを備えたアイコン《アルニカ》は、花柳で駆除仕切れないウィルスを駆除し、管理する。
しかし美咲歩海はそれを二の次として、音速電脳散歩を楽しんでいる。
時間帯として学生の消灯時刻を過ぎている今、《アルニカ》は誰の目にも映らずに散歩ができるのだ。
群青の空を仰ぎ、音速で空間を駆け抜けた。
風が髪をなびかせて、アルニカはその時間、一日の中で唯一の自由を手にしていた。
その時、少し遠くでよからぬ音波を察知した。
アルニカは直ぐ様音波をたどって走りだした。
隔離区域の共学高校、紫陽花学園の近くのようだ。
すぐに到着し、ウィルスも確認した。
学園のメインフロアで赤く炎をまとった犬のようなウィルスが三個、うろついていた。
メインフロア、つまりホームページのトップである。
全てが立体化したこの電脳世界ではホームページも立体的な校舎となり、公的ファイルも校内を浮いている。
アルニカは施錠された正門を音速で飛び越え、ウィルスの前に立った。
辺りには誰もいない。
あまり人前で駆除するのは気が引ける。
何故なら
「恥ずかしいもん」
アルニカは瞬時に大きめの銀の音叉を両手で持ち、震わせてウィルスの前に走った。
音叉が触れると、ウィルスはたちまち光の粒子となって消えた。
何秒も経たずにウィルスは消え、粒子が地に溶け込んでいくのをアルニカは見ていた。
「お見事じゃん」
「?!」
アルニカは今までにないくらい驚いた。
確かに辺りには誰もいなかったはず、ならばこの声は………隠れていたのか?
メインフロア正門の柱、アルニカが振り返った先は電脳の月の光を遮る建物の影のせいで真っ暗だった。
アルニカの脳内でたくさんの言葉がぐるぐると駆け巡った。
もし有人アイコンだったら?
もし自分が《アルニカ》であるとバレてしまったら?
その恐怖心の奥底で、好奇心が光った。
そこにいるのは何だろう?
まるでお化け屋敷の中で不自然に鳴った黒電話の受話器をそっと取ってみたくなるような。
危険なのは承知の上でも、そこにある何かを確かめたくなる、そんな好奇心にかられて、アルニカは口を開いた。
「………誰か、いるの?」
真っ暗な柱から何かが静かに降りる音。
少しずつ近づくペタペタという不自然な足音。
影を抜け、月の光を浴びたその姿にアルニカは一瞬口を動かすことを忘れた。
一点の交じりもない黒のしなやかな体、黒に映える黄金色の瞳、アルニカと少し距離を置いてそいつは座った。
「黒猫…………?」
群青の春の夜。
10時24分。
アルニカの音叉の振動も止まり、二つのアイコンは電脳の月に照らされて、沈黙した。