第四楽章‐3:音が聞こえる
あの夜から少し経ち、今は月曜日の朝である。
午前6時24分。
朝にも関わらずクロは空色の電脳世界を散歩していた。
「おいおい、遂に徹夜か………」
クロは空を見上げた。
ログアウトした後も結局アルニカの言葉を忘れられずに深夜徘徊をしていたのだ。
「とりあえず今日はサボるとして……」
週明けの通勤(通学?)をサボることまで考えていた。
何故ここまでアルニカを心配しなければならないのか、自分でもわからないまま人目につかない通りを歩く。
サボる理由もない人達が圧倒的に多いため、この時間帯にアイコンが見えることはない。
しかしクロはふとアイコンを一つ見つけた。
午前6時29分。
静まり返った蓮通りに、見覚えのあるアイコンが立っていた。
ピンクに白のレースの厚手のワンピース、ピンクの厚底ローファー、銀の長い髪、そして白い日傘。
そこにいたのは暗黒領域を起動した(ピンクロリータ気味)自動アイコンだった。
「おい、お前!!」
自動アイコンがクロを横目に見つめた。
クロは思わず口走った驚愕の一声に後悔した。
襲ってくるかもしれない奴に声かけるなんて自殺行為である。
しかし、
「アルニカなら心配いりませんよ」
「……………へ?」
意外な言葉にクロは首をかしげた。
その時だった。
空が鳴った。
* *
午前7時03分。
芦屋千代は寮長室に来ていた。
とはいえ寮長室の前だった。
「なんかストーカーしてるみたいよね………最低の人間に近づいてるのかも…………」
芦屋は美咲の部屋をノックしても誰も出ない事に違和感を覚えてこの状況に至る。
寝ているとしてもさすがに起きる時間である。
しかし、これを訴えるとイコール美咲の部屋に入りたい、とならないか?とどぎまぎしているのだ。
「おーい、いつまでそこにいるんだー?早く入れー。」
部屋の中から篠原の声が聞こえた。
芦屋は唾を飲み込んだ。そしてゆっくりと扉を開けた。
中はカーテンが閉まっていて、薄暗い部屋だった。
寮長の焦げ茶色のデスクで篠原が何か書類を書いていた。
「よう、芦屋」
「あ、お、おはようございます…………」
芦屋は口の端を吊り上げて言った。
言えません。
言えませんって!!
芦屋があの、その、と戸惑っていると篠原がため息をついた。
「美咲歩海なら実家でバカンスだ。学校にはそのうち戻れるらしいから安心しなー。」
芦屋は目を丸くしてホッとした。
しかしそれもつかの間、篠原のデスクに手をついた。
「って、そのうちって何ですか?!実家どんだけ遠いんですか?!」
「いや?すぐそこだ」
「ではすぐ帰ってこれるじゃないですか!!」
篠原がふざけた笑い声を上げる。
「大丈夫だよ、すぐ帰ってくるから安心しな」
「さっきそのうちって言ったじゃないですか!!」
「そんなに気になるのか?音姫が」
芦屋は少し恥ずかしげに笑った。
すると篠原が思い出したように手を叩いた。
「そういえば風紀の安西がお前を呼んでたぞ?事件の事じゃないか?」
安西は芦屋のクラスメイトであり、風紀委員会に所属している気難しい女生徒である。
芦屋は友達のようだが本当にかみ合っているのかは不明な仲である。
「あ、あとこれでお使い頼めるか?」
篠原は芦屋の手に500円玉を乗せた。
そして耳打ち。
芦屋の目が呆れと面倒臭さを語った。
篠原はもう一度お願いして、芦屋はやっとうなずいた。
芦屋は篠原のいる寮長室を後にし、安西の住まう311号室へと向かった。
芦屋の住まう305号室の向かいが315号室、311号室は一番奥の部屋である。
「誰が部屋に来いと言うたのじゃ」
驚きに肩を動かし、振り向いた先には黒髪の女生徒が立っていた。
風紀委員会、安西潔子だった。
きっと椿乃峰の制服が黒かったならものすごく綺麗な人だろう。
バッサリと切られた黒髪、黒い瞳、人形のような白い肌。
しかしその声はかなり低めだ。
「あ、きよだ!」
「気安く呼ぶでない」
朝から少々不機嫌な受け答えに芦屋は首をかしげた。
すると安西は携帯電話を開き、芦屋の耳に無理矢理当てた。
携帯電話から聞こえてきたのはバイオリンの独奏だった。
「ポッケリーニ作のメヌエット………」
安西が携帯電話を閉じる。
「これが今電脳世界中に流れている。花柳の隅々までな」
「?!」
不可能な事である。
花柳には電脳世界に音楽を隅々まで響き渡らせることができるほどの技術は存在しない。
各位置にスピーカーがあるなら別とするにもそんなものは設置されていない。
「通報が殺到じゃ。“空が鳴っている”とな」
「空が………鳴る?」
芦屋は予感がした。
しかしそれは、嫌な予感ではなかった。
* *
美咲歩海は言った。
完成した時空領域からは二度と出られないと。
アルニカは言った。
私なら出来るかもしれないと。
あの暗黒領域が広がる空の下、アルニカはクロに告げた。
「私の音を聴いてて」
クロは空を見上げた。
午前7時05分。
どこからともなくメヌエットが花柳中に響き渡っている。
優しい音色に多くのアイコンが電脳世界にログインしてきた。
「音が……聞こえる」
そして更に不思議な事に空から白い雲が無数に現れ、あらゆる色のついた音符が落ちてきた。
ふわふわと落ちてきた音符は時空領域が起きた現場に降り注ぎ、建物やアイコンに姿を変えた。
花柳が喜びの色で満ちあふれた。
再会を喜び、驚き、涙さえこぼれた。
自動アイコンの手にも音符が舞い降り、小さな緑色のオルゴールが乗せられた。
クロの前に静かに置いた。
クロはまだ空を見上げていた。
もう何も落ちてこないのか?
「アルニカ………?」
「そのオルゴールはアルニカのものです。帰って来たら渡して下さい」
そう言い残して自動アイコンはDELETION(削除)と表示されて消えてしまった。
クロはまだメヌエットの鳴り響く空を眺めている。
周りの喜びなんて気にしなかった。
救ったはずの張本人が帰ってこないのだから。
「まさかね………」
最悪の事態を考えた。
「死ぬわけ無いでしょ?」
「だよなー……………?………………?!」
クロは思わず振り返った。
そこには腕を組んだアルニカが仁王立ちしていた。
クロは目をまん丸にして言葉を失った。
「……ちょっと、クロちゃん?大丈夫?」
「遂に俺にも幻覚幻聴の症状が………」
アルニカはため息とともに肩を落としてクロを抱き上げた。
まだ音符は花柳に降り注いでいる。
「本物よ!もう少し喜ぶと思ったのに」
「………本物?」
確かに抱きしめられたアルニカの肌からは熱が伝わってきた。
ドキドキするくらいに心臓の音が聞こえた。
「…………本物だ」
アルニカがウンウンとうなずいた。
「この貧乳はアルニカだ」
「お前サイテー!!」
アルニカはクロを突き放すように地面へ落とした。
クロが背中を打ち、ピクピクと震えながら起き上がる。
そこをアルニカは髭を引っ張った。
「暴力反対!!」
「うるさい!この変態ネコめ!!」
しかし周りの状況にアルニカが手を止めた。
そこらじゅう人だらけである。
もしここでアルニカに注目が集まってしまったら正体がバレる可能性大だった。
アルニカはクロを抱えてハミングした。
人が一人座れるくらいの八分音符が出来上がり、その上に座った。
ふよふよと浮かんでいくアルニカに人々が大口を開けて歓喜する。
「あれは………」
「アルニカだ!!」
アルニカにとっては正体を知られないために逃げていたが、人々にとっては彼女が自分たちを救って帰っていくように見えていた。
桜色の髪が揺れ、青いリボンが風になびく。
膝に乗ったクロが春の温かさと徹夜で欠伸をかいた。
午前7時11分。
時空領域事件は解決した。