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虫が苦手な人は注意。
その夜、矢橋は夢を見た。
――しくしくしくしく……
誰かがすすり泣く声。誰だ? 声は聞こえるが、人の姿は見えない。
声の正体を探していると、足下から黒い靄が這い上がってきた。
得体の知れないそれは、矢橋の精神まで黒く蝕んでいくようだった。
痛み、苦しみ、悲しみ、憎しみ、恨み、妬み…………ドロドロした負の感情が、彼を呑み込もうとしている。
彼が必死で抗っていると、体内に入り込んだ黒々とした靄は蛆虫へと姿を変えた。
手足の先から脳の隅々まで、体の中を、大量の蛆虫に這い回られている気がして、吐き気を覚えた。
夢のはずなのに妙にリアルで、意識が遠のきそうになる。
そして、その隙を狙っている誰かが、矢橋の中で妖しく揺らめく。
何者かに浸食され、自分が自分で無くなっていく恐怖。
耐えきれず、絶叫した瞬間――目が覚めた。気持ち悪い蛆虫の感触も消えていた。
しかし、安堵したのも束の間。
不意に耳元に嫌な気配を感じ、矢橋はベッドから飛び出し、逃げようとした。
が、体が動かない。巨大な鉛にでも押し潰されているかのように、胸や腹が圧迫されて、息も苦しい。
それは体全体にのしかかっているようで、指一本すら動かすことが出来なかった。
これが夢の続きなら、さっさと醒めてくれ。そう思い目を見開くが、視界に広がるのはただ暗闇のみ。
ああ、俺は金縛りで圧死するのかと、矢橋が諦めかけた――その時。
ふっと、体の上から重さが消えた。
自由になった体をゆっくりと起こす。
窓の外に誰かが居る気がして、矢橋は部屋の窓を開けた。
マンションの下、薄明かりの中に見える、小さな人影。
「……上代……?」
悪夢と金縛りは、その夜から連日矢橋を苦しめた。それらから解放されて窓の外を見ると、そこには必ず上代の姿があった。
矢橋の脳裏に、彼女の言葉が甦る。
『先輩は今までにも罰ゲームで告白をされたことがありますね?』
そして、『六条御息所』という謎のヒント。
――これは、お前の仕業なのか? 上代。それとも……。
「『六条御息所』って何だっけ?」
矢橋は教室で、後ろの席にいる友人に訊ねた。
「源氏物語だろ? 光源氏の愛人の一人で、生霊となって正妻をとり殺し、死後も死霊となって紫の上を苦しめたっていう」
「……へぇ」
思わず昔流行った、無駄知識評価ボタンみたいな声が出ていた。
「それがどうかしたのか?」
それを訊きたいのはこっちである。
「いや、何でも無い」
――自称霊感少女の口から、生霊や死霊になった女の名前が出たということはつまり、俺は霊に憑かれているということなのだろうか?
それともこの場合、俺の立場は光源氏なのか? そんな考えも一瞬頭を過ったが、すぐに打ち消した。一介の平凡な高校生に、愛人だの正妻だのが居るわけがない。
――もし、何かに憑かれているのだとすれば、俺は殺されるのか?
連夜の悪夢と金縛りの感覚を思い出し、ゾクッとした。
友人は、もう一つ情報をもたらしてくれた。
「そういや、花岡がもうすぐ退院するらしいぞ」
――花岡? ……ってもしや。
「ああ、前に矢橋が罰ゲームで告白した子か。確か二カ月ほど前に、階段から落ちて大怪我したんだったっけ」
罰ゲームを提案した阿呆が、いつの間にか話に加わってきていた。
「ずいぶん長いこと具合が良くならなかったらしいのに、数日前から急激に回復しだしたって話だよ」
詳しく話を聞いていると、どうやら彼女の回復は、ちょうど矢橋の悪夢と金縛りが始まった頃からのようだ。……これの意味するところは?
――花岡に憑いていた悪霊が、俺に標的を変えた……ってことか?
それは裏を返せばつまり、矢橋が悪夢と金縛りの日々に遭うまで、花岡が酷いことに遭っていたということだ。全てを知っているらしい上代の口ぶりからすれば、それは矢橋のせいで。
『先輩は今までにも罰ゲームで告白を――』
矢橋が今までに嘘の告白をした相手は、上代を含めて三人。
一人目は秋峯、二人目が花岡で、三人目が上代だった。
――とにかく、秋峯の無事を確認しよう。
隣のクラスへ行き、ぴんぴんしている秋峯の姿を見て、矢橋はホッとした。
ショートカットの似合う彼女は、快活な笑みで矢橋を迎えてくれた。
秋峯のキャラクターは花岡とは真逆だ。
花岡はどちらかといえば大人しくて、クラスの中でもさほど目立たないような地味な子だったのに対し、秋峯はいつも明るくて、輪の中心に居るタイプ。
矢橋は、秋峯が元気のないところなど見たことが無かった。
それでも念のために、元気か? おかしなことが起きたりしてないか? と、しつこいくらいに訊く矢橋に、秋峯はきょとんとしていた。
「いや、何も無いなら良いんだ」
曖昧に笑って誤魔化す彼に、彼女は、
「ふーん、変な矢橋」
と言って、また笑った。