夕食の誘い
十分後、イシュレはフロントのある小さな広間にいた。
灰色のセットアップに着替えて。
つやつやとした光沢を持つそれは、着ると驚くほど軽く、まるでオーダーメイドであるかのよに体になじんだ。
やわらかな黒い髪を撫で付けてみたものの、その成果はあまりない。
癖毛というものはそういうものだ。
フロントにはこういうつもりだった。無料でご飯が食べれる場所を教えて下さいと。
しかし実際口をついたのは別の言葉だ。
「アダムの部屋を教えて下さい」
その響きに急に恥ずかしくなって目を伏せる。
そんなイシュレに、グレーの髪をつやつやと結い上げた若いフロント係が好奇の視線を投げかけた気がした。
「ガイドライトにそってお進みください、アダムさんの部屋へご案内致します」
フロントからアダムの部屋までは大分遠かった。
アダムはフロントからの連絡をうけていたようで、イシュレが部屋の前に着くと、ドアは中から開けられた。
「入ってもいいかしら」
「その為に来たんだろ?」
アダムは壁と一体化したパネルに向き直ったまま言う。
イシュレが部屋に入っていくと、アダムは腕を一振りしてパネルの内容を消した。
アダムの部屋は茶色を基調としていて、広さ、窓の大きさ、窓からの景色など様々な点でイシュレの部屋を上回っている。
「なんだ?」
アダムは側の椅子に腰を下ろして言った。
その顔は、特にどんな感情も映し出していない。
イシュレもベットの隅に腰掛けた。
「用事がなかったら来てはいけないの?」
「そりゃな、後で面白おかしく言われるんだよ、フロントのお姉さま方に」
帰れと言ってるんだろうか、イシュレは思った。
「お前いくつだ?」
「16よ」
アダムは一瞬疑わしそうな目をしたが、信じる事にしたようだ。
「だったら分かるよな、女が一人で男の部屋に来る意味を」
その言葉に、イシュレは座っていたベットを立ち上がった。
しかし向かった先はドアではなく、窓の方だ。
夕日が沈んだ後の紫に飲み込まれた町は、自分達を鮮やかにライトアップする事で眠る事を強烈に拒否している。
「つまりおいしい晩御飯をおごってほしいって意味でしょ」
「ご名答」
一瞬の沈黙の後に微笑みそう言うアダムを振り向いて、イシュレは怒ったような勝ち誇ったような顔をする。
アダムはイシュレにあわせてほんの少しいつもよりゆっくり歩き、それを敏感に感じとったイシュレをいい気分にさせた。
小型の運搬船(カプセル)から見える夜景は、イシュレを有頂天にさせた。
しかしそんなイシュレの気を知らず、船は下へ下へと高度を下げてゆく。
アセチルでは日当たりがよく景色が良い、高度が高い場所ほど価値が高い。
つまりアダムはお金をかけるつもりはない、そういう事だ。
二人が入ったのは質より量が勝負の料理と、旨いのに高くない酒が自慢、そんな店だ。
アダムは通い慣れているようで、ライトがちらつくカウンターでせっせと何かこしらえているマスターに見つかるなり声を掛けられる。
「よう久しぶりだな、誰だいそのかわいいお嬢ちゃんは」
「テストロンでの戦利品さ、酒の味を教えてやるんだ」
店内は人であふれている。
肉体労働者が多く、つまり会話の声の大きさなど気にしない人間が大半であり、店内は非常に騒がしかった。
少し強張っているイシュレの表情を見て、アダムは店の一番奥のわりと静かな一角に進んだ。
イシュレがメニューを見ても何も分からなかったので、注文はすべてアダムがする。
注文して程なく、巨大なグラスになみなみと注がれた酒が到着する。
それを一口飲んだアダムの顔が、人間らしくていきいきとした表情にぱっと変わる。
その単純さに驚きつつ、イシュレもそれを口にする。
確かにそれはおいしいが、テストロンで飲んだ“希望の満ちるジュース”ほどではなかった。