第9話「インクの染み」
【Side: Elizabeth】
放課後。 茜色に染まった教室は、静寂に包まれていた。 生徒たちは皆、三々五々に帰宅し、廊下からは楽しげな話し声も遠ざかっていく。 残っているのは、私──エリザベート・フォン・ローゼンただ一人。
私は自分の席に座り、こめかみを揉みほぐしながら、今日一日の成果(戦果)を振り返っていた。
(……引き分け、かしらね)
昼休みのスープ事件は、私の体調不良(薬の副作用)による自爆で、ミアに介抱されるという屈辱的な結果に終わった。 しかし、午後のホームルームでは挽回した。 正論によるマナー指導で、クラス全体を震え上がらせ、ミアにも「身分の差」を突きつけた。 彼女のあの真剣な表情。きっと、悔しさを噛み締めていたに違いない。 これで少しは、悪役としての威厳を取り戻せたはずだ。
(でも、まだ足りない。決定的な「嫌悪感」が不足している)
私は立ち上がり、教室の中央あたりに位置する、ミアの席へと歩み寄った。 ごく普通の、使い込まれた木製の机。 その上に、彼女が置き忘れたのか、それとも予習用に置いていったのか、一冊の教科書があった。 『初等魔法理論』。 まだ真新しい革の表紙が、夕日を反射して鈍く光っている。
「……仕上げよ」
私は、この教科書に**「誹謗中傷」**を書き込むことに決めた。 小学生レベルの嫌がらせだ。幼稚で、陰湿で、救いようがないほど低俗な行為。 貴族としての誇り高い攻撃(マナー指導)ではなく、こうした生理的な不快感を与える攻撃こそが、相手の精神を確実に削るボディブローとなる。 誰も見ていないところで、コソコソと私物を汚す。 これぞ、小者系悪役の真骨頂だ。
私は鞄から、羽根ペンとインク壺を取り出した。 現代日本のボールペンなら、キャップを外してサッと書ける。 だが、この世界の筆記用具はあまりにも儀式的で、そして犯罪には不向きだ。 インク壺の蓋を開けるカチリという音だけで、心臓が口から飛び出しそうになる。 私は周囲を警戒し、誰もいないことを三度確認してから、教科書の表紙をめくった。
真っ白な見返しページが現れる。 神聖な領域だ。 前世の私──冴島玲子にとって、教科書とは聖書にも等しい存在だった。 書き込みをするとしても、それは重要な判例や解釈のメモだけであり、決して私的な感情、ましてや悪口などを書き込むなど、言語道断。 それは「知」への冒涜であり、教育を受ける権利への侵害であり、器物損壊罪(刑法第261条)の構成要件に該当する可能性がある行為だ。
(……うッ、手が)
羽根ペンを握る右手が、小刻みに震えだす。 書けない。 理性が、倫理観が、全力で拒否している。 「やめろ玲子、それは人として越えてはいけないラインだ」と、脳内の裁判官が叫んでいる。
(黙りなさい! 今の私は悪役令嬢なのよ!)
私は奥歯を噛み締めた。 私が彼女に優しくすれば、彼女は私を断罪できなくなる。 彼女が私を断罪できなければ、世界は瘴気に沈む。 私がここで良心に従って筆を置けば、それは数億の命を見殺しにする行為と同義なのだ。 汚名を被れ。軽蔑されろ。 それが、お前の選んだ正義だろう!
「……書くのよ。書くの」
覚悟を決め、ペン先を紙に近づける。 狙うはページの右下。視界に入るたびに不快になる絶妙な位置。 書くべき言葉は、シンプルかつ拒絶の意志を明確に示す四文字。
『出ていけ』
ガリッ。
ペン先が紙を削る音がした。 だが、手の震えは止まらない。 罪悪感と緊張、そして「見つかったらどうしよう」という情けない恐怖で、指先のコントロールが全く効かないのだ。
「出」の字の一画目が、ありえない方向に曲がる。 「て」の字が、ミミズがのたうち回ったように波打つ。 「い」と「け」に至っては、もはや古代文字か何かのようだ。 しかも、力みすぎたせいでインクがドバッと出てしまった。 文字の輪郭がじわりと滲み、黒い触手のように広がっていく。
「…………」
私は羽根ペンを置き、その惨状を見下ろした。 酷い。あまりにも酷い。 公爵令嬢の筆跡とは到底思えない。 まるで、恨みを抱いて死んだ悪霊が、血の代わりに泥水ですすり泣きながら書いたような、おどろおどろしい文字。 達筆どころか、読むだけでSAN値(正気度)が削られそうな、呪いのアイテムが完成してしまった。
「……あ」
失敗だ。 修正魔法で消すべきか? 新しい教科書を弁償すべきか? 私が呆然としていると、ふと、ある考えが稲妻のように脳裏を走った。
(待って。……これはこれで、アリなのでは?)
そうよ。冷静に考えてみなさい。 整った文字で『出ていけ』と書かれていても、それは単なる「命令」に過ぎない。 しかし、この震え、この滲み、この制御不能な筆跡はどうだ。 ここには、書いた本人の**「尋常ならざる精神状態」**が刻印されている。 憎悪のあまり手が震え、殺意のあまり筆圧が強まり、理性が崩壊した果てに生まれた、狂気のメッセージ。
「……ふふっ。これぞ呪いの筆跡。これを見たら、ミアは私の底知れぬ狂気を感じ取って、戦慄するに違いないわ」
無理やりなポジティブ解釈で、羞恥心をねじ伏せる。 そうだ、これは計算された演出なのだ。 私は完璧な悪役だから、筆跡一つにも「狂気」を宿すことができるのだ。 決して、ビビって手が震えたわけではない。断じてない。
「恐怖に怯えるがいいわ、ミア・ゼン・シャーカン」
私は教科書をパタンと閉じた。 その音が、私の退路を断つ号砲のように響いた。 誰も見ていないことをもう一度確認し、私は逃げるように──いや、颯爽と教室を後にした。
廊下に出ると、西日はすでに沈みかけ、長い影が私の足元に伸びていた。 心臓はまだバクバクといっているし、手にはインクの汚れがついている。 胃が痛い。吐き気がする。 でも、私はやり遂げた。 今日という一日を、私は悪役として生き抜いたのだ。
「……明日の朝、彼女の悲鳴が聞こえるのが楽しみね」
震える声で独りごちて、私は公爵邸への帰路につく。 その背中は、世界を救う英雄というよりは、初めての万引きをしてしまった子供のように小さく丸まっていたが、私自身はそれを「孤高の影」だと信じて疑わなかった。
放課後の教室で、コソコソと陰湿ないじめを決行する公爵令嬢。
しかし、「他人の教科書に落書きをする」という器物損壊罪の重みに元・検察官の良心が耐えきれず、手がガクガクに震えてしまいます。
結果、生まれたのは悪意ではなく「呪いのアイテム」のようなおどろおどろしい文字。
本人は「狂気の演出に成功したわ!」と謎のポジティブ思考を発揮していますが、果たしてミアの目にはどう映るのでしょうか?
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