第23話「理解不能な聖女」
【Side: Elizabeth】
私の体は震えていた。 指先が、唇が、そして魂の根底にある何かが、制御できないほどの振動を起こしていた。 それは、死にかけたことへの恐怖ではない。 ましてや、自爆したことへの羞恥でもない。
怒りだ。 自分自身の救いようのない不甲斐なさと、そして何より、目の前の少女──ミア・ゼン・シャーカンの底知れぬ愚かさに対する、マグマのような怒りだ。
「……触らないで!」
私は、差し伸べられたミアの手を乱暴に振り払った。 パシッ、と乾いた音が、静まり返った演習場に響き渡る。 ミアが驚いたように目を見開き、そして一瞬、苦痛に顔を歪めるのが見えた。 背中を打ったのだ。私のせいで。私が間抜けな自爆をしたせいで。 その事実が、鋭利な刃物となって私の心臓をえぐる。
「どうして私を庇うのよ! 馬鹿なの!? 私は貴女を攻撃しようとしたのよ!?」
周りの目など気にせず、私は怒鳴りつけた。 喉が裂けそうなほど声を張り上げる。理性など吹き飛んでいた。 今ここで「悪役」を演じなければならないとか、そんな計算もすべて消え失せた。 ただ、目の前の許しがたい現実を否定したかった。
「これは自業自得の自爆よ! 私が未熟で、愚かで、性格が歪んでいるから起きた、天罰のような事故なの! それをどうして……よりにもよって貴女が、傷つく必要があるの!」
私の声は、悲鳴に近かった。 もし彼女の打ち所が悪ければ、死んでいたかもしれない。あるいは、二度と歩けなくなっていたかもしれない。 世界を救うはずの聖女が。この絶望的な物語における唯一の希望であるヒロインが。 私のような、いずれ断罪されて消えゆく運命の「悪役」の巻き添えになって失われるなんて。 そんな理不尽なシナリオ修正、あってはならないことだ。
「自分の価値を理解しなさい! 貴女はこの国の聖女候補でしょう!? その体は、貴女個人のものじゃないのよ!」
涙が溢れてくる。 止まらない。視界が滲んで、ミアの困惑した顔が歪んで見える。 悔しい。情けない。 私は彼女を傷つけるために、嫌われるためにここにいるのに。 彼女に断罪されることで、世界を救おうとしているのに。 なぜ彼女は、そんな私を守ろうとするのか。 これでは、私の存在意義がないじゃないか。私が泥を被る意味がないじゃないか。
「それを、こんな……私みたいな泥を被るべき人間のクッションにするなんて、冒涜よ! 身の程を知りなさい!」
あ、しまった。 「泥を被るべき」なんて言ってしまった。これでは自己卑下だ。 悪役なら、「私のような高貴な存在を守れて光栄に思いなさい」と言うべき場面だ。 分かっている。分かっているのに、口が勝手に動く。
「貴女は……貴女は、もっと価値のあることに命を使いなさいよ! 世界を救うとか、王子と恋をするとか、そういうキラキラしたことのために使いなさいよ! こんなくだらない事故で消費していい命じゃないの! 分からないの!?」
私はミアの肩を掴んで揺さぶりたかったが、彼女が怪我をしていることを思い出して、慌てて手を引っ込めた。 その中途半端で惨めな動作が、さらに私を追い詰める。 彼女を守るつもりが、傷つけてしまった。 世界を救うつもりが、危機に晒してしまった。 私は何をしているんだ。何一つ、まともにできないのか。
周囲の生徒たちが、遠巻きにこちらを見てざわめいている。
「公爵令嬢、あんなに取り乱して……」「ミアさんを心配しているのね」「なんて激しい友情……」
違う。そうじゃない。 私は彼女を心配しているんじゃない。世界の理が崩れることを恐れているだけだ。 そう自分に言い聞かせても、胸の痛みは消えない。
「……ッ、二度とこんな真似はしないで」
私は涙を手の甲で乱暴に拭い、充血した目でミアを睨みつけた。 せめて最後は、悪役らしく終わらせなければ。 彼女に恐怖を植え付け、二度と私に関わろうと思わないようにしなければ。
「次に同じことをしたら……私が貴女を殺すわよ。本当に、この手で息の根を止めてやるんだから!」
精一杯の殺し文句。 だが、その声は震え、ただの懇願のように響いたかもしれない。 「お願いだから死なないで」という、無様な本音が透けていたかもしれない。
私は逃げるようにその場を去った。 背中で、教師たちがミアに駆け寄る声が聞こえる。 「ミアさん! 大丈夫か!」「担架を持ってこい!」「医務室へ!」
私は一人、校舎の裏まで走った。 肺が焼けつくように痛い。 誰もいないレンガの壁の前で立ち止まり、拳を握りしめる。
「……くそっ!」
ドゴォッ!
思い切り壁を殴りつけた。 拳の皮が破れ、血が滲み、痛みが走る。 だが、そんなものはミアの背中の痛みに比べれば、蚊に刺された程度だ。 痛みで頭を冷やそうとした。 けれど、瞼の裏には、痛みに顔を歪めながらも私を気遣おうとしたミアの表情が焼き付いて離れない。
私は壁に額を押し付け、声を殺して泣いた。 悪役失格だ。 ヒロイン一人傷つけられないどころか、逆に守られて、無傷のまま泣いているなんて。 こんな私が、世界を救えるわけがない。
自分が怪我をさせてしまったことへの罪悪感と、シナリオの強制力(ヒロインが死ぬかもしれない恐怖)から、完全にパニックになって逆ギレするエリザベート。
「私のために傷つくな!」「世界を救うために命を使え!」という悲痛な叫びは、もはや悪役のセリフではなく、ただの不器用で必死な「お人好し」の魂の叫びです。
自暴自棄になって壁を殴り、一人で泣く姿が痛々しくも……やっぱり少しポンコツで可愛いですね。
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